アリの一言 

天皇制、朝鮮半島、沖縄の現実と歴史などから、
  人権・平和・民主主義・生き方を考える。
   

日本人は「柳条湖事件」を知っているのか

2024年09月21日 | 日本人の歴史認識
   

 中国・深圳で18日午前、日本人学校に通う児童(10)が男に刺され、その後死亡しました。その動機を含めこの事件の詳しい内容はまだ(20日夜現在)分かっていません。

 にもかかわらず日本のメディアは、「日本人学校“愛国”の標的に」の見出しをつけ、「事件が起きた18日は満州事変の発端となった柳条湖事件から93年を記念する行事が中国各地で開催され、反日感情が高まっていた」(20日付京都新聞=共同配信)と書き、事件の動機が政治的なものであるかのような印象を与えています。

 「識者」コメントの中にも、「柳条湖事件から18日で93年…容疑者は、この節目の日を選んで反日感情を示す行動に出た可能性がある」(静岡県立大客員研究員・諏訪一幸氏、19日付朝日新聞デジタル)とするものもあります。

 しかし今は、「容疑者像や動機について情報がない以上、この痛ましい事件について軽々にコメントすることは差し控えねばなりません。原因を究明し、再発防止策を講じることは極めて重要ですが、個別の事件をもって中国社会全体、日中関係全体を語ることは禁物です」(小嶋華津子・慶応大学教授、20日付朝日新聞デジタル)という指摘こそ傾聴すべきでしょう。

 事件に政治的動機があるのかどうかはこれからの問題として、そもそも「柳条湖事件」とは何だったのか、どういう意味をもつ「事件」だったのかを、どれほどの日本人が知っているでしょうか。

 それが分かっていなければ、「柳条湖事件から93年」と言われても、ただ、中国人は100年近く前のことで反日感情を強めるのか、という反中国感情を掻き立てるだけではないでしょうか。

「1931年9月18日、自らの手で柳条湖付近の満州鉄道線路を爆撃した関東軍は、これを中国側の犯行であると称して、満州(中国東北地方)全土の軍事占領に乗り出した。関東軍の狙いは、日本帝国主義にその鋒先を向けていた中国の反帝民族運動を制圧し、満州を対ソ戦のための軍事基地として確保し、さらにはこの戦争をきっかけとして、日本国内の政治体制をファシズム体制の方向に切り換えていくことにあった」(吉田裕氏『天皇の昭和史』新日本新書1984年共著)(写真右は爆撃直後の現場)

 「柳条湖事件」はたんなる一地域の単発的な「事件」ではありませんでした。それは帝国日本の15年にわたる中国・東アジア侵略戦争、そして国内ファシズム体制確立の突破口となった謀略事件だったのです。

 中国が「9・18」を「国辱の日」としているのはそのためです。
 そして日本は、今に至るもその侵略戦争に対する真摯な反省をおこなっていません(閣僚・国会議員の「靖国参拝」はその一例)。歴代自民党政権は侵略戦争の歴史の隠ぺい・改ざんを図ってきました(教科書検定など)。

 いかなる理由・背景があろうと、暴力が許されないことは言うまでもありません。

 同時に、国と国の関係は両国間の今日に至る歴史を抜きには考えられません。
 とりわけ中国、韓国、朝鮮民主主義人民共和国とどういう関係を築いていくかを模索するうえで、日本が犯した侵略戦争、植民地支配の歴史認識は不可欠です。国家権力が隠そうとするその歴史を知ること学ぶことは日本市民の責任です。

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ウクライナ・必要なのは「勝利計画」ではなく「即時停戦交渉」

2024年09月20日 | 国家と戦争
  

 ウクライナのゼレンスキー大統領は近く訪米し、バイデン大統領らに<戦争終結案「勝利計画」>を提示します。その内容が19日付の京都新聞(共同配信)に掲載されました。

<戦争終結案「勝利計画」のポイントは、①必要な米欧製兵器の種類、数量、納期、使用の狙いを説明し、長射程ミサイルによるロシア領攻撃の容認を要求②ウクライナの軍需産業への投資要請。必要額提示③ロシア西部クルスク州への越境攻撃の成果を説明④対ロ制裁の抜け穴を指摘。ロシアへの外交圧力を強化⑤ウクライナの北大西洋条約機構(NATO)早期加盟を要求>(19日付京都新聞=共同)

 一見して明らかなように、これは停戦・和平案ではなく、あくまでもウクライナが「勝利」するために、アメリカはじめNATO諸国に軍事支援のさらなる強化を求める「計画」です。ウクライナが「勝利」する以外に「戦争終結」はありえないというゼレンスキー氏の持論を具体化したものです。

 この「計画」がもたらすものは戦争の一層の激化・長期化以外にありません。

 ウクライナ、ロシア両軍の死傷者はすでに100万人に上っています(17日の米紙ウォールストリート・ジャーナル)。これに市民の死傷者数を加えればその数ははるかに上回ります。「勝利」以外に「終結」はないとする姿勢に固執すれば犠牲者は増えるばかりです。

 いま必要なのは即時停戦であり、それに向けた国際世論と仲介です。

 その動きがこの1年数カ月まったく見られない(表面化しない)のはいったいどうしてでしょうか?

 昨年の2~4月ごろには、中国やブラジル、アフリカなどグローバルサウスの国々からも和平案が提示されました。

 日本でも、和田春樹氏、羽場久美子ら学者・ジャーナリスト31氏が連名で即時停戦を訴える「声明」を発表しました(23年4月5日、写真右)。(23年4月8日のブログ参照)

 「声明」は、「いまやNATO諸国が供与した兵器が戦場の趨勢を左右するにいたり、戦争は代理戦争の様相を呈しています」「G7支援国はこれ以上武器を援助するのではなく、「交渉のテーブル」をつくるべきなのです。グローバルサウスの中立国は中国、インドを中心に交渉仲裁国の役割を演じなければなりません」と指摘していました。

 その指摘はきわめて適切であり、いままさに強調されるべき視点です。31氏の中にはすぐれた学者が多く含まれています。パレスチナ情勢などその後の経過も踏まえ、第2の「声明」を今こそ発表することを強く期待します。


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書店減少と言論表現の危機とライフスタイル

2024年09月19日 | 日本の政治・社会・経済と民主主義
 

 2023年度の国語世論調査によれば、1カ月に「本(雑誌・漫画は除く)を読まない」人は62・6%で、初めて半数を超えて過去最多になりました(18日付各紙)。

 本を読む人の減少と相関関係にあるのが、市井の書店の減少です。

 書評家の三宅香帆氏は「書店という小売りを守る方法」と題した京都新聞夕刊(13日付)のコラムで、「2024年3月時点の(全国)書店数は1万918店。これは10年前と比べて、4600店あまり減った数になる」という実態を示し、こう述べています。

「日本国内の小売りをいかに守るか、それを真剣に考えることが、今後の自分たちの首を絞めない方法だと思っている。…外資企業から日本企業をいかに守るか

 三宅氏は名指ししていませんが、この「外資企業」にアマゾンが含まれていることは明らかです。

 三宅氏は読書文化の視点から「書店を守る」必要性を強調していますが、朝日新聞論説委員の高重治香氏は、「表現の自由」の視点からこう指摘します。

「気になるのは、表現の自由と国家の関係が、様々な領域で変わりつつあることだ。…一つの例が書店。人口減や情報を得る手段の多様化で、減少に歯止めがかからない。書店主らが自民党に働きかけて議員連盟ができ、経済産業省が「書店振興」の旗を振る。…国に「行くべき場所」とお墨付きをもらうようで切ない」(14日付朝日新聞デジタル)

 書店の減少が国家や政権党の介入を招き、書店が持つ「表現の自由」の機能を損ねるのではないかという危惧です。

 それは「切ない」だけでなく、社会のあり方・進路にかかわるきわめて重大な問題です。

 元富山大教員の小倉利丸氏(反監視運動JCA-NET)は、政府が「安保3文書」(2022年12月)以降急速に強化している「サイバー安保」の危険性との関連で、こう指摘します。

AmazonやGoogleなどの巨大な多国籍資本は世界規模で公的なインフラを引き受ける事業を展開し、無際限にデータを保存することで、事実上国家の統治機構の重要な一翼を担うことになっている」(季刊誌「アジェンダ」24年秋号)

「私たちの言論表現の自由やプライバシーの権利を確保するためには…私のデータを渡さないことが最も大切なことになる。…今追求すべきは、個人データの提供なしに生存権が保障される公的サービスの仕組みへと社会全体を組み換えることだ。これは、戦争に動員するためのデータの提供を拒否し、政府や民間企業が押し付けるライフスタイルから自分たちの生き方を切り離すことと表裏一体の関係にあると思う」(同)

 まちの書店の減少、言論表現の自由の危機、国家と巨大資本(ビッグテック)による個人情報の収集・管理。それが一本の糸でつながります。

 三宅氏は、「自分たちの、文章を読む流れを止めないために、書店に行って、本を買おうと思う。一個人でできることはそれくらいかもしれないが、それでも、書店に行く人をひとりでも増やすこと、それが自分のやりたいことだと思う」(前掲)と述べています。

 私も安易にパソコンでアマゾンからで本を購入してきたことを反省します。これからは極力まちの書店で買おうと思います。ささやかなことですが、「政府や民間企業が押し付けるライフスタイルから自分たちの生き方を切り離」し、国家・巨大企業の統治から自由と権利を守る一歩として。


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今も続く枯葉剤被害と日本の加害責任

2024年09月18日 | 日米安保・軍事同盟と政治・社会
   

「ベトナム戦争で米軍が散布した枯れ葉剤による猛毒ダイオキシンの健康被害は、直接浴びたり、汚染された農作物や魚などを食べたりしたベトナムの市民や兵士たちだけでなく、その子孫にも重篤な障害や健康被害などを及ぼし続けている」(2日付朝日新聞デジタル)

 米政府は被害を受けた帰還米兵には補償をし、枯葉剤の製造企業も和解金を支払っています。しかし、ベトナムの人たちの被害には見向きもしていません。

 そんな不正をただそうと、フランス在住のベトナム人女性トラン・トー・ニャーさん(82)が製造企業を相手取って訴訟を起こしました(2014年)。枯葉剤問題を追及し続けているドキュメンタリー映画監督の坂田雅子さん(76)はこれを支援し続けています(写真中の左がニャーさん、右が坂田さん=2日付朝日新聞デジタル)

 その控訴審判決が8月22日にあり、1審判決(21年)同様、損害賠償請求は棄却されました。坂田さんは朝日新聞のインタビューでこう話しています。

「ニャーさんは一審の判決後、「私たちは勝った。過去の忘れ去られた問題を今に引き出した」と言っていました。広く問題提起したいという意味合いが、この訴訟にあったのだと思います。最高裁までいくと言っていますが、82歳として最後の力を振り絞り、うやむやにさせないよう続けていくのだと思います」(2日付朝日新聞デジタル)

 さらに坂田さんはこう指摘します。

枯れ葉剤の問題は日本にとっても遠い話ではありません。枯れ葉剤と同じ成分を含む除草剤は日本でも使われていましたが、使用が禁止された後、処理しきれず、林野庁が全国の山林に埋めています。こうした問題をうやむやにしたままだと、また同じようなことが起きるかもしれません」(同)

 枯葉剤問題は日本・日本人にとってけっして他人事ではありません。それは坂田さんが指摘する意味とともに、ベトナム戦争(1964~75)で米軍が散布した枯葉剤(写真左)は日本でも製造されていたという重大問題があるからです。

 今年5月に出版された原田和明さんの『ベトナム戦争 枯葉剤の謎―日米同盟が残した環境汚染の真実』(飛鳥出版)は、多くの気付きを与えてくれます。(以下同書から私の要約)

 ▶1967年4月、米軍は枯葉作戦の強化によって枯葉剤が不足し、国内生産能力の4倍の枯葉剤を国外に発注。同年10月、三井東圧化学(1997年に三井化学に社名変更)が枯葉剤(245TCP)の生産を開始した。

 ▶朝日新聞(1968年7月12日付夕刊)がそれを「枯葉剤国産化疑惑」としてスクープ。三井東圧化学は批判を避けるため、オーストラリアなどを経由する手法(ロンダリング)を使っていた。

 ▶枯葉剤製造の米企業・モンサント社と三菱化成の合弁会社・三菱モンサントも枯葉剤(PCB)の製造を開始した(1969年9月)。

 ▶モンサント社に後れをとった米ダウ・ケミカル社は枯葉剤の破壊効果を高めるため、ナパーム弾(焼夷弾)との併用を米軍に提案。使われたナパーム弾は日本製だった(国会で追及されたが政府は企業名は答えなかった)。

 ▶佐藤栄作首相(当時)にとって、枯葉剤もナパーム弾も防衛産業育成の一環だった。

 ベトナム戦争では、日本とくに沖縄が米軍の出撃・兵站基地になったことは知られています。しかしそれだけでなく、枯葉剤攻撃にも日本が加担していたことはあまり知られていないのではないでしょうか。

 坂田さんが指摘する枯葉剤と同じ成分の除草剤の廃棄(国内18道県58カ所)の危険性とともに、ニャーさんらベトナムの被害者への補償に、日本・日本人が無関心でいることは許されません。

 日本は、「終戦以来79年…今日の我が国の平和と繁栄が築き上げられた」(天皇徳仁、8月15日の戦没者追悼式典あいさつ)という言葉に代表されるように、自国が戦場にならなかったことを「平和」として謳歌してきました。しかし、朝鮮戦争、ベトナム戦争の2つをとっても、日本はアメリカに従属して直接参戦していました。その加害の歴史を「平和」の美名で消し去ることはできません。


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自民総裁選キャンペーンに加担する「識者」の責任

2024年09月17日 | 政権とメディア
  

 自民党とマスメディアの二人三脚(共謀)による自民党総裁選キャンペーンはますますエスカレートしています。予想通りとはいえ、目に余ります(8月22日、9月5日のブログ参照)。

 その元凶はもちろん自民党とメディアですが、メディアに登場して総裁選について論評している「学者・識者」の責任も見過ごせません。テレビのワイドショー常連の「御用学者・評論家」は論外とし、ここではいわゆる「リベラル」とみられている学者の論評を検証します。

 中島岳志・東京工業大教授(政治学)は13日付京都新聞(共同配信)で、「政局より大きなビジョンを」との見出しで寄稿しています。

 中島氏は、自民総裁選を「実質的に、次の日本のかじ取り役を決定する選挙である」と断じ、だから「政局だけでなく、ビジョンを争ってほしい」と要求。「争点はどこにあるのか?」として、「自助を強調する自己責任型の政治」か「共助・公助を重視する再配分強化型」かだとしています。

 そして石破茂氏と小泉進次郎氏の主張を詳しく紹介し、「大きな政治の軸を巡って論点を提示し、他の候補者も絡む形で、議論が活発に行われることが望ましい」と結んでいます。

 大西充子・法政大教授(社会学)は、13日に日本記者クラブが主催した候補者討論会での石破氏と小泉氏の発言を比較し、こう評しています。

「野党の疑問や指摘にどこまで正面から向き合って答えるのか、そこで何を語るのか、少なくともそこまでが示されたうえではじめて、この内閣にそのまま政権を任せてよいのかの判断材料を国民が多少とも得ることができると言えるでしょう」(14日付朝日新聞デジタル)

 両氏の論評に共通しているのは、自民総裁選を「実質的に」次の首相を選ぶ選挙だとし、そのために何を「争点」にすべきか、誰が次期首相にふさわしいかを論じていることです。
 NHKなども「事実上、次の首相を選ぶ自民党総裁選」というワードを繰り返しています。メディアが総裁選報道に狂奔している言い訳もおそらくこれでしょう。

 しかし、ここには重大な落とし穴があります

 それは、自民党総裁を選ぶのはあくまでも自民党国会議員と自民党員であり、一般市民・有権者ではないという厳然たる事実です。その意味で、総裁選は自民党の内部問題であるという枠を一歩も出ることはできません。

 にもかかわらず、「争点はどこにあるのか」「そのまま政権を任せてよいのか」「判断材料を国民が得る」などと論じることは、まるで自民総裁選が一般市民もかかわる(参加する)選挙であるかのような錯覚を与えます。

 それはたんなる錯覚にとどまらず、近く必ず行われる総選挙において、総裁選で選ばれた者が率いる自民党がやはり次も政権を担う政党であるかのような印象(イメージ)を与えます。それが総選挙で自民に有利に作用することは必至であり、そこにこそ自民党の狙いもあります。

 首相はあくまでも「国会議員の中から国会の議決で」(憲法第67条)指名されるのであり、その国会は「全国民を代表する選挙された議員でこれを組織する」(同43条)。これが主権在民の議会制民主主義です。

 自民党という1政党の党首選挙(総裁選)で首相が決定するとする報道・論評は、議会制民主主義を形骸化させるものに他なりません。「実質的に」とか「事実上」という前置詞を付けても言い訳にはなりません。

 こうした重大な問題点を捨象し、自民党の膨大な宣伝に手を貸している総裁選キャンペーン。メディアとともにそれに同調している「学者・識者」の責任もきわめて重いと言わねばなりません。

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