アリの一言 

天皇制、朝鮮半島、沖縄の現実と歴史などから、
  人権・平和・民主主義・生き方を考える。
   

難民選手を失格させた五輪の「政治的」とは何なのか

2024年08月12日 | 五輪とメディア・政治...
   

 9日のパリ五輪で、ブレイキン女子に出場した難民選手団のアフガニスタン出身・マニジャ・タラシュ選手がIOC(国際オリンピック委員会)から警告を受け、失格になりました。「演技中に「FREE AFGHAN WOMEN(アフガニスタンの女性を解放しろ)」と書かれたケープを広げた。五輪憲章は大会期間中に選手らが試合会場などで政治的なメッセージを送ったり、ジェスチャーを行なったりすることを認めていない」(10日付朝日新聞デジタル、写真左)からです。

「(タラシュ選手は)ダンスを始めると頭のバンダナをとり去った。女性は全身を覆うブルカの着用を求められるアフガンの状況に抵抗するかのように黒髪をあらわにした。さらに黒いスエットシャツを脱ぐ。現れた水色のマントには英語で「アフガニスタン女性を解放せよ」と書かれていた」(11日付京都新聞=共同)

 これが「政治的メッセージ」だというのです。いったいどこが、何が「政治的」だというのでしょうか。

 「アフガニスタン女性を解放せよ」。それは確かにタリバン政権に対する抗議です。しかし特定の政治思想ではありません。服装の自由、教育を受ける権利の保障はじめ、「女性解放」の要求はきわめて当然な普遍的主張です。

 それを「政治的」というなら、侵略戦争・植民地支配の旗頭となった「日の丸」をまとって会場を回る日本人選手の行為は「政治的」ではないのでしょうか。私にはこちらの方がほど「政治的」に見えます。

 ブレイキンはもともとストリートパフォーマンスです。女子で優勝したAMI選手は11日のNHKインタビューでこう述べています。

「ブレイキンは自己表現です。ほかのスポーツのように勝ち負けが決まるものではありません。オリンピック競技になったと聞いた時、ブレイキンの良さがオリンピックでつぶされるのではないかと不安でした」(写真右)

 AMI選手は信頼できる身近な人たちの存在で不安を払しょくしたと言いますが、今回のタラシュ選手に対する処分はAMI選手の当初の不安が杞憂でなかったことを示しているのではないでしょうか。

 IOCは今回の五輪にロシアの国としての出場を認めない一方、イスラエルの出場を認めています。これはきわめて「政治的」な二重基準です。

 広島市が「平和式典」(6日)にロシア、ベラルーシを招待せず、イスラエルを招待したことに対し「二重基準」という批判が巻き起こりましたが、同じことをIOCはやっているのです。

 ところがそれに対する批判がメディアではほとんど見られません。どういうことでしょうか。これこそメディアの「二重基準」であり、メディアとオリンピックの腐れ縁を示す「政治的」な現象ではないでしょうか。

 オリンピック自体がきわめて「政治的」なイベントなのです。その根底には大国中心の国家主義と商業主義があります。それがアスリートを抑圧し、本来のスポーツの良さを減滅させています。そんなオリンピックは廃止すべきです。
この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 日曜日記314・「和歌山カレー... | トップ | 「五輪抜きで語れない「日の... »