23日の京都新聞夕刊に、市立小学校の卒業式のもようが写真付きで載った(写真)。
「ほとんどがマスクを外し、はかまやスーツ姿で入場した」とある。素顔を見せ合って卒業できて良かった。
だが、この光景には違和感を持った。小学校の卒業式で「はかまやスーツ」? 写真を見ると一人や二人ではない。かなりの児童が晴れ着姿だ。大学の卒業式ならともかく、小学校の卒業式がいつからこうなったのだろう。
小学生が晴れ着を着ることが気になるのではない。着たくても着られない子どもがおそらくいるだろうことが気に掛かる。この年頃はそれでなくても友だちの服装が気になるものだ。晴れ着やスーツ姿のクラスメートを見て、引け目に感じる子はいないだろうか…。子どもの思いは、口に出すか出さないかにかかわらず、親にも伝わるだろう。
自由な服装は個性・多様性を育む。だが一方、そこに家庭の経済状況、「貧富の差」が映し出される。
われわれの頃はそんなことはなかった。小学校の卒業式はみんな普段着。中学、高校は制服だった。画一的ではあっても平等で、そこに経済格差が表れることはなかった。
沖縄・名桜大学の半嶺まどか准教授は、北欧の先住民や沖縄の人々が置かれている差別的状況を指摘し、こう述べている。
「最近、多様性ということばをよく耳にするようになったが、多様性の裏側には、格差があることを忘れてはならないだろう。…多様性や、多文化・異文化という綺麗なことばで隠されてしまう格差に関わる問題として、例えば沖縄の貧困や、教育、基地、有機フッ素化合物「PFAS」による汚染と環境などの諸問題、そして沖縄戦を含む歴史認識の差などがあるだろう。…多様性ということばの裏側には、多くの場合、差別や格差が隠れている」(22日付沖縄タイムス「思潮」)
「自由」か「平等」か。それは「資本主義」か「社会主義」かに通じる古くて新しい問題だ。「多様性の裏に差別が隠されている」という半嶺さんの指摘は、現代の盲点を突いている。
だが、「自由」か「平等」かの選択はもう卒業しよう。「自由」も「平等」も。差別・格差が隠されていない「多様性」を。みんなが好きなものを着られて、どんな服でも個性として認め合う、貧困や格差の表れない卒業式、いや、貧困や格差・差別そのものがない社会。そんな社会を子どもたちに残したい。
【週間ファイル】
★袴田巌さん再審へ東京高検が特別抗告断念(20日)…証拠開示の改革も重要だが、最も問わなければならないのは、死刑制度の廃止。
★日・ウ会談と中・ロ会談(21日)…同日に行われた2つの会談。前者は軍事支援(間接的にせよ)強化、後者は「和平案」(内容は精査が必要だが)。日本のメディア報道は圧倒的に前者に偏った。
★MBCラジオ(大阪)生番組で朝鮮学校へのヘイトスピーチを行った上念司(経済評論家)が番組降板(23日)…保護者や在日朝鮮人人権協会の抗議行動の力。
【今週のことば】(抜粋)
「忘れてはならないが、蘇らせてはならない言葉」 永田和宏(歌人)
「「千人針」という言葉は、「忘れてはならないが、蘇らせてはならない言葉」の筆頭であろう。銃後に残る国民の意志を統一し、厭戦や反戦の芽を摘む効果であり役割である。
現在のロシアでもウクライナでも、どちらが勝つかに関わらず、とにかく早く戦争が終わって欲しいと願っている国民は少なくないはずである。国の名誉や威信、体制の維持や自由の確保も大切だが、それを家族の死と引き換えにしてまで守りたいとどれだけの人々が願っているだろうか。
ゼレンスキー大統領が「祖国を守り抜く」という誰も反対しづらい言葉のもとに結束をはかっているなかで、それに異を唱えるのはほとんど不可能に近いだろう。
まさか今の時代に「千人針」が復活することはないだろうが、同じように、皆を同じ方向へ駆り立てる、抵抗できない言葉の台頭には注意深くありたい。
「国民国家を守り抜く」といった、誰もが反対することがむずかしい標語が幅を利かせ始める社会の怖しさをしっかり認識しておくべき時である」(19日付京都新聞)(永田氏は天皇制の強い支持者で、思想的には相容れないが、この論考は注目に値する)