あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

下士官の赤誠 1 「私は賛成します 」

2017年11月07日 20時19分55秒 | 下士官兵


私は昭和十年十二月仙台教導学校を卒業し原隊に戻り
第十中隊第五内務班長として専ら初年兵教育に任じていた。
当班には班付下士官が不在なので
加庭、宮崎の両伍長勤務上等兵を教育助手として訓練を行った。
当時中隊長島田信平大尉は歩兵学校在学中で、新井勲中尉が代理をつとめ、
鈴木金次郎少尉が教官で純粋無垢の若さあふれた気概で教育に専念していた。
なお中隊は小銃三、LG二の五コ班に分かれていた。
翌十一年(一月)十日、初年兵が入隊した。
実はその頃から中隊の下士官の間にある種の不穏な空気が漂っていた。
それは主として下士官食堂において閲覧する新聞その他の見聞に起因していたようで、
下旬頃になるとその感じが益々濃厚になってきた。
そこで根元をさぐってみると相沢事件から出発しているらしいことが判った。
当時相沢事件は取調の段階を過ぎ、
目下第一師団司令部の構内に特設された軍法会議で公判が開始になり、
その成り行きが注目される時期にあたり、
青年将校たちをひどく刺戟させていることに原因があったようである。
殺された永田軍務局長は、
かつて歩三の聯隊長をつとめた人なので聯隊としては同情すべきだが、
風潮は全く逆で 斬殺した相沢中佐の行為を容認する者が圧倒的で
中には無罪を主張する者さえあった。
私はその辺の事情がよく判らなかったが
時折配布される 「 大眼目 」 ( 月刊新聞 ) や
外出時に六本木の誠志堂書店で買った相沢中佐公判記録等を読んで、
次第に事件の真相や背景といったものが判りかけてきた。
 大眼目

以後相沢事件の公判に並行して、青年将校たちの動きが活発となり、
延いては我々下士官の間にも、
「 重臣ブロックの正体 」 「 国体宣揚と重臣ブロック 」
などの印刷物閲読により論争が一段と激しくなっていった。
そんなことから私は何かが起こるのではないかという予感をひそかに抱くようになった。

さて、二月二十五日、
その日は初年兵の実弾射撃訓練で朝から大久保射場に行き指導にあたった。
この時どこからか今夜非常呼集があるかもしれぬといううわさが流れた。
私は別に気にもせず聞き捨てにしていた。
実弾射撃は初めてだったが開始前の注意や要領の説明がよかったのか円満に進み、
かなりの成果を収めた。
このため早く終了したので
残り時間をLGの夜間射撃における命中精度向上手段について訓練をはじめたところ、
下士官集合がかかったので、
あとを加庭上等兵にまかせて鈴木少尉の元に集まると、
「 これから新宿に出てお茶でも飲もう 」 といった。
珍しいこともあるものだと思いながらついて行くと、多分 中村屋だったと思う店に入った。
この時の顔ぶれは 
鈴木少尉と福原、井沢、伊高、大森、井戸川、松本、宇田川、私の下士官八名であった。
しばらくして少尉が茶代を払い、円タクで帰営したが、それから一時間後に兵隊たちが帰ってきた。

その夜 ( 2 5 日 ) 九時頃
鈴木少尉 ( 週番士官に服務 ) の指示で、下士官全員は少尉と共に第七中隊長の部屋に集合した。
部屋の中には七中隊の下士官も集まっていて私たちが入るとすぐ扉をピタリと閉めた。
すでに話が進んでいたらしく机の上には洋菓子と共にガリ版の印刷物があった。
野中大尉は私たちを見ると一寸顔をくずし、「 十中隊もきてくれたか 」 といってすぐ切り出した。
話の内容は
相澤事件の真意、昭和維新の構想、蹶起の時期、
といったやはり私が予想していたことの具体的解説とその決意であった。
「 今述べたことをこれから実行する。そこで貴君等の賛否を伺いたい 」
大尉の顔がひきしまり、目が光った。
私たちは蹶起が正しいことなのか邪であるのか考えたが判断がつかず、しばし声なく数分間の沈黙が流れた。
やがて私は、
「 賛成します 」 と答えた。
すると他の下士官も追随して賛意を示したので、
それを聞いた野中大尉は、
「 賛成してくれたか、それでは細部について述べる
が、まさか裏切ることはあるまいな 
といいながら全員の顔を机上に集めて地図を拡げた。
以下 大尉の話は核心に触れていった。
出動部隊名、兵力、各部隊の襲撃目標、そして中隊における非常呼集の時刻、
兵の起こし方、装備、携行品等、こと細かく説明が続いた。
第十中隊は第三、第七中隊と共に警視庁を襲撃することを確認したとき何か体が引締まる思いがした。
その時ノックする音が響いた。
一瞬ギクリとしながらも内側から聞くと
見知らぬ将校が御苦労といいながら飛込んできた。
野中大尉の紹介で その人が磯部一等主計であることを知った。 
彼は重ねて 「 よろしくたのむ 」 とあいさつし、
約十分間ほど゛紅茶を飲み菓子を食べながら雑談して帰っていった。
何の理由できたのか不明だが 恐らく激励か蹶起の確認にきたのではなかろうか。
それから三十分位いたった頃、野重七の田中中尉がきた。
彼も紹介によって同志の一人であることが判った。
彼は顔を見せた程度ですぐ出ていったが、営門前に彼の指揮するトラック数輌が待機しているとのことであった。
私たちはなお十一時頃まで出動上の細部打合せを行い ようやく野中大尉の部屋を辞去した。

私は自室に戻るとしばし肝を決めたうえで徐ろに両親あての遺書を書いた。
幹候を奨められても
敢えて下士志願をして渡満を志していた真の目的は蹶起の趣旨に添うものであり、
実際のところ死を決意することができたのである。
遺書を書き終わりかけた頃
鈴木少尉が入ってきたので新井中隊長代理不参加の理由を訊ねたところ、
彼は共鳴しているが時期尚早を唱えているので連絡していないとのことだった。
少尉は私の遺書の表書きを見て遺書など書かん方がいいといった。
しかし万一の身になったとき
自分の行動を残すのは遺書以外にないので敢て書き上げ机の引出しに収めた。

時間が刻々過ぎ、やがて〇〇・〇〇を廻った時、私は兵室に行き、加庭上等兵を起こした。
そして非常呼集の発令を告げ、手分けをして静々粛々のうちに一人一人起こした。
電灯はつけず、カーテンは開けず、声を立てず万事打合せどおりに行った。
私は全員が寝台の前に起立するのを待って 蹶起趣意書 を静かに読みあげ、
これは命令ではないこともはっきり告げたうえで、
「 中隊に只今非常呼集が発令された。これから出動するが参加の意志のないものは就床してよし 」
といったが一人として不参加を表明する者はなかった。
そこで留守業務、連絡等のため風邪ひきの二名 ( 二等兵、初年兵各一 ) を残し全員出動に踏切った。
仕度は二装用軍衣袴着用である。
それから私は初年兵に命じて酒保から荒縄を持ってこさせて
各自軍靴をしばり舎内歩行の靴音防止に心を配った。
これは当中隊の外側が外人居留地で彼等の住宅があるので感知をおそれたからである。
私は次に編成を下達し二コ分隊をまとめた。
分隊長は私と加庭上等兵である。
なお第四班では班長新井軍装が風邪で就寝中のため
班付の宇田川伍長が編成をすすめ三コ分隊を作ったところ、新井軍曹は遂に起きあがり出動を決意した。
そのうち伊高軍曹が実弾を運んできた。彼は兵器掛である。
早速班内で分配が始まる。
小銃は一人四〇発、LGは一コ分隊六〇〇、小銃手には五〇発、
射手、弾薬手、懸架手には拳銃が交付され、これには三〇発であった。
受取る兵の顔がサッと緊張した。
なお警視庁の新撰組はガス弾の操作を習得しているので、
万一に備えて防毒面を携行すること、
場合によっては鉄帽着用が予想されるので、
戦闘帽を背嚢の中に入れておくことなど指示した。
出発準備が完了すると待機の姿勢となったので、その間各自手箱内の整理をやらせた。

〇四・三〇集合がかかり
第十中隊は七中隊の中庭に整列、ここで野中大尉の指揮下に入った。
第三中隊も集合したところで野中大尉から訓示が行われた。
「 行進にあたっては行動を発覚されんよう注意せよ。
できれば交番前を通るとき下士官は「御苦労」ぐらいのあいさつをいって通れ」
「如何なる時でも宮城に向っての発砲は厳禁する。最後の抵抗線は御濠とする」 等


こうして十分後出発した。
第三、第十、第七、配属のMGの順序である。
歩一の営門前で約十分間停止、歩一から出てきた部隊と合流し再び前進、
そして溜池附近から分進行動をとり歩一部隊は首相官邸へ、私達は警視庁へと向った。
現地に到着すると私たちは庁舎の裏手にまわり、すぐLGをすえて散開した。
野中大尉は常盤、清原両少尉をた随え正面玄関から入った。 
時に〇五・二〇であった。
私たちが警戒にあたっていると庁舎の窓に灯りがともり、漸次灯の数がふえていった。
内部で何かが起っているようだ。
そこで兵隊一人一人に灯りのついた窓を割当てて狙いをつけさせた。
緊張の中で状況を窺っていると五分後にうす明るくなった屋上に懐中電灯が光り
「 警視庁占拠成功 ! 」 という声が聞こえてきた。
問題の新撰組は建物の地下にいたようで、
彼等の隊長と野中大尉の話合いが成立し庁舎が明け渡しになったという。
私たちはすぐ構内に入り裏手方向に対する陣地を構築し警備に入ったところ、
間もなく急報に接しかけつけてきた警官が裏門にきたので入門を阻止し全部追いかえした。
表玄関の方でも野中大尉と登庁してきた警官がやり合っている。
「 我々は国にの為に一時占拠するがその間だけ入らないでもらいたい 」
「 私も国の為に働いている者だ 」
「 我々はあなた方より一歩先んじて国政改革をやっているのだ 」
種々応答した末相手は渋々引退った。
〇八・三〇頃内務大臣官邸の襲撃命令が下った。
これは十中隊の鈴木少尉以下六〇名が出動したが、
私の分隊は構内裏から庁舎左正面海軍省側の警備を担当した。
鈴木少尉たちは間もなく戻ってきて大臣の不在を告げた。
その頃海軍省の構内が大分活発に動き出してきたので、これにLGを向けて万一に備えた。

警視庁の周囲はいつの間にか民間人がつめかけ、
道路上約百米位の距離から私たちの行動を見つめていた。

そのうち群衆の中から小柄な男が飛出してきて
「 隊長に会わせろ 」 と 怒鳴った。
警視庁の幹部だと名乗るその男は目を光らせ見るからに精悍な感じがした。
私はすぐ野中大尉に連絡してきてもらうとすぐ問答がはじまった。
「 目下占拠中なので入っては困る。若し制止をきかず入るなら射殺する 」
「 入れないのなら我々も攻撃するまでだ 」
私はこの間 群衆に銃口を向けて警戒にあたらせたが、私は海軍省内の動きをも注視していた。
黒山の群の中には警官がかなり混ざっているらしく、口々に私たちの行動を非難していた。
次第に声が荒立ってきたので大尉はその男に群衆を解散させろと命じた。
男は事態が硬化するのを察し、止むを得ない旨を説明し群衆をなだめ解散させた。
事態が一段落したあと鈴木少尉が私の所へきて
「 福島班長、これからが大変だ、しっかりやろうな 」 といった。
そして聯隊から届いた飯を食べた。
その時、私はこのたびの行動を聯隊長も認めてくれたものだと大いに安心し、暖かい飯をかみしめながら食べた。
その日は終日警戒態勢を続行、夜になって相向いのビルに入り休養した。

二十七日、
蹶起部隊は小藤大佐の指揮下に入った。
これは戒厳令の施行により、蹶起部隊は戒厳司令官の管下に入り、
その地区隊長に小藤大佐(歩一聯隊長)が任命されたためである。
中隊は朝方警視庁の占拠を解き、新国会議事堂に至る道路上で警備につき、
その後文相官邸に本拠を構えた。
警備は淡々として続いた。
この間何の命令もなく、食糧も届かず孤立した状態が経過した。
こうして空腹をかかえて警備しているうち 二十八日 がきた。
そこで私は分隊を麹町小学校の垣根下に散開させ、
雪で掩体を作りLGを中央にすえ戦車攻撃にそなえた。
こうなれば死ぬ以外になく全員の気持は悲壮感に傾いていった。
私は〇九・〇〇頃警備状況視察のため路上に出たところ、
マントを纏った一将校が小型拳銃を右手にして走ってきた。
そして私に、 「 敵が攻撃にかかったから注意しろ 」 といった。
よく見ると磯部主計であった。
それからしばらくして本部の方から四斗樽が届けられ飲めといってきた。
気勢を盛り上げるためのはかないのようだ。
それを見た私はすぐタバコを買ってきて隊員に勧めた。
「 いいかよく聞け、間もなく戦闘が始まるぞ、腹がへっては戦さはできぬというがそのとおりだ。
 そこで我々は戦闘にそなえ煙草を吸い酒を飲み雪を食え 」
死んで行く身であれば それで満足すべきだったかもしれぬ。
午後 野津敏大隊長がきた。
次いで渡辺特務曹長が丸腰で震えながらやってきた。
そこで私たち幹部は官邸内の一室に集合して大隊長の説得を聴いた。
「 お前たちは叛乱軍になっている。
汚名から脱するには一刻も早く聯隊に帰るしか道はない。
鎮圧軍は刻々包囲網を縮めて総攻撃に移ろうとしているが、その先頭には歩三がいるのだ。
しかも同じ中隊の者が出されている。これでは撃合いなどできんだろう。
早く帰ればその苦しみもなくなるのだ。さあ俺がつれて行くから一緒に帰れ 」
大隊長の説得で一同の顔に思案の色が漂いはじめた。
鈴木少尉にも混迷の色がありありと見える。
私はその様子をみてすぐ反撥した。
「 お言葉は有りがたいのですが、野中大尉殿の命令がなければ如何に大隊長殿の命令でも駄目です 」
この一言で一同の思案が吹飛んだ。
出動の指揮官は野中大尉なのである。
兵隊たちは私らの様子を窮っていたが、一人として動揺の様子は示さなかった。
私は兵を信じた。そして改めて軍律の厳しさをかみしめたのである。
二人は遂に私たちの固い信念にあきらめの表情をあらわしながら帰っていった。

二九日朝
鎮圧軍は圧力的な方法で最後の説得を開始した。
戦車が轟々と地ひびきを立てながら徐々に近づいてきて、
手はじめに私たちより前方に出ていた第四分隊 ( 新井分隊 ) を先ず説得の対照にした。
将校が盛んに新井軍装以下を説き伏せていたがやがて十分もたった頃、
隊員たちは武装を解きトラックに乗って去っていった。
相手方は各個に説得しては帰隊を促しているようである。

私は状況を判断し即刻官邸に引上げ門扉を閉ざした。
兵隊には庭に叉銃をさせて休けいをとらせたところ
戦車や歩兵が続々と近づき門前は忽ち佐倉の五七の兵隊でうめつくされた。
間もなく戦車の天蓋があき将校が姿をあらわした。
そして
「 お前たちは奉勅命令が下ったのがわからんのかッ 」 と 怒鳴った。
私が近くに行って、「 誰が誰に命令したのでありますか 」 と 反問した。
「 お前たちは叛乱軍なのだぞ 」
「 こ の地区を守るのは尊皇軍です。あなた方こそ叛乱軍だ 」
「 問答無用 ! 帰隊しなければ砲撃するぞ 」
「 砲を撃てばあなた方も死ぬ・・・・あなた方が退れば我々はそのあとについてゆきます 」
私は死を覚悟しているので何でも平気で応答した。
すると戦車は静かに後退していった。
「 くそくらえ戦車め ! 」
私がにがにがしくつぶやいたとき、どこからともなく君が代のラッパが聞こえた。
緊張の中に響くラッパの音はまことに荘厳であった。

あとで判ったことだがこのラッパは 第三中隊の指揮官清原少尉が帰隊に際し、
宮城に向って部隊の敬礼を行ったとき吹奏したラッパであったという。

戦車が退った後、包囲していた五七の一部が裏庭から飛込んできた。
その数五、六名、彼等はジロジロ見渡すとまた引上げていった。
ここに至って鈴木少尉は観念したかのように、私たちに向って簡単なあいさつをした。
「 全将校はこれから議事堂に集合してハラキリだ、
お前たちは元気で原隊に帰ってくれ、出動期間中御苦労であった 」
少尉はいい終わると駈足で出ていった。

残された私たちは放心したように後姿を見送ったが、
フト ( 鈴木少尉は何故聯隊まで一緒に帰ってから自刃しないのか ) と一寸腹が立った。
やがて五七の後からトラックが徐行してきて正門の前で停車すると車上の将校が、
「 お前たちをトラックで聯隊に送るから武装を解いて乗車せよ 」 といった。
私はすかさず、
「 武装したまま乗車を許可するなら今すぐ乗ってもよい 」
軍人が武装解除を受けることは最大の恥辱である。
原隊復帰を条件にそのような行為に応ずることに反発した。
良心が許さぬ、俺には下士官としての誇りがある。
すると将校は、
「 よし判った、そのままでよろしい 」
こうして五、六〇名の者は着剣したままの銃をもって乗車し
五時過ぎ聯隊に帰ってきた。

その時肝はきまった
歩兵第三聯隊第十中隊 伍長 福島理本 著
二・二六事件と郷土兵 から
次頁 2 「 これ程言っても命令に服従したと云えんのか 」 に 続く