の
六萬余の窮民に
衣類足袋を配給
縣費で購ひ無料で □□□
石黑岩手知事さらに英斷
【 盛岡發 】 全國民の絶裡に施米を斷行した石黑岩手縣知事は第二の巨彈として
十二日 鹽しお、味噌、鰯の施給を聲明し
十三日朝から關係課長など集合して施給方針について協議の結果、
更に榮養不良のため瘦せ衰える行く凶作民に榮養を與へるべく
五萬貫の昆布を縣費で購入施給することに決定した、
また白魔襲來して寒空に震へてゐる窮民に對し衣類、足袋類等を
同じく縣費で五十四萬の凶作民中特に救濟を要する六萬七千名に對しこれを今月末までに
全部一名の洩れなく配給することゝなつた、
しかして今月上旬から一濟に開始された救農土木事業の賃銀は十日目毎に支拂ふことになつてゐたが、
これでは救濟の意味をなさぬといふので隔日支拂ひにすることになり、
十三日各町村一齊に通牒を發した、
今や石黑知事の善政は凶作民等から随喜の涙で迎へられてゐる
( 昭和九年九月十四日 )
・
教官の栗原中尉等の幹部と親しくなったのは初年兵の頃からである。
私は入隊前剣道二段だったので入隊後にはじめた短剣術もすぐ要領を習得し、
中隊でも右に出る者がいない程技倆が高くなっていた。
そのため剣術の訓練時にはいつも模範演技者として皆の前でやらされたため
いつの間にか栗原中尉の目にとまり、教官が週番の時にはよく部屋に呼ばれたものである。
また栗原中尉は私の郷里に居る藤崎という少尉と同期だったことから私を特別に意識していたように思われた。
次に林少尉とのつき合いでは、彼は剣術が好きで、いつも私の短剣を相手にして稽古された。
彼は小柄ながら腕っ節が強く その上ガムシャラなので面を打たれるとクラクラした。
そこで私は剣先であしらっていたが、時々打たせないと承知しないので、
痛さをこらえて一本取らせることにしていた。
こんなことからいつの間にか林少尉とも気心が通じ 親密の度が深まっていった。
これらの経緯から二年兵になった頃にはすっかり両名からお気に入りになってしまった。
・
昭和十年 つまり前の年に歩工連合演習で調子方面に行った時のこと、
私は現地滞在間栗原中尉の当番を命ぜられ身の廻りの世話をした。
この仕事は通常食事の上げ下げ、洗濯、手入れ等を行うものであるが、
中尉は演習から帰ってくると汚れ物をひとまとめにして行李につめ 逐次自宅に送ってしまい、
私には何一つ洗濯をやらせなかった。・・・「 お前は自分の兵器を手入れすればよい 」
他の将校とはこの点全く違っていた、
いってみれば割切った性格で
当番兵を伝令と考え雑用などに使うことを極力謹んでいたように思われた。
・
<十年> 前年八月のある日のこと、田島曹長と私は栗原中尉に呼ばれ、書物の複写を命ぜられた。
提出した書物をもとに六冊ほど できるだけ早く作ってくれとのことだった。
そこで曹長と打合せ、曹長室で三冊ずつ作成することにした。
本の標題が何であったか失念したが
内容に秩父騒動の原因とか日本国家の立直しの具体策といったようなことが論文調で記されていたのを覚えている。
早速作業にかかり毎日続けたために一週間で終わった。
すると栗原中尉はでき上った本を全部携行してどこかへ出かけていった。
多分同志に配布したのであろう。
残った書き損じの紙はまとめて私の家に持ち帰ったが、
後日 ( 事件後 ) 憲兵がきて総ざらい押収していったので今では何一つ残ってはいない。
・
相澤事件発生前日の明治神宮参拝のことである。
八月十一日、日夕点呼後 私が清水曹長の個室でしばらく話しこみ、
出てきたところ廊下で栗原中尉に呼び止められ、「 すぐ外出の支度をせよ 」 といわれた。
間もなく私は栗原中尉に随行して営門を出た。
行き先は原宿駅であった。
するとそこに相澤中佐が待っていて三人はそのまま明治神宮に向った。
もう夜中の十一時頃で人通りはなく静かな周囲を月光が青白く照らしていた。
私は両名の後方について歩くうち、橋のたもとで待っているようにいわれた。
( ここは大小二つの橋があって二人は大きな橋を渡っていった )
待つこと約五十分、両名は参拝をすませて戻ってくると相澤中佐は自動車を拾いどこかへ行かれた。
帰隊の途中 栗原中尉は私に
「 明日は早いよ、大きな事件が起こるぞ 」
と 一言いった。 ・・・今日本で一番悪い奴はだれですか
兵隊の私にそれがどんなことなのか到底考えが及ばなかった。
翌十二日、永田軍務局長は相澤中佐に斬殺されたのである。
昭和11年 東京
<十年> 十月中における私の行動。
その頃 栗原中尉のところに色々の人がやってきた。
その都度私は呼ばれてお茶を入れたがこの中に参謀の人も見受けた。
西園寺公襲撃計画を耳にはさんだのもその頃である。
こんなことで栗原中尉は演習にあまり顔をださず林少尉一人が指導していた。
従って栗原中尉が突然姿を現わすときはきまって
私が呼び出され中尉から渡された通信紙をもって伝令に早がわりするのが常であった。
行き先は歩三の安藤大尉か近歩三の中橋中尉で 月に三~五回ぐらいであった。
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竜土軒の見張り
竜土軒というのは歩三の営門を出た左方にあるレストランで、
青年将校たちがよく利用した場所で、十月以降ここにおける会合が大分多くなっていった。
集合する将校たちは背広や普段着などに服装を変えてポツリ、ポツリやってきた。
会合する部屋は奥の方で、会合のある日は私も店にきて伝令と見張りを受持った。
会議中 店の近くに憲兵らしい姿を見かけると、すぐに奥に連絡するのである。
だから万一憲兵に踏込まれても
話題を切替えて世間話や雑談などをしているので得る所なく引揚げるのがつねだった。
このため会合は順調に進んだようで時折集まった将校たちから感謝とお礼をいわれたこともあった。
こうして計画は着々進捗し、やがて一月十日頃 下士官兵の使用をめぐり栗原中尉と対立した中村中尉 ( 不確定 )
が同志を脱退したため、計画がバレるのを恐れ 決行時期が早まったということの他は一応円滑に準備が進んだそうである。
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兵器の保管
<十年> 前年十二月、栗原中尉から重たい荷物を預かった。
持参したのは元戦車隊の宇治野軍曹 ( 当時歩一、六中隊 ) と名乗る下士官であった。
栗原中尉は私に、
「 誰にも判らないように被服庫の中に保管しておけ 」 といった。
私は簡単に引受けて倉庫に運び、念のためあけてみると、
中に白鞘の日本刀五振、ピストル三挺、軽機一挺が収められていた。
どうして被服庫などに保管するのか不審に思ったが、いわれたとおり白布で包みなおし、
誰にも気づかれぬ場所に隠した。
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外泊のこと
二月二十四日 栗原中尉から突然
「 外泊を許可するから家に帰って一晩ゆっくり休んでこい 」 といわれた。
この時 恩恵を受けたのは私一人で狐につままれた気持だった。
何はともあれ家に帰りタタミの上で過ごしたが、
恐らく数日後に控えた蹶起でどんなことになるかを考慮した私への温情であったと思われる。
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湯河原襲撃隊の出動援助
二月二十五日 夜八時頃栗原中尉に呼ばれて将校室に入ってみると見知らぬ人たちが出入りしていて、
何かあわただしい空気であった。
私は早速お茶を出したり連絡に出たりしながら伝令としての役目を続けた。
やがて十一時前、二重廻しを着た男が五人将校室に入ってきた。
いずれもガッシリした壮士風の顔立ちである。
註 ・・ この五名とは 宮田晃、中島清治、黒田昶、水上源一、綿引正三でいずれも民間人である。
すると栗原中尉は彼等にあいさつを交わした後、私に向って軍服四着とこの前預けた包みを持ってくるよう指示し、
重ねて階級章は全部軍曹にせよといった。
この中の一人は持参したと思われる将校服を着用しはじめた。
駈足で倉庫に行き準備をした後、品物をもってくると彼等は隣の曹長室に行き早速着換え、忽ち下士官の姿に早がわりした。
将校室の中には栗原、林両名のほか 二、三名の者が壮行のために集っていたが、河野大尉の姿は見えなかった。
服装を整えた彼等は将校室に戻ると包みの中から日本刀を一振ずつとり、なおピストル、軽機を分け合った。
ここで私は栗原中尉からまた命令を受けた。
「 営門前に待機している乗用車を銃隊玄関前に誘導せよ 」
すぐ衛兵所に行き 指令にその旨を連絡し 乗用車を営内に入れた。
車は二台とも民間のハイヤーであった。
準備完了した彼等はここで歩一差出しの二名を加え一同に出発のあいさつをすると車の人となった。
この時舎前に週番指令の山口大尉もきていて彼等を見送っていた。
これが湯河原襲撃隊出動の状況で、指揮官河野大尉は営外で乗車することになっていたという。
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銃隊将校室における壮行会
湯河原襲撃隊を送り出して間もなく二三・○○頃 山口大尉が荒木大将をともなって将校室に入ってきた。
荒木大将は聯隊本部で山口大尉と話合っていたようで時間を見て本部の玄関から出て縦隊にこられた。
数分たった頃 栗原中尉は一寸いらいらしてきて、私たち ( 私と梅沢上等兵 ) に向って
「 真崎閣下はまだこんのか 」 といった。
私は返す言葉がないので、「 そのようです 」 と返事した。
やがて二〇分ぐらい遅れて待ち望んだ真崎大将がマント姿で入ってきた。
かくて部屋には集合した香田大尉以下数名の青年将校が両名の高官を囲むようにして集まると
真崎大将の音頭によって出陣への決意と壮行をあわせた乾杯が行われた。
この時 シャンパンを抜いたのは勿論私達であった。
乾杯が済むと両高官は帰ったが その間将校室にいた時間は僅かだった。
私はこの時廊下で両名を見送った。
・・・以下挿入・・・
<昭和> 五十五年の二月六日、私は防衛大学秦郁彦教授から突然電話を受けた。
事件の前夜、出発前に、真崎大将が歩一の機関銃隊を訪れたという話を、
当時、機関銃隊にいた篠田という人が読売新聞、二月四日の夕刊に載せているが、
その真偽の程を確めたいとのことであった。
私はその概略を電話で聞いた。
身なりの立派な五十がらみの二人の将校が、軍服姿をマントに包んで機関銃隊の将校室に現われ、
そのうちの背の高い人の音頭でシャンパンを抜いて乾杯し、門出を祝したというのである。
その後で栗原中尉が篠田上等兵に、今の方は真崎大将だと言ったというのである。
私は当夜身支度をする短い時間の外、ずっと機関銃隊の将校室にいたので、そのような事実はないと答えた。
仮にも陸軍大将が、予告なしに夜間兵営を訪れるようなことはあり得ないことであるし、
もし私のいない間にそんなことがあったとしたら、あとで話に出るし、私が知らない筈はない。
そんな事実があれば、真崎大将は事実上の黒幕で、青年将校の純粋な気持は踏みにじられてしまうであろう。
そうして栗原中尉や、村中磯部両氏の法廷闘争にそれは有力な事実として呈出され
陸軍を窮地に追いこむことが出来た筈である。
それに、そんなことがあったら、真崎大将は自決されていたに違いない。
またシャンパンの栓を篠田が抜いて乾杯したことなど、あきれた話である。
栗原中尉は事の発覚を極度に恐れ、一分一秒 生命を刻む思いで時の経過をひっそりと待っていたのである。
かりに一歩を譲って二人の将校がマントに身を包んできたというなら、
それが私が機関銃隊に来る前に、村中、磯部両氏が機関銃隊に現われて、
香田大尉と一緒に十一中隊に行ったことと符号している。
篠田のいう背の高い年輩の将校というのは、五十がらみに見える磯部さんのことに違いない、と私は答えた。
栗原中尉は、一寸茶目気のある人であったから、
或いは篠田上等兵を安心させる為にそんな話をしたのかも知れないと付け加えた。
秦教授も私の答に同意しておられた。
その直後、沢地久枝氏からも同様の問い合わせがあったが、前回と同じような話をし、
沢地氏もその通りでしょうと言っておられた。
このような雲をつかむような話は、事件参加の兵隊さんの話として伝えられているものが数多くあり、
話としては面白いので、マスコミはすぐ飛びつき、真偽不明のまま記事にしてしまうものである。
それからしばらくして、河野氏は
埼玉県の県史編纂室が出版した 『 二・二六事件と郷土兵 』 の篠田氏の手記がとり入れられていることを知った。
誤った史実が公表されることに抗議するため、河野氏は当時の生証人である私と、
当時真崎大将付きでずっとお伴をしていた金子桂憲兵大尉 ( 当時伍長 )と共に県の編纂室に柳田室長を訪ねて、
実状を話し、もし、そのような記事を乗せるなら、それと同時に反対の記事も掲載する必要があると主張した。
しかし残念なことに、この抗議は容れられなかった。
柳田室長は池田さんには次の出版の際に書いてもらうつもりだといったが、そのようなことは無かった。
畑知事も篠田の言を、兵隊は嘘を言わないと信じているそうであるが、
事件に関して第三者の臆断は、嘘と思い違いの上塗りをする結果を招きやすい。
興味本位に歴史を扱うことは、歴史への冒瀆である。
・・・池田俊彦少尉 生きている二・二六 から
・・・以上挿入・・・
以上の様に一連の行動に関与していた私は自然のうちに事件が起こることも予期できたし、
蹶起にも抵抗なく参加したのである。
・
それからしばらくたて〇二・三〇頃 下士官が全員栗原中尉の部屋に集合した。
その頃の私は日夕点呼以降ずっと用務で働いて眠るどころではなかった。
下士官たちは一時間もたたないうちに解散しその足で各班に戻るとすぐ非常呼集をかけた。
遂に行動開始となったのである。
武装して舎前に整列すると栗原中尉が出てきて昭和維新の断行を告げた。
次いで編成下達 ( これは去る二月十一日にできていたので人員を掌握するだけであった )
実包支給と準備が進められた。 私は伝令として栗原中尉についた。
やがて出発となったが時刻は〇四・三〇頃だったと思う。
雪は降っていなかったが夜明けの寒さが肌にしみ通る程であった。
・
目的地の首相官邸東側に着いたのが五時頃で すぐ行動に移った。
先ず 東門の前に警官が二名立哨していたので これから片付けることから始まった。
これは栗原中尉が主役になり
何げなく近づき一人の警官をいきなり抱き込み
マントの中から拳銃を相手の胸に押しつけ開門を命じた。
警官は観念したらしく 正門の前まで歩いていって中の警官に声をかけ開門させた。
もう一人の警官は邸内に入ったらしくすでに姿はなかった。
・
門が開きはじめると襲撃班はドッと邸内になだれ込み 建物を包囲し
私達は栗原中尉と共に玄関に進んだ。
だがこの玄関は頑丈でビクともせず、止むなく裏手に廻った。
すると角の窓が少しあいていて書生らしい男が外を見ていたのを目撃した栗原中尉が
サッと窓の中に体を割り込ませるようにして屋内に飛込んだ。
続いて私も教官に引きあげてもらい中に入った。
屋内は消燈されているので真っ暗だ、手さぐりで前に進むと廊下に出た。
栗原中尉は得たりとばかり先に進む、私も後に続く。
中尉は前もって官邸の見取図を作って研究していたので手さぐりしながらドンドン進んだ。
そのうち急に騒々しくなり発砲する銃声が聞こえだした。
他の襲撃班も屋内に入りこんだらしい。
一体建物の中にどのくらいの警官が潜んでいるのか、警戒を怠ると大変なことになる。
・
私がかなり奥まで進んだ時、
フト白い人影らしいものが廊下を小走りで奥に向ってゆくのを目撃した。
暗闇なので定かでないが人間に間違いない。
私は栗原中尉にその旨を告げ 一人で追跡しはじめた。
廊下がまたカギの手になって右折している。
私は慎重に警戒しながら白い影を追って一歩一歩すすんで行った。
やがて左側にある洗面所を通りこすと突如前方から警報ベルが耳を押しつぶすような大きな音で鳴りだした。
そこで音を目標に進んでゆくと右側に電灯のついている部屋が目にとまった。
ココダ !
私は勇気を出して中に入ると、そこに若い女が寝床の上に立っていた。
娘か女中か判らないがそこが女中部屋と判断した私は 「 女には用はない 」 といって引きかえした。
その時、三米程の距離の暗闇から突然拳銃が火を噴き、銃弾が私の腹部に食込んだ。
私は 「 アッ !」 と 声をあげ その場に倒れた。
傷口から血が流れ出すのか抑えた手がヌルヌルしてきた。
付近にひそんでいた警官にやられたのである。
私は夢中になって洗面所に這いこんだが忽ち意識を失ってしまった。
二・二六事件と郷土兵
慰霊歩兵第一聯隊機関銃隊 上等兵 篠田喬栄 著 「 栗原中尉と私 」 から