あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

貧困のどん底

2017年11月29日 18時53分07秒 | 後顧の憂い

安藤輝三
昭和五年の夏頃から、
時折、安藤は日曜日を利用して、
旧部下の生活状態を視察するようになった。
生活苦から安藤を訪れる除隊兵は依然とあとをたたなかったのである。
特に東京の浅草、月島、向島、荒川、葛飾、江戸川、足立 方面が多かった。
昭和六年の七月下旬、
すなわち菅波中尉が 歩三に転属になる少し前にも、
ある日曜日に安藤は(無二の親友) 湯浅を誘って、
隅田公園に近い花川戸の問屋街に旧部下を訪ねたことがあった。
「 このときは、
下駄や草履の鼻緒をあつかっている問屋の従業員であった安藤の旧部下を訪ねたのですが、
労働時間はでたらめで、早朝から夜遅くまで安月給で働かされているのをみて、
気の毒に思ったものでした。
ところが問屋に働いている者はまだいい方で、
次にその鼻緒を作っている小さな町工場へ行くと、これは問屋よりさらに過酷な労働条件なんです。
しかも下には下があって、
雨漏りと下水のくさい臭いが漂う長屋の中では、その鼻緒の下請けをやっているのがいるんです。
まるで内職みたいな仕事ですね。
この頃は失業者が街に溢れた時代ですから、それでも仕事のあるものはまだよかったんです。
働きたくとも働く仕事そのものがなかったのですよ 」
湯浅の回想によると、安藤に誘われて四、五回出かけた記憶があるというが、
このほかに、安藤が単身旧部下を訪ねた回数を入れたら、相当な回数になるだろうと語る。

安藤はいわば中産階級の出身であるが、
父の栄次郎は教師としても収入の多いほうであるから、
生活の苦しさは全く知らない。
それだけに聯隊へ安藤を訪ねて来る旧部下の窮状を聴いても、
信じられなかった部分もあったに違いない。
それが湯浅を誘った旧部下訪問、後には単身訪問ということになったようだが、
安藤にとって世相の苛酷さは何といっても衝撃であった。
潔癖で正義感の強い安藤に、社会の現実がどのように映じたかは想像に難くない。
むろん政府や政治家は一体何をしているのか、というふしん疑問は当然浮かんでくる。
こうなると安藤には政治がまるで悪魔の仕事に思えてくる。
だが、軍人の安藤には全く為すすべがない。
しかも、除隊していった旧部下だけならばともかく、
現在の部下である中隊の下士官、兵の中にも貧窮の家庭に育った者が多い。

下士官の中で、毎朝の洗面時に必ず兵隊が使っているランオン粉歯磨を借りる者がいた。
最初は忘れたと思って兵隊達もいい顔で貸していたが、
これが相手を代えていても毎日となれば次第にわかるものである。
「 班長は歯磨粉まで買わずに兵隊のを借りている 」
という評判がたち、やがて安藤の耳に入った。
安藤がそれとなく調べてみると噂は真実であった。
それに使っている歯ブラシも、実は古くなって兵隊たちが捨てたものを拾って、
内緒でいくつかを持っていた事実までわかった。
当時、聯隊の酒保で売っているライオン歯磨は、軍用で最も安いのは七銭であった。
ところがこの下士官は、聯隊から支給される俸給のほとんどを実家へ送金していた。
それでなくては残された家族が喰えなかったからである。
安藤中尉は、
その下士官が班長としての下士官の体面と、
実家の生活苦との板挟みになって心ならずも節約を重ね、
中隊内でケチの鼻つまみになっている事実を知って悩んだ。
残された家族が貧窮のどん底で呻吟しているのは、
その下士官の場合だけではなかったからである。
見かねた安藤が身銭をきったぐらいではどうにもならない。
また、食事時、初年兵の中にはたいして上等でもない聯隊の食事がもったいない。
祖父や弟にも食べさせてやりたい、
と ひそかに瞼をぬぐう者があることも安藤はよく承知していた。
さらに 旧部下の中には、
失業苦からルンペンになって上野公園あたりをうろついている者がある、
と 聴いて捜したことさえあった。
聯隊へ訪ねて来る旧部下の姿も依然としてなくならない。
ここにおいて安藤は次第に、
----こんなに家族のことを心配している兵を連れて戦場には行けない。
と 考えるようになった。
所謂 後顧の憂いである。
軍隊存立の建前からいっても、
民衆の貧困が、やがて軍隊の崩壊につながるのではないか、
と 結論を出した安藤輝三の思想を、
将校の身分意識でこれをとらえたとする批判は容易である。
だが、正義感溢れる安藤は、
部下の兵の家族だけでなく、旧部下の生活まで想いをはせた。
安藤が燃えるような眼差しで、湯浅に政治問題として民衆の生活苦救済を訴えても、
さりとて湯浅に満足な応えが出せるはずもなかった。
ここにおいて、安藤は初めて湯浅と政治を語り、現体制の矛盾を論じ合った。
こうしてみると、安藤中尉の情味が旧部下に慕われ、
かえってそれが安藤の精神的、物質的負担を重くし、
そして苦悩の結果政治への批判の眼を養成していったといえるだろう。

安藤中尉が菅波三郎の国家改造論に 打てば響くように反応を示した背後には、
これだけの経緯がある。
安藤が菅波に連れられて代々木山谷の西田税宅を訪れたのは、これから間もなくのことであった。
西田、安藤の初対面は互いに好感をもったという。
とくに西田は 安藤の謙虚な態度に感心したといわれている。
これは末松太平中尉の回想でもそうである。
安藤は陸士一期後輩の末松に対しても、革新派の先輩としてつねに教えを請う態度であった。
そして 安藤は、仙台幼年学校の一期後輩であった澁川善助に再会した。
安藤も澁川も、まさか革新派の同志として東京で再会しようとは、夢想だにせぬことであった。

暁の戒厳令  芦澤紀之 著 から