アリの一言 

天皇制、朝鮮半島、沖縄の現実と歴史などから、
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選手に対する誹謗中傷と五輪の国家主義

2024年08月07日 | 五輪と国家・政治・社会
   

 メディアがパリ五輪の「メダルラッシュ」を報道する一方、日本オリンピック委員会(JOC)は1日、出場選手らに対する誹謗中傷の投稿がSNS上で相次いでいる問題で、「侮辱や脅迫などの行き過ぎた内容に対しては、警察への通報や法的措置も検討する」とした声明を出しました。

「声明では、選手や指導者が「心ない誹謗中傷、批判などに心を痛めるとともに不安や恐怖を感じることもある」とし、「誹謗中傷などを拡散することなく、SNSなどでの投稿に際しては、マナーを守っていただきますよう改めてお願い申し上げます」と訴えた」(2日付朝日新聞デジタル)

 選手らに対する誹謗中傷が許されないことは言うまでもありません。この問題に限らず、SNSにおける誹謗中傷・個人攻撃は根絶する必要があります。

 同時に考える必要があるのは、五輪選手に対する攻撃は、他のSNSにおけるそれにはない特殊な原因があるということです。

 「なぜファンは怒り、攻撃してしまうのか」。ソウル五輪銅メダリストでスポーツ心理学者の田中ウルヴェ京さんは、朝日新聞のインタビューでこう述べています。

「観戦にのめり込み当事者意識を強く持つほど、応援する選手が負けたことなどについて我がことのようにとらえ、怒りを覚える人はいます。
 そこにゆがんだ正義感が加わることで、相手選手などを攻撃することが正しい、と考えてしまう。客観的に見れば選手とは何も関係がないただの視聴者で、中傷するほどの情報も持たないはずなのに、です」(5日付朝日新聞デジタル)

 「当事者意識」「ゆがんだ正義感」「客観的に見れば選手とは何も関係がないただの視聴者なのに」―その通りです。ではそうした感情を抱くのは一部の特殊な人間だけでしょうか。

 柔道の団体戦で負けた阿部一二三選手は、直後のインタビューで、「日本のみなさんに、すみません」と謝りました(4日)。斉藤立選手も「ほんとうに顔向けできないです」と涙を流しました。レスリングの初戦で敗退した須崎優衣選手も「申し訳ない」と何度も繰り返しました(6日)。

 選手の重圧は相当なものです。それは選手たちが、「日本」を代表し「日本」を背負ってたたかわされているからではないでしょうか。

 「日本を代表してたたかっている」という構図がつくられているから、「客観的に見れば選手とは何も関係がないただの視聴者」が「観戦にのめりこみ」「当事者意識」や「ゆがんだ正義感」を持つ者がうまれるのではないでしょうか。

 金メダルのたびにメディアが行う(演出する)「街頭インタビュー」で、「日本人としてうれしい」と語る「市民」も、「当事者意識」を持たされている点では同じでしょう。

 五輪は「国家」を代表したたたかい、「国家」の威信を示す場である。それが「五輪の国家主義」です。五輪をそういう場にしたのは、世界の国家権力であり、IOCであり、「声明」を出したJOC自身です。

 こうした「国家主義」の行き着く先が戦争(戦争国家)であることは言うまでもありません。SNSで選手を誹謗中傷する者たちと、戦時中に「隣組」で他人の行動を監視し「正義感」から「非国民」とののしった「市民たち」がオーバーラップして見えます。

 メディアの責任も見過ごすことはできません。連日「国別の獲得メダル数」を大々的に報じて「国家主義」を煽っているのはマスメディアです(写真左はNHK)。

 選手らに対する誹謗中傷からくみとるべき最大の教訓は、「五輪の国家主義」を一掃することだと考えます。それが選手を守ることになり、同時に、選手も市民もスポーツを楽しむという本来の在り方に近づく道ではないでしょうか。
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