アリの一言 

天皇制、朝鮮半島、沖縄の現実と歴史などから、
  人権・平和・民主主義・生き方を考える。
   

日曜日記230・今年の追究テーマは「非暴力主義」

2023年01月01日 | 日記・エッセイ・コラム
  多事多難だった2022年が明けた。諸問題―沖縄のミサイル基地化はじめ大軍拡・軍事国家体制化、「ウクライナ戦争」、医療・福祉切り捨ての中のコロナ禍、統一教会と自民党政治の癒着など―はなに一つ解決していないどころか、深刻化するばかりだ。

 そんな2023年、最大の個人的追究テーマは、「非暴力主義」だ。

 軍事侵攻に対しては軍事的に「徹底抗戦」する。それを「正義」と讃える感覚・思想が奔流となった。もちろん、侵略(加害)と被侵略(被害)は厳格に区別されなければならない。しかし、侵略に対する抵抗の手段は、はたして軍事的「徹底抗戦」だけだろうか。それは、平和にとって、人間にとって、ほんとうに「正義」なのだろうか。

 「非暴力」はけっして「無抵抗」を意味しない。
 
 インドのマハトーマ・ガンディー(1869~1948)は、帝国日本のアジア侵略のさなか、「すべての日本人に」と題した論稿でこう述べた。

非暴力こそ軍国主義的精神や野心の唯一の解毒剤である

 なぜそう考えるのか。

「わたしは人間性には相反応し合うものがあるとの不滅の信念をいだいています。その信念の力のゆえに、私は、インドでいまにも乗り出そうとしている運動(非暴力方式による大衆闘争―訳者注)を考えています。そして、あなたがたにこの訴えをするようわたしを促したのも、他ならぬその確信です。1942年7月18日」(「ハリジャン」1942年7月26日号、ガンディー『非暴力の精神と対話』森本達雄訳、第三文明社レグルス文庫2001年所収)

 「国家」の非暴力主義は「非武装中立」につながる。人を殺傷するあらゆる武器を持たず、いかなる軍事同盟にも加わらない。それは日米軍事同盟=安保条約の廃棄に通じる。

 日本国憲法の前文、第9条に明記された平和主義は、本来「非暴力主義」のはずだ。その原則が戦後自民党政治によって骨抜きにされ、いまや名実ともに葬られようとしている。

 「非暴力主義」を追究することは、憲法の平和主義の原点に立ち返ることだ。

 ガンディーがそうであったように、「非暴力主義」は宗教と関連する。本来宗教は、宗派にかかわらず、平和と人権を尊ぶもののはずだ。しかし、現実は逆に世界の戦争・紛争に「宗教」が深くかかわっている。「ウクライナ戦争」も例外ではない。

 「非暴力主義」を追究することは、宗教とは何か、宗教の真価とは何かを探求することに通じる。「宗教多元主義」はいかにすれば可能なのか。

 「非暴力主義」は、個々の人間にとっては「良心的兵役拒否」の思想に通じる。それは「死刑制度廃止」とも無関係ではない。

 「非暴力主義」の追究とともに、「国家」についてあらためて考えたい。

 「非暴力主義」の先に、「国家」という人を分断する境界のない世界、人を差別し抑圧する「国家権力」のない世界を考えたい。

 それが2023年の目標だ。
この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「防衛省オピニオンリーダー... | トップ | 水平社の「戦争協力」の歴史... »