アリの一言 

天皇制、朝鮮半島、沖縄の現実と歴史などから、
  人権・平和・民主主義・生き方を考える。
   

沖縄の土地規制法指定は戦争国家の入口

2023年05月16日 | 沖縄と日米安保・米軍・自衛隊
   

 岸田政権は12日、「土地規制法」(住民監視法=2021年6月16日成立、22年9月20日施行)の対象地域として、石垣、宮古、与那国など沖縄県内39カ所を指定しました。8月ごろ正式決定します。「政府は今後、沖縄本島の米軍、自衛隊施設なども追加指定していく方針」(13日付琉球新報)です。(写真左・中は指定された陸自石垣駐屯地周辺と与那国駐屯地)

 指定された地域の住民からは、「法の恣意的運用への懸念や、規制によって住民が声を上げづらくなるとの恐れから「戦前回帰だ」と批判する声」(同琉球新報)が挙がっています。

 指定された地域はいずれも自衛隊の拡張・ミサイル基地化が進んでいる所。
「こうした施設が最初に指定されたのは、自治体レベルでの反対が起こりにくいとみられたことに加え、そこで住民運動を抑え込む必要が特に大きいと考えたのだろう」(仲松正人弁護士・土地規制法対策沖縄弁護団、13日付沖縄タイムス)

 「土地規制法」の本質を再確認しておきましょう。

「この法律は、治安立法であることをその本質的な特徴としている。今日の治安立法に共通するものは、「安全保障」の絶対視を前提に、反体制的とみなした民衆の運動をその思想において抑え込むこと、法の文言を不明確なものにしておくことで人々の自発的活動を萎縮させ、封じ込めること、そして権力の、政府の中でも特に首相への集中である。…土地規制法は、まさにこうした治安立法の特徴のすべてを具えた悪法である」(小林武・沖縄大客員教授=憲法、2021年9月30日付琉球新報)

 銘記しなければならないのは、治安立法と戦争は一体不可分であり、治安立法の強化は戦争前夜だということです。
 1920年代~40年代を振りかえってみましょう。

1928・6 治安維持法改悪(死刑・無期刑追加)
 31・9 関東軍による柳条湖の鉄道爆破(満州事変)
 37・7 盧溝橋事件(日中戦争開始)
 38・4 国家総動員法公布
 41・1 新聞紙制限令公布
   3 国家総動員法改悪(政府権限大幅拡張)
   同 治安維持法再改悪(予防拘禁追加)
   12 御前会議で開戦決定

 今回の土地規制法の沖縄指定は、昨年12月の「軍拡(安保)3文書」の実践です。日本はいよいよ戦時国家づくりに具体的に踏み出しました。

「政府は…2024年秋ごろまでに複数回に分け、全国で計約600カ所を指定する方針だ」(13日付沖縄タイムス)
 1年半で全国いたるところに「土地規制法」の網をかけ、住民を監視し、反政府的言動を徹底的に抑え込もうというわけです。今回の沖縄指定はその突破口です。

 沖縄では琉球新報、沖縄タイムスをはじめメディアが大きく報道し、「土地規制法対策沖縄弁護団」も結成されています。

 ところが、「本土」メディアのこの問題についての報道は壊滅的です。したがって「本土」市民には基本的情報も与えられていません。まるで他人事です。

 きわめて危険な状況です。「土地規制法」=住民監視法は日本を戦争国家にする最悪の治安立法であることを共通認識にし、同法の撤廃、沖縄の自衛隊増強・ミサイル基地化を許さない世論広げていくことが死活的に重要です。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

G7 首脳が訪問予定・宮島と侵略戦争

2023年05月15日 | 国家と戦争
  

 広島サミットを前に、「関東大震災朝鮮人・中国人虐殺100年犠牲者追悼大会実行委員会(田中宏・一橋大名誉教授ら)が11日記者会見し、サミット参加国首脳に対し、「虐殺の過去と向き合うように日本政府に助言してほしい」という書簡を送ると発表しました(写真右)。

 その要求を逆なでするような事態が広島サミットで行われようとしています。首脳らの宮島訪問です。なぜなら、宮島は朝鮮・中国に対する日本の侵略の歴史ときわめて深い関係にあるからです。

 宮島は赤い鳥居の厳島神社が有名ですが、もう1つ神社があります。豊国神社、通称、千畳閣です。「豊臣秀吉が、1587年に建立を命じましたが、秀吉の死により未完成のまま現在にいたっています。 明治時代に秀吉と加藤清正が祀られ、豊国神社となっています」(宮島観光協会サイト)。

 秀吉が2度にわたって朝鮮半島侵略を試み(1592年壬辰倭乱=文禄の役、1597年丁酉倭乱=慶長の役)、いずれも激しい反撃にあって失敗したことは周知の史実です。その先兵役を担ったのが加藤清正でした。

 その秀吉、清正を祀った神社が宮島にはあるのです。
 それだけではありません。

 この千畳閣の大柱に、かつて宮島特産のしゃもじが大量に飾られたことがありました。

「宮島の千畳閣の柱を覆うおびただしい数のしゃもじ。宮島参拝をした兵士たちは「めし取る」にあやかって宇品港から戦地へ赴いた。明治37(1904)年2月に始まった日露戦争時の写真である(写真左=廿日市市宮島歴史民俗資料館提供)。
 韓国支配を巡って起きたという点で、日露戦争は9年前の日清戦争の延長線上にある。「朝鮮出兵」を命じた豊臣秀吉ゆかりの千畳閣は戦勝祈願にふさわしい空間だった」(2022年12月1日付中国新聞「近代発 見果てぬ民主Ⅴ」)

 日露戦争は、「日本近代の大きな分岐点。欧米に倣って帝国主義国としてアジアを支配するかどうかの分岐点」(山田朗・明治大教授「「安倍談話」を徹底解剖する」、『検証 安倍談話』明石書店2015年所収)でした。それは、「朝鮮半島と中国の領土をめぐって争ったので、中国からみれば日本とロシアによる侵略戦争」(同)だったのです。

 宮島は、秀吉の朝鮮侵略、それにあやかった日露戦争時の「戦勝祈願」という2つの意味において、朝鮮・中国への侵略戦争と切っても切れない関係にある島なのです。

 5年前の2016年5月、伊勢志摩サミットに出席した首脳たちが大坂城を訪れたことが問題になりました。大坂城は秀吉が築城したもので、朝鮮侵略に結びつくとの批判が起こったのです。
 
 広島サミットは、平和を願う人々の要求に反し、ウクライナへの武器供与・軍事支援のいっそうの強化を確認し、戦争の泥沼化に拍車をかけるものになることは必至です。
 岸田首相はウクライナを訪問した際、宮島のしゃもじを土産にしました。その宮島に首脳たちが訪れることは、ロシアとNATO(北大西洋条約機構)の代理戦争と化しているウクライナ戦争の継続・激化を図るG7 諸国の戦略を、期せずして象徴することになります。



  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日曜日記249・見直される天皇制由来の「伝統」

2023年05月14日 | 日記・エッセイ・コラム
  「5月5日は男の子の節句」、「3月3日は女の子の節句」とされてきた従来の概念が見直されてきている、という記事が5日付の朝日新聞デジタルに載った。

 たとえば、3月3日に飾る雛人形は、男雛と女雛の「男女ペア」を飾るものとされてきたが、「女性同士」「男性同士」の人形を飾るケースが生まれているという。子どもの性自認に従ったものだ。

 世の中はやはり、進歩している面もあるんだな、と嬉しくなった。

 記事にはないが、雛人形の見直しには、別の意味もある。それは、天皇制由来の「伝統」の見直しだということだ。向かって左に男雛、右に女雛という並びは、天皇由来だ。

「古来日本のしきたりは「左方上位(左側が上席)」なので、雛人形の並べ形も左側(向かって右側)に偉い人、年配の人、格が上の順番に置かれていました。しかし明治時代になって欧米のマナーが日本へ入り、皇室のしきたりが変化しました。大正天皇が皇后陛下の右に立って写真を撮影して以来、現在に至るまで天皇の位置は皇后の右側が決まりとなっています。そして昭和3年、昭和天皇が皇后の右にお立ちになった御大典(即位の式)のお写真が全国的に広まった頃から、東京を中心に雛人形もまた男雛を右上座に飾るようになりました」(人形の吉徳のHPより、敬語はママ)

 もう1つ挙げれば、ランドセルだ。

 「ラン活」などといって、最近は値段も高騰し、早くから祖父母などが買うケースが増えている。それに対し、経済的負担を軽減するため、無料のリュックを配布する自治体が増えているという(写真)。ランドセルも天皇由来だ。

「幕末に幕府が洋式軍隊制度を導入する時、もちものを収納するために、オランダからもたらされたバックパックを利用したのがランドセルの発祥とされます。またそのネーミングは、オランダ語「ラッセル」がなまって「ランドセル」になったとされます。
 通学鞄としてのランドセルの利用は、学習院の初等科が起源とされています。
 1887年、当時皇太子だった大正天皇の学習院初等科入学の際に、伊藤博文が祝い品として軍の将校にならったランドセルを献上し、それがきっかけで世間に徐々に浸透して今のような形になったとされています」(中村鞄製作所HPより)

 こうした天皇由来はあまり知られていないし、雛人形を飾る時もランドセルを買い与える時もそれが意識されることはないだろう。しかし、天皇制はこうした無意識の伝統・慣習の中にも根を張っている。自覚的にでないにしても、それが見直されて新たなものにとって代わられるのは、時代の進歩と言えるのではないだろうか。

 一方、あまり知られていない重大なところに天皇制支配が生きているものがある。内閣の桐の紋章だ。官房長官などが記者会見する台にも表示されている(写真)。

 歴史的に、桐の紋章は天皇に功績のあった者に天皇が下賜したものだ。織田信長、豊臣秀吉に対しても与えられた。その紋章を、政府は今も内閣の紋章にしている。「天皇の臣下」を自認しているようなものだ。とんでもない話だ。政治・国家機構の世界は明治憲法の時代から進歩していない。

【今週のことば】

 山本太郎氏(長崎大教授、国際保健学・熱帯感染症学)(新型コロナ5類移行にあたって)

「幼い子どもたちは国の対策によって直接の影響を受けた。2020年2月27日には、(安倍晋三)首相が小中高校や特別支援学校に対して3月2日からの臨時休校を要請した。…全国の学校はそろって休校を決めた。休校期間は最長で約3カ月にも及んだ。

 それが子どもたちに及ぼす深刻な影響や、なぜそれが必要かについて、丁寧な説明はなされなかった。その後も学校活動の制限が続いた。修学旅行や運動会などのイベントも中止になったり縮小されたりした。

 小中高生の自殺者は、コロナ禍が始まった20年に前年比で100人増の499人となり、22年には514人となった。…こうした数字は、自らが声を上げる機会が限られている子どもたちの、心の叫びのようなものだったのではないか。

 同じ過ちを繰り返さないためにも、この3年間の問題点を記憶し、「そこから何を学ぶべきか」を真摯に考える必要がある」(13日付京都新聞夕刊「土曜評論」、抜粋)
(過ちを繰り返さないための記憶と検証。子どもたちに対する私たちの最低限の責任ではないでしょうか、コロナに限らず)


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

加藤登紀子さんの「非核・非戦論」と「はだしのゲン」

2023年05月13日 | 国家と戦争
  

 11日の朝日新聞デジタル「核といのちを考える」連載で、歌手の加藤登紀子さんのインタビューが載りました。ウクライナ戦争に関する部分を抜粋します(写真中は朝日新聞デジタルから)。

< 人というものは、分断されるはずのない命としてつながっているんだっていうのが、私の根底からの信念です。だから、戦争の一方の側を非難したり、一方の側の人を助けたりするために歌ったりは、私はしたくない。

 人が分断されているということが悲しい。分断させている力が、この世の中にいっぱい働いているということは事実です。それを乗り越えたいと思い、そう願いを込めて歌ってきました。

 広島で主要7カ国首脳会議(G7サミット)をするんだったら、「非核・非戦」というシンプルな立場を表明してほしいんです。戦争はできるだけ早く終わらさなければいけない。

 ウクライナもロシアも戦争当事者というものは、なかなか戦争をやめられないんですね。私は、日本が世界史の中で最も愚かな戦争をした国だって、恥ずかしいと思って生きてきました。日本の戦争をもっと早く終わらせるように世界が動いてほしかったって思うんです。

 ウクライナの人にとっても、早く終わらないと不幸が大きくなるだけです。世界の力が、世界の英知が、この戦争を終わらせなきゃいけない。当事者にはできないことです。

 私たちは日本人として、あの戦争を終わらせることができなかった。人々は声を上げることはできなかった。戦争というものは本当に恐ろしいものだなと思います。

 漫画「はだしのゲン」の作者、中沢啓治さんが作詞した「広島 愛の川」。この曲をレコーディングした時に、「ゲン」の作品に出てくる言葉を引用した朗読も収録しました。「愛の川」のメロディーにのせ、1945年7月16日に原爆実験が成功して、8月6日に原爆が投下されるまでの過程を朗読したものです。

 そこでは、もし日本が7月26日のポツダム宣言をすぐに受諾していれば、広島に原爆が落とされなかったかもしれない。それを思うと、夜中でも起きちゃうぐらい悔しい。もし日本が3カ月早く終戦していれば、沖縄戦もなかったし、広島、長崎の原爆投下はなかったでしょう。戦後の世界はまったく違ったものになっていたはず。

 中沢さんも書いているけど、日本人は最後の一人まで戦うんだって、そんな愚かな戦争はあるものか。戦争は国を守るためにやっているんじゃなかったですか。この国の人たちは全員死んでもいい。そんな戦争ってあり得ないじゃないですか。

 戦争というものが持っている根本的な非論理性ですよね。おかしいんですよ、守るために戦うって。守るために死なせているんですから。不条理の極致ですよね、戦争は。

 日本は被爆国だっていうけれど、そういう時代に世界を引っ張り込んだのは、日本の責任でもあると、私は思います。

 日本がなぜドイツよりも3カ月、終戦を遅らせたのか。私の全人生をかけて一番悔しいことですよ。戦争を長引かせるということは、世界を変えるんです。まさに同じことを今、ウクライナとロシアの戦争で私たちは見ているのです。

 少しでも早く終わらせないと、すごく大変な「戦後」が来てしまいます。>

 痛切な訴えに心が揺さぶられます。

 加藤さんが「全人生をかけて一番悔しい」という終戦(ポツダム宣言受諾)の遅れ。その最大の責任者が、「国体」=天皇制護持にこだわった天皇裕仁であったことを忘れることはできません。

 加藤さんが最も訴えているのは、「国」を超えた命の尊さ。戦争のおろかさ。だからこそ一刻も早くウクライナ戦争を止めなければならないということ。

 中沢啓治さん(写真右)作詞の「広島 愛の川」(写真左)で、加藤さんが朗読した「語りヴァージョン」を、中沢さんはこう結んでいます。

「元(ゲン)は できることなら 世界中の国々に、キレイな虹の橋をかけて そして国境も無く 戦争のない 平和な世界がつくれたら 素晴らしいなと いつまでも いつまでも 虹をみつめていた…」

 命の尊さに「国境」はないことを、改めて胸に刻みたいと思います。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

共産党も評価した岸田首相「心痛む」発言の本質は何か

2023年05月11日 | 侵略戦争・植民地支配の加害責任
   

 岸田文雄首相がソウルでのユンソンニョル(尹錫悦)大統領との会談後の共同記者会見(7日)で述べた「心が痛む」発言に対して、韓国内では評価が二分していると報じられています。しかし、肝心なのはわれわれ日本人がこれをどう捉えるかです。

 日本のメディアは、「首相自らの言葉で思いを伝えたことは評価できる」(朝日新聞8日付社説)、「個人の見解としながらも…踏み込んだ」(毎日新聞9日付社説)、「これまでより感情のこもった表現で韓国内には歓迎する声は多い」(東京新聞9日付社説)など一様に賛美しました。

 野党も、立憲民主、日本維新、国民民主ばかりか、日本共産党も「首相が『心が痛む』と肉声で述べたのは、これで問題解決にはならないが、変化だと思う」(志位和夫委員長、8日の会見=9日付しんぶん赤旗)と評価しました。共同通信は共産党も「好意的に受け止めた」(9日付)と報じました。

 メディア・政党オール賛美です。それの評価は果たして正当でしょうか。

 岸田氏の発言を確認しておきましょう。

「(歴史認識について)歴代内閣の立場を全体として引き継いでいる。政府の立場は今後も揺るがない。私自身、当時の厳しい環境の下で多数の方々が大変苦しい、悲しい思いをされたことに心が痛む思いだ」(8日付共同の「会見要旨」)

 9日付共同はこの発言の背景を報じました。それによると、「心が痛む」発言は「首相自身の判断」によるもので、「故安倍晋三元首相が2015年の元慰安婦合意の際に使った表現を踏襲した形。日本国内の保守層の反発を受けにくいと判断したとみられる」といいます。

 「2015の元慰安婦合意」とは、当時の安倍首相と岸田外相が、性奴隷にされた被害者の頭越しに、朴槿恵(パククネ)政権とおこなった非公式合意。肝心の被害者への謝罪もなく、日本政府としての賠償もなく、植民地支配責任を棚上げしたものでしかないと韓国内で厳しい批判をあびました。

 岸田氏の「心が痛む」という言葉はこの時の安倍氏の二番煎じだというのです。「日本国内の保守層の反発をうけにくいと判断した」わけです。

 「2015年合意」は「合意文書」さえ残されていませんが、同じ15年の8月14日に安倍首相が「終戦70年を迎えるにあたって」出した「首相談話」は公式文書として残っています。
 この中で安倍氏は、「歴史とは実に取り返しのつかない、苛酷なものです。…断腸の念を禁じ得ません」と述べています。「心が痛む」と瓜二つです。

 そして安倍氏はこの談話で、あの悪名高い「私たちの子や孫…に謝罪を続ける宿命を負わせてはなりません」という言葉を吐き、さらに、「「積極的平和主義」の旗を高く掲げ、世界の平和と繁栄にこれまで以上に貢献」すると、戦争(安保)法制による憲法違反の集団的自衛権行使を高らかに宣言したのです。

 岸田氏の「心が痛む」発言、そして尹大統領と交わした協力関係は、まさにこの安倍元首相の「立場」を「全体として引き継」ぐものにほかなりません。

 付言すれば、メディアなどは「心が痛む」という言葉を取り上げていますが、むしろその前段に注目すべきです。
 岸田氏は「当時の厳しい環境の下で多数の方々が大変苦しい、悲しい思いをされた」と言いました。その「厳しい環境」はいったい誰がつくったのでしょうか。植民地支配で朝鮮人を差別・抑圧した日本政府に他なりません。それを棚に上げ、まるで「厳しい環境」が自然に訪れたかのような物言いは、加害者が自分の罪にほうかむりして被害者に同情してみせる最悪の偽善、責任回避と言わねばなりません。

 そしてこの最悪の偽善、責任回避も、2015年の「安倍談話」を「引き継いでいる」ものなのです。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

秋篠宮の英国王戴冠式出席は憲法上重大疑義あり

2023年05月09日 | 天皇制と憲法
   

 6日夜(日本時間)行われたイギリス・チャールズ国王戴冠式に、徳仁天皇の「差遣(さけん)」として秋篠宮が出席しました。英国内では君主制廃止の世論が広がり、カリブ海諸国などで英連邦から離脱して共和制へ移行する動きが強まっています。そんな中で行われた戴冠式に日本の皇族が出席したことは、こうした世論・時代の流れに逆行するものです。

 問題はそれだけではありません。今回の秋篠宮の戴冠式出席には、日本国憲法に照らして重大な疑義がいくつもあります。

 第1に、憲法が規定する「天皇の国事行為」の逸脱です

 憲法第4条は天皇には「国政に関する権能」はなく、天皇ができるのは「国事に関する行為」のみだとして「国事行為」の内容を第6条で2つ、第7条で10、計12具体的に明記しています。この中に外国の公式行事への出席はありません。

 にもかかわらず天皇が外国を公的に訪問するのは、いわゆる「天皇の公的行為」という政府見解によるものですが、それが憲法上認められるかどうかは賛否両論あり違憲の疑いを禁じ得ません。

 第2に、「差遣」という脱法行為です。

 「天皇の公的行為」を「合憲」とする立場でも「内閣の助言と承認」(憲法第3条)を必要とする点では異論はありません。70年前のエリザベス女王の戴冠式には、天皇裕仁の「名代」として皇太子明仁(当時)が出席しましたが、それは閣議で決定されたものでした。

 ところが今回秋篠宮は、「名代」ではなく「差遣」として天皇に代わって出席しました。宮内庁も「名代は…閣議決定事項に該当し、差遣に比べて「より重い立場」(宮内庁担当者)だ」(5日付朝日新聞デジタル)と言っています。言い換えると、「差遣」は閣議決定事項ではないのです。つまり、徳仁天皇は閣議決定(「内閣の助言と承認」)を経ずに勝手に秋篠宮を派遣したことになります。明らかな脱法行為と言わねばなりません。

 第3に、最も重大な点ですが、これは「天皇元首化」の先取りだということです。

 複数の報道が明らかにしているように、3月に英王室から届いた今回の「招待状」には、「国家元首とそれに同行する者」と書かれていました。事実、出席したのは、ベルギー、オランダなどの君主制の国では「国王」であり、アメリカはバイデン大統領(夫人が代理)、フランスはマクロン大統領などすべて「元首」でした。秋篠宮の席も他の「元首」らと同じ席でした(写真左)。

 しかし、天皇は日本の元首ではありません。

 日本国憲法に「元首」の規定はありません。条約締結などで国を代表する点で内閣総理大臣を元首だとする説が有力ですが、いずれにしても憲法4条(「国政に関する権能を有しない」)に照らして天皇は元首ではないという説が多数派といわれています。

 ところが、「宮内庁によると…天皇は国家元首ではないが、王室からのこうした宛先(「国家元首とそれに同行する者」)の場合には慣例として天皇を指すという」(5日付朝日新聞デジタル)。「天皇は国家元首ではない」と認めながら、「慣例」で天皇を「国家元首」としているというのです。あきれた憲法蹂躙と言わねばなりません。どうしても行きたいのなら首相が行くべきです。

 自民党は2012年4月27日に発表した「改憲草案」の第1条で、「天皇は、日本国の象徴であり…」を「天皇は、日本国の元首であり…」と変えると明記しています。その「解説書」はこう書いています。
「元首とは、英語ではHead of  Stateであり、国の第一人者を意味します。明治憲法には、天皇が元首であるとの規定が存在していました」(「日本国憲法改正草案Q&A」2012年10月)。
 その明治憲法に戻そうというのが自民党改憲案の1丁目1番地なのです。

 英国の招待状に対し、自民党政権が天皇を「国家元首」とし、その天皇に代わって秋篠宮が英国王戴冠式に出席したことは、自民党改憲案の先取り、既成事実化であり、絶対に容認することはできません。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

コロナー死亡者追悼・後遺症対策は急務

2023年05月08日 | コロナ禍と政治・社会
   

 岸田政権はきょう8日から新型コロナを2類から5類に引き下げます。国が対策から手を引き、患者の自己責任・自己負担が増え、医療従事者の重圧が増す重大な後退です。

 この日を前に、「忘れないで!亡くなった人のことを Withコロナ 誰もが悲しみを語れる社会へ」と題した講演会・討論会が京都市内で行われました。
 龍谷大学社会的孤立回復支援研究センター(黒川雅代子センター長)が主催。ノンフィクション作家の柳田邦男氏が講演し、遺族、医師、弁護士らが討論しました(写真右は閉会後記者団に答える登壇者ら)。
 重要な気付き・学びがたくさんありました。

 第1に、遺族の無念です。

 弟が沖縄で独り在宅死した高田かおりさん。実父が病院をたらい回しされた挙句、陽性と診断されて5日後に亡くなった島田招子さん。その痛切な訴えから、コロナで亡くなった人々、その家族の無念は決して薄らぐことはないと知りました。

 5類への移行で政府はコロナによる日々の死亡者の発表を止めますが、島田さんは「死亡者の発表で、亡くなった父を偲んでいた。それまでもこの国は奪うのか」、高田さんは「臭いものにフタをしようとするのか」と、ともに怒りをあらわにしました。

 こうした思い・怒りは、当事者でなければ、その声を直接聴くことがなければ分からないと、自分の立場性を知らされました。

 第2に、追悼の必要性です。

 コロナで亡くなった人は、発表では6日現在7万4679人。しかしこれにはコロナによる医療逼迫のために亡くなった人や自死者は含まれていません。
 これほど多くの犠牲者を出していながら、国はその追悼のための手立てをなんら行っていません。イギリスなどでは政府が遺族の意見を聞いて追悼碑の建設を検討しているそうです。

 これも指摘されて私自身ハッとしたことです。
 柳田氏は「死の社会化」という思想の重要性を強調しました。コロナによる死を個人的なこととするのではなく社会的な問題と捉えること。
 島田さんは言いました。「首相はコロナで何回か記者会見したが、まず「日の丸」には頭を下げても、亡くなった人へのお悔みを言ったことがない」

 討論の中で、パネラーの医師から「この場でも追悼しましょう」という提案がなされ、予定になかった「黙とう」が参加者全員で行われました。

 第3に、後遺症の深刻さです。

 オンラインで討論に加わって伶さん(仮名)は昨年3月に感染し、いまだに強い後遺症に苦しんでいます。全身の倦怠感はじめ体のさまざまな所が痛みます。
 怜さんの話でとりわけ深刻だと思ったのは、いろいろな病院に行っても、後遺症についての知識が医師自身に不足していることです。そのため言う事、処方もバラバラ。真剣に対応する医師は多くない、といいます。

 後遺症の問題は、以前から重大だと思ってきましたが、一向に改善されていない現状がうかがえました。これは過去の問題ではなく現在進行形、さらには今後ますます深刻になる問題です。

 亡くなった人々を忘れない、追悼するためにも、後遺症の対策を国、医師会が早急に強化すること、させることの重要性を再認識しました。

 第4に、検証の必要性・重要性です

 遺族の高田さんや島田さんは「なんで、どうして、という思いが消えない」と何度も訴えました。なぜ自宅で独りで死ななければならなかったのか、なぜ病院をたらい回しされて死んだ挙句、遺体にも触れられず「骨」だけが渡されなければならなかったのか。

 なぜこれほどの死者・患者が出たのか、これほど後遺症に苦しまねばならないのか。国のコロナ対策は何が問題だったのか、今も何が問題なのか。それが検証されていない。それを検証して対策に生かさなければ、また同じ犠牲を繰り返すことになる。それは登壇者・集会参加者全員の思いでした。

 重大な事故・災害・過ち・失敗を検証しない。学ばない。都合の悪い事にはフタをして、弱者を切り捨てていく。
 侵略戦争・植民地支配にはじまって、水俣病、東日本大震災・東電原発事故、入管死亡(殺人)…そして今度はコロナ。
 この国(政府・政治・社会)の根本的欠陥に、歯止めをかけねばなりません。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日曜日記248・飯山由貴作品に対する東京都の検閲と天皇制

2023年05月07日 | 日記・エッセイ・コラム
  4月29日、同志社大学で「飯山由貴《In-Mates》の上映禁止が問いかけるもの」と題した「上映会&シンポジウム」があった。アーティストの飯山氏が制作した映像作品が東京都人権部(前身は同和対策室)の検閲を受け上映禁止となった(2022年5月)。

「本作は、戦前に都内の私立精神病院に入院していた2人の朝鮮人患者の診療日誌のことばをモチーフに、ラッパー・詩人のFUNIの声と身体を映像化したものである。都は「関東大震災時の朝鮮人虐殺」を歴史的事実とすることへの懸念などを理由に上映を禁止した。これは現代の検閲権力が、在日コリアンの経験の歴史と現在を作品として形にすることにまで及んでいることを示す、深刻な事態である」(集いのチラシ)

 直接検閲して上映禁止の決定を行ったのは都の人権部だが、背後に小池百合子知事の存在があることは明白だ。毎年行われている「9・1朝鮮人犠牲者追悼式典」に歴代都知事は「追悼文」を寄せてきたが、小池は知事就任後6年間送っていない。関東大震災時の朝鮮人大虐殺という明々白々な歴史的事実を、小池は一貫して認めようとしない。

 今回の飯山氏の作品に対する都人権部の検閲・上映禁止は、小池の意向を忖度したものだ。あるいは小池が直接指示した可能性も否定できない。

 「上映会」では、「In-Mates」(2021年)に続いて飯山氏が制作した「家父長制を食べる」(2022年)も上映された。男の等身大のパンを作り、それを食べてDVなどの男の暴力、女性差別、その根底にある家父長制を告発したものだ(写真=チラシより)。これも力作だった。

 興味深かったのは、「家父長制を食べる」の冒頭で、天皇・皇后ら皇室の写真カレンダーが映し出されたことだ。今日の日本社会をむしばんでいる男尊女卑、その根源である家父長制が天皇制と一体不可分であることを表している。

 関東大震災時の朝鮮人大虐殺(1923年)は、天皇制政府による「3・1独立運動」(1919年)武力弾圧の延長線上にある。敗戦後の在日コリアン差別は天皇裕仁が最後の詔勅として発した「外国人登録令」(1947年5月2日)が起源だ。在日コリアン差別の元凶も天皇制なのだ。

 飯山氏の2つの作品によって、在日コリアン差別、女性差別の根底にいずれも天皇制があることを改めて痛感した。

 集いには、飯山氏、FUNI氏が招かれた。FUNI氏によるラップも上演された。ラップを初めてナマで見た。力強さ、強烈なメッセージ性に圧倒された。収穫多い集いだった。

 【今週のことば】

 小泉今日子さん (2020年5月、安倍晋三政権による「検察庁法改正」を批判するSNSに賛同し、激しいバッシングを浴びた)

<「芸能人が政治的発言をして」みたいな批判をよくされるんですけど、政治的な発言かな?って思うんですよね。国民的な発言なのではないか、と。

 名古屋入管に収容中だったウィシュマ・サンダマリさんが亡くなりましたよね。さかのぼれば、公文書改ざん問題で近畿財務局職員の赤木俊夫さんが自死した問題もそうですけど、人が命を失っているのに(政府に)答えがない、見せてくれないことに、何だと思っているんだ、と感じました。
 人の命をすごく軽々しく扱うんだなっていうのが嫌でした。入管法の問題は今も何も解決していないですもんね。

 生まれた時からほとんど、日本の政治イコール自民党だったんですよね。ずっとそうだったから、任せとけばどうにかしてくれる、日本はより良くなっていると思っていました。
 でも、15年ごろ、SEALDs(シールズ)の若者たちの声に耳を傾けてみて、気づかされたんです。若い頃に、そういうことしてこなかったな、って。

 日本の現状に不安や不満を感じるけど、これって自分たちの世代が作ってしまった現実なんじゃないか。すごく罪に感じて、若い人たちに、ごめんよ、と思いました

 これから残りの人生、そんなに長い時間じゃないかもしれないけれど、意思表示する姿を少しでも見せていかないといけないなっていう責任を感じています。>(4日付朝日新聞デジタルのインタビュー=抜粋)
(57歳の小泉さんにこう言われると、もうすぐ70歳になる身としては恥じ入るばかりです)

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「ウクライナ大反攻」を座視・期待する異常

2023年05月06日 | 国家と戦争
   

 ウクライナのゼレンスキー大統領は4月30日以来、「近く大規模な反転攻勢をかける」と繰り返し、メディアは今月中にも行われる見通しと報じています。

 NHKは「反転攻勢の作戦・戦略は?」(1日のニュースウォッチ9、田中正良キャスター)と「専門家」に問い、「専門家」は「ウクライナ側の攻勢の目的は2つある」(小泉悠東京大専任講師)などとして、「大反攻」を座視し期待する報道を繰り返しています(写真)。

 これはきわめて異常なことではないでしょうか。

 なぜなら、「大規模な反転攻勢」とは「大規模な戦闘」すなわち「大規模な殺戮」に他ならないからです。人が大勢死ぬことが分かっていながら、それを傍観し応援することは、人として許されることでしょうか。

 もちろん、ウクライナの反攻だから言うのではありません。ロシア側の攻撃・侵攻が許されないことは当然です。どちらの攻撃が良くてどちらの攻撃は悪いということではありません。問題は、ロシアの攻撃・侵攻は悪だがウクライナの反攻は正義だとして、戦争の継続を容認・期待する報道が流布し、市民にもそれが広がっていることです。

 人の生命よりも国家の利益を優先する戦争の論理が浸透しているのです。

 米政府は1日、ウクライナ東部におけるロシア側の死者は昨年12月以降で2万人にのぼると発表しました。多数の死者を出したことを勝ち誇ったように発表するのは、まさに戦争大国の所業です。

 必要なのは、「ウクライナの大反攻」を傍観することではなく、直ちに停戦協議を行うことであり、その世論を強めることです。

 元外務省国際情報局長の孫崎享氏は、「国際紛争を平和で解決するには一方の当事者の見解を100%通すことでは達成できない。お互いに妥協して初めて解決できる。…日本はあまりにもロシアへの糾弾と制裁だけを主張したのではないか」とし、こう主張します。

「私は個人的に和平案として①NATOはウクライナに拡大しない②ウクライナの東部2州は住民の意思により帰属を決める、を示してきている。…②については、国連憲章第1条は国連の目的として「人民の同権及び自決の原則の尊重に基礎をおく諸国間の友好関係を発展させること」を掲げている」(日本ジャーナリスト会議機関紙「ジャーナリスト」4月25日号)

 孫崎氏のように、「和平案」を示し、即時停戦の世論を広げ、これ以上犠牲者を出さないことこそ、ジャーナリズムや専門家の責務ではないでしょうか。

 ウクライナにおける戦闘(殺戮)を容認・応援する報道、戦争の論理の浸透が、日本の大軍拡・戦争国家化への道につながっていることを直視すべきです。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

栗原康氏「脱憲法宣言」が提起するもの

2023年05月04日 | 日本の政治・社会・経済と民主主義
   

 「憲法記念日」の3日、沖縄タイムスに栗原康氏(東京大非常勤講師、写真)の「脱憲法宣言」の論稿が掲載されました。要点を抜粋します。

< 安倍晋三政権時代に安保法制が成立。争点だった9条が骨抜きにされている。
 2011年以降、東日本大震災と東京電力福島第1原発事故を経験して、政治家たちは気付いてしまった。危機は支配の究極原理であると。

 中国と北朝鮮の脅威をあおり、安倍政権はあからさまに憲法を無視。強権を発動して法案を通してしまった。新型コロナ禍でやられたのも同じことだ。危機をあおり、非常事態宣言。

 何が起こっているのか。例外状態の常態化。常に危機的状況。死にたくなければ何も考えずに国に従え。人間の生が奴隷化される。

 これを立憲主義だけでは止められない。いくら憲法違反だと批判しても、権力者たちは意図的にそうしているのだ。

 どうしたらいいか。

 権力の脱構成。そもそも法と権力を打ち立てるのが憲法だとしたら、その憲法をつくらせないのが脱構成だ。権力者を法で縛る前に、権力者がいらないのだ。支配なき共同の生を紡いでゆきたい

 どこかの誰かが飢えて倒れる。行政の支援を待っていたら死んでしまう。助けなくっちゃ。われ知らず、手を差し伸べる。誰に命じられたのでもない。法に従っているのでもない。義務も制裁もない。おのずと相互扶助の自律空間が立ち上がる。人間が共に生きていくのに支配はいらない

 戦争を止めるのだって同じことだ。どこかで誰かが殺されている。助けなくっちゃ。そう思ったら損得を考えている余地はない。われを忘れて手を差し伸べる。非戦を掲げて立ち上がる

 たとえ自国が戦争をしていたとしても、非国民と言われたとしても抗議してしまう。誰かの命令じゃない。憲法に書いてあるからでもない。義務も制裁もない道徳を共に生きる。非戦は権力の脱構成なのだ

 権力者のやりたい放題を止めるにはどうしたらいいか。まずは支配なしでは生きていけないという、その前提から脱していこう。憲法はなくても暮らしてゆける。脱憲法宣言。>

 栗原氏は、『アナキズム』(岩波新書2018年)でこう書いています。

アナキズムとは、絶対的孤独のなかに無限の可能性をみいだすということだ、無数の友をみいだすということだ、まだみぬ自分をみいだすということだ。コミュニズム。…アナーキーをまきちらせ。コミュニズムを生きていきたい」

 ブレイディみかこ氏は『他者の靴を履く』(文藝春秋2021年)で、「エンパシー」とは「他者の感情や経験などを理解する能力」だとしたうえで、こう述べています。

民主主義とアナキズムとエンパシーは密接な関係で繋がっている。というか、それらは一つのものだと言ってもいい

 「アナキズム」は「無政府主義」だとずっと思ってきました。学校の教科書にもそう書かれていたと思います。しかしそれは、アナキストの幸徳秋水らを大逆事件(1910年)のでっち上げで殺した天皇制政府以来、いまに続く国家権力の意図的な誤訳であると今は考えています。「アナキズム」は正しくは「無支配主義」と訳すべきです。

 抜粋した栗原氏の論稿は、一見突飛で無茶な主張のようですが、ここには私たちが自明のこととして疑わない「法の支配」あるいは「国家」というものを再検討することの重要性、そこにこそ権力の非人間的な支配を打ち破るカギがあることが提起されています。
 ウクライナ戦争にどう向き合うかを念頭に書かれていることも間違いないでしょう。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする