ジェンダー問題などで活発な言動を行っている作家の落合恵子氏(週刊金曜日編集委員、写真左)が、「20歳の愛子さまへ 自由と選択の広がり願う」という見出しの論考を寄稿しています(3日付中国新聞=共同配信)。
徳仁天皇の長女・愛子さんの20歳の誕生日にちなんだもの。落合氏は愛子さんの従姉・小室眞子さんの結婚にも触れ、「人が選択できないことの一つは出生である。…しかし、平和であるならば生まれた後の人生には多くの選択がある」としたうえで、こう述べています。
「けれど、それさえも許されない20歳が、ここにあるとしたら…。自分の人生でありながら、選択を許容されない人生とは、どんな味わいを、感触を、その人にもたらすものだろう。人ごととせずに変えていく責任を、わたしたち市民は抱えていないだろうか」
女性皇族に生まれたことで「人生の選択」、自由と人権が大きく制約されていることに目を向ける重要性を強調しています。この限りで共感できます。
ところが、落合氏はこの論考をこう結んでいます。
「20歳を迎え、本格的な公務が始まるという。あなたが使える自由と選択の幅が広がり深まるようにと願いながら…公務にやりがいを感じた時、あなたはたぶん新しい自由を獲得するであろうことを望みながら。」
きわめて不可解な結論です。「公務」とは女性皇族としてのそれです。天皇はじめ皇族が行ういわゆる「公務」(公的活動)が憲法上認められるかどうかは諸説あり、私は認められないと考えますが、その問題はここでは置きます。
「公務」を合憲とする学説も、それが「内閣の助言と承認」(憲法第3条)に基づく必要があることに争いはありません。「本格的な公務が始ま」って「自由と選択の幅が広がり深まる」などということはありえません。逆に不自由は強まるばかりです。
その思い違いもさることながら、より見過ごせないのは、上記の太字の部分です。「公務にやりがいを感じた時」に「新しい自由を獲得するであろう」とは、「新しい自由を獲得する」ために、「公務にやりがいを感じ」てほしいと言っていることと同じです。
つまりこの発言は、女性皇族の自由と人権を大きく制約している「公務」を肯定するばかりか、それに「やりがい」を持つようエールを送ったものです。差別・人権侵害の元凶である象徴天皇制を肯定・推進するものと言わねばなりません。
ジェンダー問題に詳しい専門家のこうした論調は、落合氏だけではありません。
たとえば、信田さよこ氏(原宿カウンセリングセンター顧問)も、「眞子さんの選んだ道」という見出しの論稿(11月16日付中国新聞=共同配信)で、「日本に暗黙裡に存在する序列の頂点は、あのお濠に囲まれた皇居に住む天皇なのである」と指摘しながら、こう述べています。
「(国民の)日々の鬱屈や嫉妬、憧れや希望など、日常的に抱くさまざまな思いを吸収し集約していく存在であること、それが皇室の隠された役割なのかもしれない」
信田氏はこの「皇室の隠された役割」を否定していません。むしろ肯定的なニュアンスがあります。しかし、この「隠された役割」は決して市民の生活を豊かにし人権を守ることにはなりません。
逆に、こうした「皇室の隠された役割」こそ、「国民」を支配する国家権力にとっての象徴天皇制の存在意義ではないでしょうか。
ジェンダー問題の識者・専門家の主張・論考が、天皇制擁護で結ばれるのはなぜでしょうか。なぜ「天皇制廃止」の主張に至らないのでしょうか。
日本の差別・人権問題の根深い欠陥がここにもあると言わざるをえません。