アリの一言 

天皇制、朝鮮半島、沖縄の現実と歴史などから、
  人権・平和・民主主義・生き方を考える。
   

「五輪抜きで語れない「日の丸」の歩み」と天皇制

2024年08月13日 | 五輪と国家・政治・社会
   

 パリ五輪で優勝した日本人選手が「日の丸」をまとって会場を回る光景はきわめて「政治的」だと書きましたが(昨日のブログ)、その意味をさらに考えます。

 「五輪抜きで語れぬ日の丸の歩み」。こんな見出しの記事が朝日新聞デジタル(10日付)に掲載されました(以下抜粋)。

<パリ五輪では、毎日のように日の丸が画面に映る。かつて軍国主義の象徴とも捉えられ、政治問題にもなった旗。その戦後の歩みは、五輪と切っても切れない関係にある。

 グラフィックデザイナーの永井一正さん(95)(注・72年の札幌五輪で「日の丸」をデザインしたエンブレムが採用された)は、「この五輪(1964年の東京五輪)が日の丸の転機になった」と振り返る。

 大会が始まると、各国の旗と並んで振られる日の丸の様子がテレビ中継され、企業広告にも日の丸を使ったデザインがあふれた。

 大阪大空襲で実家を焼かれ、戦後の窮乏を乗り越えてデザイナーとなった永井さんは、日の丸が「新しい日本を象徴するものになった」と感じたという。>

 同記事によれば、1950年の朝日新聞世論調査では、73%が日の丸を「持っている」と答えながら、「祝日」に旗を「出さない」が43%。その理由は、「世間から軍国主義者のように思われる」「息子が抑留から解放されるまでは見るのも嫌」などでした。
 東京五輪直前の64年2月の政府世論調査でも、「日の丸の旗で何を思い浮かべるか」との問いに、22%が「戦争」と答えていました。

 それが、<74年の政府の調査では、日の丸は日本の国旗にふさわしいかとの問いに、84.1%が「思う」と回答。「思わない」は8.9%にとどまった。世論の変化に合わせ、政府は学校現場への統制を強める。89年には学習指導要領を改訂し、式典での日の丸掲揚を「指導するもの」と明記。「教育現場への強制」だと大きな議論となり、掲揚の是非などをめぐって広島県立高校の校長が自殺する事件も起きた。国は「法的根拠を明確化する」として、99年に「国旗・国歌法」を制定した>(同朝日新聞デジタル)

 記事では触れていないいくつかの点を付け加えます。

 まず、敗戦以前の「五輪と日の丸」の関係で忘れてならないのは、1936年のベルリン五輪のマラソンで優勝した孫基禎(ソン・ギジョン)選手の「日の丸抹消事件」です。「日の丸」と五輪が植民地支配の強化に利用された典型的な事件です(7月26日のブログ参照)。

 敗戦後の「日の丸」の転機となった64年東京五輪の翌65年1月、中教審は「期待される人間像」を発表し、「国家」が求める「人間像」を教育現場に持ち込みました。

 その2年後の67年2月11日、初めて「建国記念の日」を制定し、戦前の「紀元節」を復活させました。

 こうした動きが、後の学習指導要領の改定、「国旗・国歌法」制定の布石になったのです。

 「日の丸」の転機は、同時に表彰式で流れる「君が代」の転機でもありました。

 64年10月10日の開会式(写真中)には、天皇裕仁が名誉総裁として出席し、戦争責任にほおかむりしたまま国際社会への“復活”を果たしました。

 その開会式には古関裕而(1909~1989)が作曲した「オリンピックマーチ」が流されました。古関はこの曲にある「隠し味」を入れたと自ら述べています。
「曲の最後に君が代の後半のメロディーを入れた」(「サンデー毎日」1964年11月1日号、刑部芳則著『古関裕而』中公新書2019年より)
 開会式に出席していた天皇裕仁へ“エール”を送ったのです。

 それから57年後の2021年東京五輪(写真右)が、即位から1年半の天皇徳仁の国際的お披露目の場となったことは記憶に新しいところです。

 「日の丸」はもとより、敗戦後の天皇制復活=象徴天皇制自体が、「五輪抜きでは語れない」のです。
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