


帝国日本の敗戦で、東南アジアに残された兵士うち約10万人が約2年間、現地で強制労働を強いられました。「南方抑留」です。その実態は「シベリア抑留」よりもさらに知られていませんが、当事者が抑留生活の中で描いた貴重なスケッチ画が数多く残されています。
描いたのは野田明さん(1922~2018年、佐世保市)。そのスケッチ画の展示企画が、元兵士らの川柳、文集とともに、京都市内のおもちゃ映画ミュージアムで行われています(写真左、12月24日まで)。
2日には同ミュージアムの主催で、この問題の研究を続けている中尾知代・岡山大大学院准教授の講演、野田さんの長男・明廣氏のとの対談が同志社大学で行われました。
南方抑留者は「捕虜」ではなく「降伏日本兵(JSP)」として国際法(ジュネーブ条約)の適用外とされました。イギリスの支配下に置かれ、現場での監視は現地の人が任されました。
主に農地の開墾開拓や空港建設などに従事させられ、昼食はおにぎり1個など極度の空腹状態に置かれました。野田さんのスケッチの中には、仲間が大蛇を料理する場面を描いたものもあります(写真中)。マラリアなど熱帯地方特有の病気に苦しんだのも南方抑留の特徴です。
野田さんが挿絵とともに残した仲間の川柳の中には、「いかんせん 原子発明 おそかりし」というものがあり、広島・長崎への原爆投下の情報が早期に現地にも伝わっていたことをうかがわせます(写真右)。また、「何もかも 軍部に 罪をなすりつけ」と、JSPの複雑な心境を表したものもあります。
これまで「JSP」という言葉すら知りませんでしたが、貴重な資料や中尾氏、野田さんの話から多くを学びました。ただ、中尾氏も指摘していたように、まだまだ明らかにされていないことは少なくありません。
例えば、野田明さんがスケッチを描いたのは、上官の命令で、それを日本政府の復員局に送って現地の窮状を訴え「帰還」を促すためでしたが、実際に復員局に送られ届いたのか?届いたとすれば政府はどう受け止めたのか?
そもそもイギリスはなぜJSPに強制労働をさせたのか?
特に私が注目したいのは、現地(現在のマレーシアやミャンマーなど)の人々との関係です。日本軍の侵略を受けた現地の人々はJSPをどう受け止めたのか。逆にJSPの人たちはどうだったのか。侵略戦争の加害性についての意識・認識はあったのだろうか―。
「南方抑留」は「戦争」というものを考える上で、今日的な意味を持っている問題です。引き続き関心を持ち続けたいと思います。