あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

東北大飢饉 (四) 「 人間を食うのは昔の人ばかりではない 」

2017年11月11日 09時02分56秒 | 後顧の憂い


昭和六年  木の芽・草の葉を混ぜた うすい粥で飢えをしのぐ農民 (青森)

飢餓地帯を歩く

ノンフィクション作家
下村千秋
昭和七年 ( 1932年 ) 一月十日

( 中央公論 S ・7 ・ 2 )

僅か二、三円の手付金で、一人の娘が売られて行くと、
東京の新聞にあったが、 それは新聞のよたであった。
いかに純朴な百姓とうえども、それほど愚かではない。
しかし、百円から三百円ぐらいの金で、一
人の娘が、
あるいは私娼に、
あるいは公娼に売られて行く例はザラにあるのであった。
私はその実例を、蟹田村の近くのある村落で見たのである。

そこは、青森市から、乗合自動車で三時間ほど、陸奥湾を右に見ながら、
泥と雪の道を走らねばならなかった。
このあたりも、殆ど無収穫の地であった。
しかし、百姓達の多くは、一方では漁夫でもあったので、いわし、たら の漁をして、
今のところ どうやら生きつづけているというのであった。
が、それも一月一杯で、二月以後は、当分無漁となる。
しかも、今までは年々、北海道から何百人とまとめて、漁夫を刈り出しに来たが、
今年はてんで来ないという。
ここでも、二月以後の生活は全く絶望であるというのである。
私は暗い思いで、揺られていた。
それは一月二日の午後で、
一旦止んだ雪が、また さんさんと降り出して来た。
降り出すと、海面は、一面の灰色に鎖され、行く手の道も、半丁先は見えないほどであった。
「 ひょっとしたら、吹雪になるだ 」
と、私の隣の男が言っていたが、
果たして、六里ほど進んだところで、雪は、渦を巻いて走り飛び出した。
と、私のうしろに坐っていた老人が言った。
「 飢饉の上に、三日も吹雪いたら、この辺の百姓は、干死んでしまうだ。
天明年間の飢饉年には、三万人からの人が干死んで、
生き残った者共は、人間の肉、そいつも十七、八の娘の肉がうまいというので、
それが干死ぬのを待って食ったという話だが、うっかりすると、今年もそんなことになるだ。
明治三十五年と、大正二年の飢饉は わしもよく知ってるだが、
どっちも今年ほどじゃなかった。
今年のような飢饉が来るというのも、いよいよ世が末になった証拠だ 」
「 だからさ、どうせ干死ぬなら、
せめて一度でも、米のめしをげんなりするほど食って見てえと思ってるだ 」
「 一度でも食えりゃ まだいいだ。
岩手の山奥じゃ、
茶碗一ぱいの米のめしを、家から家へ持ち回して、目で見るだけで喜んでいるちゅうだ。
それほどだから、病人が出来ると、枕元へその米のめしを置いとけば、
病気が治るとせえ 言ってるちゅうだ。
米を作る百姓が、米のめしを拝むことしか出来ねえとは、全く嘘のような話だよ 」

自動車は吹雪をついて走っている。
人々はそれで黙ったが、この時 うしろの方で、パンという音がした。
「 畜生、とうとうパンクしちめえやがった 」
運転手は、パンクを予期してたもののようにそう言って、車を止めた。
宿屋のある蟹田村まではまだ一理半ほどある。
この吹雪の中を歩いて行けるはずはなし、車の中のものは、私を合わせて四人、
道路に面したある百姓家の中へ避難したのであった。
家の中の暗さ惨めさは、浦野舘村の百姓家と変わりがなかった。
私達は、上がり框の炉端へ、足を踏み入れて火にあたった。
しばらくすると、風が少し静まった。
二人の男は、五、六丁先が自分の家だからと言って、穏かになりかけた吹雪の中を出て行った。
残ったのは、私と、五十歳ほどの老婆である。
その老婆は、蟹田村からさらに一里近く山手に入った小国村のものであった。
私はこの老婆と、その一夜を炉端で明かしたのだが、
老婆は、私を相手にさまざまの身の上話をした末に、
「 実は今日は、娘を、青森市の ごけ屋 ( 私娼の家 ) へ 置いて来たのです 」
という意味を、方言で話し出したのであった。
何故 娘をそんな所へ置いて来たか、それを今さら尋ねる必要はない。
私はまたも暗い思いで黙っていると、
老婆は、一人言のようにぼそぼそと、こんな意味のことも言った。
「 わしの村は、稲田一反歩から二斗ばかしか取れなかった。
それで、みんな外米を買って食べているが、それを買うには金が先だ。
その金を取るには、炭を焼くしかないが、その炭を焼くには炭材を買わねばならぬ。
というのは、青森県下の山林の七割までは官有林で、一俵の炭を焼くにも、
その官有林の木を現金で払い下げねばならぬ、
という始末で、わしらの村の百姓達も、今、ほとほと途方に暮れている・・・・」
この老婆は、見かけに依らず、青森県下の山林の七割までは官有林だということを知っており、
それに対して一つの意見を持っていたのであった。
また老婆は、こういう意味のことも言った。
「 この辺の百姓はまだ布団というものに寝られるので結構だ。
これから西の方の、北津軽郡の車力村、稲垣村、西津軽郡の相内、内潟、武田の村々の百姓達は、
布団の名のつくものは、一枚も持っていない。
みんなワラの中へ寝るのだ。
一番したに稲のワラを敷き、その上に、ネシキというむしろのように織った菅を敷き、
百姓達はその上にじかに寝る。
そして、上には十三潟から取れる水藻で作ったネゴ ( やっぱりむしろのように織ったもの ) を 掛けるのだ。
割に暖かいが、がそごそと、いや 全く、綿布団とは大変な違いだ 」
私は、岩手の山間の百姓達の生活が、生蕃人ほどの元始的であることに驚いたのであったが、
青森の百姓達も、これほどなのかと、再び驚かずにはいられなかった。
その前日、やっぱりワラの中に寝る百姓達の話をした男が、
「 飢饉は飢饉として 救わねばならぬが、
同時に、この機会に、岩手、青森の百姓達の生活が、
この年まで、いかに原始的な惨めな生活に虐げられて来ているかを曝露して、
都会の消費生活の目を覚ましてやらねばならぬ。
昭和の御代に粟や稗を常食とし、ワラの中に寝起きしている日本人がいるのだ
という事実を、為政当局者の眼前へ さらけ出して見せねばならぬ!」
と、叫んだのであったが、
私も、この老婆の話を聞きながらも、
全くそうだと思わずにはいられなかった。

老婆は今迄の話の結論のようにして、こういう意味をいったのである。
「 さっきの話ではないが、
人の肉を食ったのは昔の人ばかりではない。
わし達も、つまりは人を生かそうとすれば 子供の肉を食わねばならぬ。
そして、わしは今、娘を食って生きようとしている 」
私は、思わず老婆の顔を見つめた。
この老婆は、娘を売って来た小金を持っているらしいと、それを頻りと気にした。
そして、傍にいる私まで、
時々警戒するような素振りを見せるには、私も少しばかり参った。

さて、その翌日の夜、
私は、この老婆の娘を訪ねるために青森市の私娼窟へ入っていったのであった。
粉雪が降ってはやみ、降ってはやんでいた。
そして、往来には、雪と氷とがカンカンに凍っていて、私は幾度か滑り倒れそうになった。
そこは、海岸に近い所で陸奥湾から吹き付けて来る寒風が、
寒い往来の空気を、引き裂くように 吹き抜けていた。
私は、この三日前、
浅虫温泉の近くの兇作地、小湊村を歩いている時も、
雪と風とに、からだ中が凍りつくような目に会ったが、しかし、それもこれほどではなかった。
私娼窟---暗黒街へ、その女を訪ねて行くという気持ちも大分私の心を寒くしたせいもあったではあろうが。
私娼窟は、窟の名にふさわしくない。
広いガランとした往来の両側に、うす暗く並んでいた。
たいていは一戸一所にわかれた二階建で、私娼の家としては大き過ぎたが、
それだけに、うらぶれた感じが漂っていた。
多くは、三人か四人の女を置き、それが、入口の小座敷の中にいて、
前をうろつく男達を呼び込んでいた。
いけすかないが、えけしかないと発音するので、場所が場所だけ、ちょっとおかしかった。

ところで、彼女の家はすぐ解かった。
入口に四人の女が立っていた。
私は、彼女の本名を言って、その中から彼女を見出すと、すぐ二階へ上がった。
部屋は、日本中の どの私娼窟の部屋にも共通した恐ろしく荒れすさんだ部屋であった。
彼女は、はじめ、私をひどく警戒したが、
私が母親に会ったことを話すと、それからきゅうに打ち解けた。
しかし、百姓村にのみ育った女だけ、その様子は
---紅や白粉をこてこてと塗りつけているだけ、むしろ滑稽なほど奇怪な感じであった。
「 いつ、ここへ来たの?」
「 もう 十日ばかりになる 」
「 いつから店へ出ているの?」
「 三日前から 」
そんな会話から、彼女は、彼女の母親も話さなかったことを話し出した。
それは彼女の父親に関することであった。
彼女の父親は、村と、青森市とを往復して相当広い商売をしていた。
雑貨の卸商であった。
が、年々の不景気で、にっちもさっちも動きがつかなくなっている所へ、今年の兇作と、
つづいて、銀行の支払い停止とに出会った。
( 今、青森県下の銀行の殆どは、支払い停止である ) で 金の融通が全くきかなくなり、
同時に商売は ばったりと行き詰ってしまった。
父親は最早半分絶望状態になった。
そして、各方面の不義理はそのままにして、単身、青森市へ飛び出して来てしまった。
父親は、埠頭の仲氏となった。
しかし、さなきだに頼み人がない所へ、見ず知らずの父親が入り込んでも、
まるで仕事にありつけなかった。
父親は毎日、雪風に吹かれながら、埠頭の倉庫のかげで、弁当を食うだけのことしかなかった。
そうして、やがてその弁当も持って行けない日が来た。
ある日である、
父親は、空腹のあまり、仲間の弁当を盗んで食った。
それがすぐ発見され、父親は、仲間のものから袋叩きにされた。
そして足腰も立てぬまでに負傷した。
父親は、木賃宿の一室に、一人棄てられたように寝ていた。
「 それから四日目か五日目に、お父つァんは死んだの。
怪我のために死んだのか、干死んでしまったのか、それはだれにも知らない・・・・」
娘は、最後に、津軽弁でこう言ったのである。

私は、
これで筆を擱こう。
餓死線上にうめいている人々をさんざん書いた後に、
こんな話を持ち出すのは、読者も堪らないだろうし、
書く私は なおさら堪らないから。

青森県庁では、いま、あらゆる努力と方法とで、救済方法を講じている。
現に、去年の夏には、県会議員三十三名が、
全部お揃いで上京し 救済金の借り出しに奔走したとかである。
その救済方法は、
先ず、破産しかけている県下の銀行を救済し、
そして、それに依って融資の道を開き、県下の商工業者を救済し、
そうして後、飢饉地帯の百姓達を救済するのだと私は聞いた。
いや、そうじゃない。
直接百姓達へ、金を融通するし、食糧も給与するのだ、とも 聞いた。
夜道には日が暮れないそうだが、
凶作地帯の暗黒は、ただの暗黒ではないのだ。
と いうことは、県当局者も充分ご存じで、その一人は現にこう言ったのである。
「 もし この青森県下に、ただ一人でも、餓死者を出したなら、
それこそ聖代の恥辱である。
我々は絶対に、聖代を恥辱せしめてはならぬ!」
私は、県下の百姓達と共に、この言葉に非常な信頼と期待をかけよう。
( なお、秋田県、北海道の惨状も記すはずであったが、紙面の都合で割愛する。
其惨状は以上に依って推察して頂きたい )
 
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