角館草履の『実演日記』

〓袖すり合うも多生の縁〓
草履実演での日々の出会いには、互いに何かしらの意味があるのでしょう。さて、今日の出会いは…。

草履職人の出世道。

2009年10月29日 | 地域の話


今日の草履は、彩シリーズ23cm土踏まず付き〔四阡円〕
濃紺基調の秋柄プリントをベースに、合わせは金のプリントです。
先日のブログ「シンデレラ編」でご紹介のベース生地に、「金」を合わせてみました。なんとも厳かな感じがイイですねぇ。「今日の草履」は、11月5日の公開実演再開から展示いたします。

日々の実演でお客様から訊ねられる様々に、かなり予想外の内容があったりします。ひとつに、『昔のお武家さんはこういう草履を履いてたんですか?』。このご質問は過去複数から言われてますし、中には『家老職になるとどんな草履を履いたんですか?』なんていうのもありました。

ご承知の通り角館は武家屋敷が有名です。西宮家もかつては武家ですから、そこで編んでいる「角館草履」などというものを目の当たりにすると、古く藩政時代からこの草履があったと誤解されるのかも知れませんね。こうしたご質問へのご返答は、ちょっと苦笑いが混じりますよ。

まぁ、こうしたご質問はそう多くないのですが、角館の歴史に関するお訊ねは日常にあります。茨城県からお越しのお客様は、かなりの割合で佐竹家をご存知ですね。佐竹家が徳川家康の命により常陸から国替えとなった際、土地の「美人」をみんな連れて行ったなんて話をよくされます。もちろん私たちはそんなこと、微塵も思ってないんですけどね。

全国からのお客様たちと日々そんなおしゃべりをしている草履職人が、実はこれまで一度も「秋田市立佐竹史料館」を訪ねたことがありませんでした。一週間の公開実演お休みの初日、かつて秋田本藩久保田城が建っていた秋田市千秋公園にある佐竹史料館を、本日はじめての訪問です。

先日の地方紙に、秋田藩八代藩主佐竹義敦(さたけ よしあつ)と九代藩主佐竹義和(さたけ よしまさ)の企画展が掲載されていました。
佐竹義敦は書画に巧みで、洋風画の「秋田蘭画」を世に遺しています。この義敦と画の世界で密接だったのが、角館佐竹北家の小田野直武、解体新書の挿絵で有名な人物なんですね。

平賀源内の勧めで、義敦は直武を江戸へ差し向けています。江戸で画の勉強をし帰国した直武を、義敦は秋田本藩の久保田城へ置きたがっていました。しかしときは財政逼迫のさなか、画を描くために家臣を雇い入れることなんかできないと、ときの家老はみな反対したようです。しかも直武は支藩である角館の生まれ、侍としての身分も高くはないんですね。

最近になって、家老たちへ登用の伺いを立てる義敦の書状が見つかりました。さすがにその書は展示されていませんでしたが、ほかの書を見ると義敦という人は実に文字が綺麗ですね。まぁ、なんて書いてるのか草履職人に読めるワケもないんですが…。

義敦の願い通り、直武は本藩久保田城へ迎えられます。ひとつに秀でた人間は、生まれ土地や身分と無関係に出世の道が拓ける、ひとつの例と言ってイイでしょう。
草履職人も藩政時代に生まれていたなら、支藩角館から本藩へ迎えられ、お殿様やお姫様、ご家老たちの草履を毎日編まされていたかも知れませんね。うん、姫の草履なら編んでみたい気もしますよ。

ただし登用に成功した直武は、後に義敦によって城を追われ、失意のうちに死んでしまうんです。30歳代前半という若さだったと思います。
これを思うと、やっぱり草履職人はだまって角館にいたほうが身のためでしょう。久保田城正門は、私ごときがくぐるに立派過ぎましたぁ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする