アリの一言 

天皇制、朝鮮半島、沖縄の現実と歴史などから、
  人権・平和・民主主義・生き方を考える。
   

日本人はなぜ「12・8」を「記憶する日」にしないのか

2024年12月07日 | 日本人の歴史認識
 

 83年前の12月8日、太平洋戦争の火ぶたが切って落とされました。先の戦争を記憶・伝承する上で忘れてはならない日です。

 しかし、「12・8」がどういう日なのか知っている日本人、とりわけ若い世代の人はどれほどいるでしょうか。「8・15」にくらべ、その認知度は圧倒的に小さいでしょう。教科書で重視されず、メディアも「8月ジャーナリズム」とくらべてきわめて軽視しているからです。

 なぜ「12・8」は「記憶する日」として軽視されているのでしょうか。

 明仁上皇、美智子上皇后は天皇・皇后時代から、「記憶する日」として4つの日決め、皇居内で追悼しているといいます。「8・15」「8・6」「8・9」そして「6・23」(「沖縄慰霊の日」)です。「12・8」は入っていません。現天皇徳仁もこれに倣っているといわれています。

 これはきわめて象徴的です。

 「12・8」と他の4つの日とは性格がはっきり異なっています。「12・8」は日本がインドシナ(シンゴラ、コタバル)へ、続いてハワイ・真珠湾へ奇襲攻撃をかけ、太平洋戦争を仕掛けた日です。日本の「戦争加害の日」です。対して他の4つは、性質は異なりますが、いずれも日本が大きな打撃を受け敗北した、いわば「戦争被害の日」です。

 日本が太平洋戦争の開戦を宣告したのは、「12・8」の午前11時(真珠湾攻撃から7時間半後)に発布された天皇裕仁の「宣戦詔勅」です。裕仁はこの「詔勅」を、「帝国の光栄を保全せむことを期す」という言葉で結びました。

 「12・8」は日本の「戦争加害の日」、具体的には「天皇裕仁の太平洋戦争加害の日」なのです。

 明仁上皇や徳仁天皇がこの日を棚上げし、「天皇の聖断」などと喧伝される「8・15」などを「記憶する日」としているのは、さもあらん、というところですが、問題は学校教育とマスメディアによって、それに「国民」が巻き込まれていることです。

 これがいかに理不尽なことか、韓国と比較すれば明瞭です。

 韓国で「戦争」といえば朝鮮戦争ですが、「記憶する日」とされているのは「休戦協定」が締結された「(1953)7・17」ではなく、戦争が始まった「(1950)6・25(韓国語読みでユギオ)」です。その意味を翻訳家の斎藤真理子氏はこう指摘しています。

<韓国で、開戦の日付によって戦争が記憶され、語られていることは重要だ。日本では「八・一五」を終戦記念日として記憶し、毎年式典を開いて平和を祈っている。しかし、日本が真珠湾攻撃を行って太平洋戦争が始まった十二月八日には重きを置かない。つまり、戦争の出口だけを記憶し、入り口、つまり自分たちが戦争を始めた日のことは意識しない。
 逆に韓国では、戦争の入り口である六・二五を絶対視し、休戦協定が成立した七月十七日には関心を寄せない。(中略)

 「六・二五(ユギオ)」という呼び名の定着は、韓国社会が絶えず戦争の始まりに着目し、開戦の責任はどこにあるのかを強調してきたことを想起させる。この呼称一つに、戦争とともに生きてきたこの国の人々の思いが凝縮しているともいえよう。>(斎藤真理子著『韓国文学の中心にあるもの』イースト・プレス2022年)

 今回の尹錫悦大統領の「非常戒厳」に対し多くの市民が即座に抗議行動に立ち上がりました(写真右)。平和・民主主義の危機に対する韓国市民のこの敏感さは、「6・25」によってたえず「開戦の責任」を意識する市民社会の土壌がつくられていることと無関係ではないのでしょう。

 この点こそ日本市民に最も欠けている(失わされている)ことであり、韓国市民から学ぶべきものではないでしょうか。

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沖縄県政「ワシントン事務所問題」の根源は何か

2024年12月06日 | 沖縄・翁長知事
   

 沖縄県政では今、県の「ワシントン駐在事務所」が大きな問題になっています。
 県議会11月定例議会ではこの問題で、玉城デニー県政の2023年度決算が不認定になりました。不認定は1972年の「復帰」以降初めてです(写真左は11月10日付沖縄タイムス)。

 問題になっているのは、「非営利法人」として設置されたはずのワシントン事務所が、実は100%県出資の株式会社だと10月に判明したことです。県議会はもちろん玉城知事も知りませんでした。「県には設立の経緯に関する明確な記録も残されていない」(11月27日付沖縄タイムス)といいます。

 株式会社である以上、県は経営状況を議会に報告する義務がありますが(地方自治法)、県はまったく報告してきませんでした。

 玉城知事は決算不認定を「大変重く受け止めなければならない」(11月29日付琉球新報)とし、「駐在を巡る手続きの瑕疵について調査と整理をした上で必要な措置を講じたい」(同)としています。

 これはたんに1事務所の設置をめぐる手続き瑕疵の問題ではありません。

 ワシントン事務所が設置されたのは2015年4月。設置したのは、「オール沖縄」の支援で知事に就任した翁長雄志前知事(2018年8月死去、写真右の左)です。

 当初の計画を変更して株式会社としたことを県議会に報告せず、その経緯を記録に残さず、経営状況を一度も議会に報告しなかった責任は、翁長前知事にあります。

 問題は翁長氏だけではありません。

 ワシントン事務所問題が県議会で追及されたのは今回が初めてではありません。「(県政)野党の自民・無所属は…何度も追及してきた」(1日付沖縄タイムス)のです。しかし、今年6月の県議選までは与党(オール沖縄)が多数だったため事務所問題は顕在化しませんでした。

 同事務所の実態が9年半にわたって明らかになることなく、地方自治法違反を続けてきた責任は、県政与党の「オール沖縄」の各党・会派にもあります。

 また、県議会で「何度も」追及されたにもかかわらず調査して報道しなかったメディア、とりわけ県紙(琉球新報、沖縄タイムス)の責任も見過ごせません。

 重要なのは、「オール沖縄」陣営や県紙がこの問題を見過ごしてきた根底に、翁長前知事に対する無条件の支持、いわば“翁長タブー”があったと言えることです。

 ワシントン事務所問題だけではありません。
 翁長氏は「辺野古新基地反対」を掲げながら、新基地阻止の決め手である埋め立て承認の「撤回」を最期まで行いませんでした。高江の米軍ヘリパッド建設、浦添への米軍港移設、そして八重山諸島への自衛隊配備強化などの重大問題をいずれも容認してきました。

 翁長県政与党の「オール沖縄」各党・会派は、これらの重要問題をいずれも不問に付してきたのです。それどころか、翁長氏に配慮して県議会の質問時間を自ら短縮することさえしました(2015年12月15日のブログ参照https://blog.goo.ne.jp/satoru-kihara/d/20151215)。

 これは“翁長県政翼賛体制”あるいは”翁長タブー“と言わざるをえません。ワシントン事務所問題が9年半表面化しなかったのはその一環です。

 ワシントン事務所問題が提起していることは、翁長県政の3年9カ月を、辺野古新基地問題を含め、公正な目で徹底的に総点検・総検証する必要があるということです。
 それは沖縄だけでなく、日本の反基地・平和闘争の歴史にとって貴重な教訓を後世に残すことになるでしょう。


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韓国「非常戒厳」騒動の教訓は何か

2024年12月05日 | 朝鮮半島の歴史・政治と日本.
   

 韓国・尹錫悦(ユン・ソクヨル)大統領が3日深夜唐突に布告した「非常戒厳」は、5時間余で幕を閉じました。短い騒動でしたが、教訓は小さくありません。

 当時のもようをハンギョレ新聞(4日付日本語電子版)からみてみましょう。

<尹大統領は前日(3日)午後10時28分に緊急談話を通じて「自由憲政秩序を守るために非常戒厳を宣布する」と宣言。軍は戒厳司令部に直ちに転換され、「政党活動、集会などの政治活動を禁止」するなど6つの事項が含まれた「布告令1号」を同日午後11時を期して発令し、軍兵力を動員して国会への進入を試みた(写真左、中)。

 怒った市民たちは国会の前に集まり、戒厳解除を要求して抵抗した。与野党議員190人は尹大統領の戒厳宣布から約150分後の4日午前1時頃、本会議を開き、全会一致で非常戒厳解除要求決議案を可決した。>

市民たちは3日夜、尹大統領の非常戒厳宣布のニュースが流れた直後、国会前で「戒厳解除、独裁打倒!」と叫んだ(写真右)。市民たちは国会の正門を塞いだ警察に抗議し、国会に入ろうとする戒厳軍を全身で阻止した。

 国会前に集まった市民の数は、4日午前0時を回ってからさらに増えた。現場にいた警察はこの日0時20分基準で「1千人以上が集まったようだ」と語った。市民たちは黒い服装の戒厳軍が国会に進入しようとすると、彼らに立ちはだかった。一部の戒厳軍が市民たちの制止を振り払って国会に進入したが、一部は市民の反発により迂回して後退した。>

 ハンギョレ新聞の社説(4日付)は、「理性を失った非常戒厳、国民に対する反逆だ」と題して、こう指摘しています。

空挺部隊が国会に進入し、市民と対立する一触即発の状況が生じた。…国会の迅速な戒厳解除要求と軍・警察の理性的な判断が、平和裏に事態を収束させたわけだ。危うく流血の事態に発展するところだった大統領の独裁的発想が合法的に制御されたという点で、非常に幸いだ」

 今回の「非常戒厳」騒動が流血の大惨事に至らなかったのは、第1に、多くの市民の迅速な行動によって軍隊(戒厳軍)の国会突入を阻止したこと。しかし、当然市民の物理的力は軍隊に及ぶものではありません。従って第2に、「軍・警察の理性的な判断」があったことが挙げられるでしょう。

 軍がなぜ「理性的な判断」を行ったのか、背景はこれから明らかにされるでしょうが、何度も戒厳令を発して独裁体制を固めた朴正熙(パク・チョンヒ)大統領の側近だった康仁徳(カンインドク)・元韓国統一相(93)はこう語っています。

「朴正熙政権時代、何度も戒厳令の現場を見てきました。戒厳令を維持するためには、まず第一に軍部の支持が必要です。朴大統領は当時、軍を掌握し、軍が朴氏に対する忠誠心を競っているような状態でした。…今の軍部が一致団結して尹氏に従うとは思えません。…準備不足のまま、布告したのだと思います」(4日付朝日新聞デジタル)

 以上からいえることは、「非常戒厳」(戒厳令)維持のためには軍部の協力(掌握)が不可欠だという真理です。言い換えれば、一見「民主国家」に見える体制でも、軍隊は権力者の下で市民を弾圧し、独裁体制を支える要になるということです。

 ここに国家権力が軍隊を必要とする最大の理由があります。

 今回の韓国市民の迅速な抗議・抵抗は称賛されますが、軍に対する市民の抵抗が奏功することは希です。「シビリアンコントロール」という美名は「戒厳令」のもとでは紙切れでしかありません。

 最大の暴力装置である軍によって市民を弾圧し、民主主義を圧殺する国家権力に市民が対抗するためには、「軍隊のない国」をつくるしかありません。

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ゼレンスキー氏「方針転換」もNATO頼みでは前途なし

2024年12月04日 | 国家と戦争
  

 ウクライナのゼレンスキー大統領は1日、共同通信の単独会見で、「ロシアが2014年に併合したクリミア半島を含む一部の占領地について、武力での奪還が困難だと率直に認め、外交で全領土回復を目指す必要があると述べ」ました(3日付京都新聞など=共同)。

 共同通信は「2022年2月のロシアによる全面侵攻開始以来、戦争遂行に関する最大の方針転換と言える」と評しています。

 たしかに、「武力」ではなく「外交」でというのは注目すべき、そして評価すべき「方針転換」です。
 しかし、これには重大な前提条件がつけられています。ゼレンスキー氏はこう述べています。

「外交解決を探らなければならない。ただロシアが新たな侵略を仕掛けられないほどウクライナが強くなった時に初めて外交的手段を考えることができる。NATO(北大西洋条約機構)に代わる案は経験上存在しない」(会見要旨=3日付沖縄タイムス掲載より)

 ゼレンスキー氏は、「ウクライナが外交の場で強い立場を保つためNATOに招待してほしい。最も現実的な安全保障となる」(同)と繰り返しています。

 ゼレンスキー氏が「NATO加盟」にこだわる以上、真の「方針転換」とは言えず、またそれを「外交」の前提条件にする限り、前途は暗いと言わざるをえません。

 それはトランプがウクライナのNATO加盟に難色を示しているからではありません。

 そもそも「今回のロシアによるウクライナ侵攻の直接の契機になったのはNATOの東方拡大」(下斗米伸夫・法政大名誉教授『プーチン戦争の論理』集英社インターナショナル新書2022年10月)です。
 すなわちこの戦争は、「ロシア対アメリカ・NATOの代理戦争」(伊勢崎賢治・元国連職員『14歳からの非戦入門―戦争とジェノサイドを即時終わらせるために』ビジネス社2024年6月)だからです(9月30日、11月4日のブログ参照)。

 その一方の陣営の「アメリカ・NATO」に頼っている限り、「代理戦争」から抜け出すことはできません。

 ウクライナがこの戦争から抜け出す道は、ゼレンスキー氏の拘泥とは逆に、NATO加盟を断念し(非軍事同盟)、中立化へ舵を切ることです。
 そしてそれを、国連はじめ国際平和組織やグローバルサウスの国々、そして国際世論が支援することです。

 ゼレンスキー氏は共同通信との会見で、「われわれは領土でなく人命を最優先に考える」(前掲会見要旨)とも述べています。その言葉が本心なら、アメリカ・NATOに頼るのではなく、平和を願う国際世論を信頼して、直ちに「外交」による停戦に踏み切るべきです。

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ウクライナ駐日大使が靖国参拝、批判で削除

2024年12月03日 | 国家と戦争
  「韓国がなぜウクライナに兵器を供与しなければならないのか」と題したハンギョレ新聞の論評記事(11月30日付日本語電子版)に、注目すべきことが報じられていました。

 記事の要点は「ウクライナは韓国の同盟国でもないのに、なぜ当然の権利を行使するかのように兵器の請求書を突きつけるのだろうか」「ウクライナにとっては北朝鮮がロシアを助けるのが問題だが、韓国にとってはロシアが北朝鮮を助けるのが問題」「朝ロ密着を遮断することに外交的努力を集中するのが賢明」と、「兵器供与」でなく「外交」の重要性を主張したものです。その中に次のくだりがありました。

<ウクライナはロシアの侵略戦争を批判し、韓国に兵器支援を要請しながらも、韓国が被害を受けた日本の侵略戦争には無神経な歴史認識を示した。9月3日、駐日ウクライナ大使館はXに「セルギー・コルスンスキー大使が靖国神社に参拝し、祖国のために命を失った方々を追悼した」という文と写真を投稿した。靖国神社の参拝が日本の戦争犯罪を擁護する行為という批判が高まったことを受け、駐日ウクライナ大使館は翌日、この投稿を削除した。>(11月30日付ハンギョレ新聞、写真は削除されたコルスンスキー大使の靖国参拝写真=同紙より)

 ウクライナ大使館が公式にXに投稿し(9月3日)、「批判が高まった」というのですから、日本のメディアは当然知っていたはず。にもかかわらず、(私が見た限り)報道しませんでした。政府が進めている「ウクライナ支援」に不都合な事実は(大きく)報道しない。メディアの劣化がここにも表れています。

 ゼレンスキー政権が「日本の侵略戦争には無神経な歴史認識」しかもっていないことを示すのは今回の「靖国参拝」が初めてではありません。

 ロシアの軍事侵攻から間もない2022年4月、ゼレンスキー政権は公式アカウントで、プーチン政権を「現代のファシズム」と非難する内容のツイッターを掲載しました。この中で、「ファシズムとナチズムは1945年に敗北した」として、ヒトラーとムソリーニと天皇裕仁の顔写真を並べて載せました。

 これに日本政府(岸田政権)が抗議。ゼレンスキー政権は4月26日、裕仁の写真を削除しました。コルスンスキー駐日大使は25日のツイッターで「制作者の歴史認識不足。深くおわび申し上げます」と謝罪したのです(22年5月4日のブログ参照https://blog.goo.ne.jp/satoru-kihara/d/20220504)

 天皇裕仁をヒトラー、ムソリーニと並べて「ファシスト」と批判したことは正当です。にもかかわらず日本政府の抗議を受けて削除し、「歴史認識不足」として謝罪した。このことは、日本政府から支援を得る政治的思惑のためには「歴史認識」を公式に変更する(投げ捨てる)ことをも辞さないゼレンスキー政権の体質を示したものです。

 駐日大使の「靖国参拝」もその延長線上にあったと思われます。ところが今回は逆に、「靖国参拝」が侵略戦争を美化するとの批判を受けてXを削除する事態になったわけです。

 政治的思惑を優先して右往左往するゼレンスキー政権の「歴史認識」が問われます。

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