アリの一言 

天皇制、朝鮮半島、沖縄の現実と歴史などから、
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日曜日記171・映画「MINAMATA-ミナマタ」を観て思うこと

2021年11月14日 | 日記・エッセイ・コラム

 映画「MINAMATA-ミナマタ」(製作・主演ジョニー・デップ、監督アンドリュー・レヴィタス)をシネマ尾道まで観に行った。福山では上映の予定さえない。情けない話だ。

 この映画の主人公は水俣病を世に知らしめた写真家ユージン・スミス(1918~78年)であり、水俣の患者・市民ではない。水俣病そのものではなく、アメリカのジャーナリストがなぜ水俣に身を置くことになったか、そこで被害者たちとともにどう闘ったかを描いた。そこにこの映画の意味がある。

 映画でも準主役の元妻アイリーン・美緒子・スミスさんは、「当初は映画化に抵抗感があった」という。しかし、「水俣病の問題は世界各地の環境汚染や公害問題と無縁ではない。若者たちが関心を持つきっかけにしてほしい」と協力を決意した(10月2日付中国新聞より)。

 映画は最後に、「この映画を水俣の人々と世界中の公害被害者とその支援者に捧げる」という字幕が出る。
 そして、エンドロールで、東日本大震災・東電福島原発事故をはじめ、世界各地の過去・現在進行形の「公害」被害の映像が映し出される。
 ここに、ジョニー・デップ、レヴィタス監督、アイリーンさんがこの映画にかけた思いが凝縮されている。

 アイリーンさんは中国新聞のインタビューでこう訴えている。
「水俣病の問題はまだ終わっていない。患者や家族たち、今も困難を抱える人々に目を向けてほしい」

 実際、水俣病は現在も、認定を要求して1700件以上の訴訟が行われている。

 考えさせられたのは、この映画が日本人によって製作されたものではないということだ。

 近年、日本で水俣病に関するどのような映画が作られたのか詳しく知らないが、少なくとも、「水俣病は終わっていない」「若者たちに関心を持ってほしい」「世界の公害被害者とその支援者に捧げる」という明確なテーマをもって、著名で実力のある俳優をそろえて作られた日本映画はないだろう。

 しかし、本来、こうした映画は日本でこそ作られるべきだ。当の水俣も福島も、日本だ。なぜ日本ではこうした映画がつくられないのだろうか。

 映画界の様々な事情はあるだろうが、根底に、日本人・日本社会特有の忘却性があるように思えてならない。政府や企業の責任を徹底して追及しない。だから公害や災害・人災を教訓化できない。できまま忘れていく。歴史から学び、それを若い世代に継承していくことができないのだ。

 他人事(ひとごと)ではない。高校生の時に土本典昭監督のドキュメンタリー映画「水俣」(1971年)を観て衝撃を受けたが、年を経るとともに「水俣病」は遠い存在になっていった。その後の数々の公害、そして阪神・淡路大震災、「3・11」…。68年生きてきて、なんと多くの公害、災害と歴史を共にしてきたことか。
 しかし、そこからいったい何を、どれほど学んできただろうか。

 自分の不勉強、怠慢を恥じるとともに、自分も含めたそんな日本人・日本社会をどうすれば変えていくことができるのか、せめて残りの人生でそれを考えていきたいと思う。

 

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