昭和六年 木の芽・草の葉を混ぜた うすい粥で飢えをしのぐ農民 (青森)
飢餓地帯を歩く
ノンフィクション作家
下村千秋
昭和七年 ( 1932年 ) 一月十日
( 中央公論 S ・7 ・2 )
二
岩手県下は、この岩手郡を始め、
二戸郡、八戸郡の大部分、下閉伊郡、上閉伊郡、和賀郡の一部分が、飢餓地帯と化した。
その總面積は約三千町歩であるという。
殊に問題であることは、八戸郡、下閉伊郡の交通不便の山地であるという。
鐡道はなし、道路も山地の凸凹道で、トラックは勿論、馬橇ばそりもろくに通れない地區が多い。
この地方は、水田が殆どないので、平年でも、畑作もの、即ち、粟や稗を常食としているのだが、
今年はその粟や稗も殆んど取れず、代用食であるシダミ ( 楢の實 ) トチの實もまた
よく實らなかったというので、今唯一の食物は、わらびの根であるが、
これにも限りあり、また雪が尺餘に積もれば、それを掘り取ることが出來なくなるので、
この時になって、今言った交通不便のため、他所からの食糧運搬が不充分であったなら、
彼等は文字通り餓死するのではないかと言われているのである。
私は、御堂村を訪ねた翌日の午後、二戸郡の小鳥谷こずや村の山間の地區へ入り、
ある山裾にあった炭焼小屋の老爺と話したのである。
昨日降った雪が、山かげに三、四寸に積もり、雑木林の地肌にはうすい白い雪が敷かれて、あたりはひっそりとしていた。
炭がまは、かやの屋根に蔽われ、
その屋根のうしろの煙出しからは、浅黄色の煙がほうほうとこぼれ出て、
傍の雑木の梢にからまりながら消えて行った。
老爺は、かまの前の風穴の所にこっちりと縮まり、かまのぬくもりで暖まりながら、炭俵を編んでいた。
老爺は、いろいろの凶作話の末こう言ったのである。
「 いよいよ食うものが無くなりゃ、こんどは金で買わなければならねえが、
その金を取るにゃ、この地方ではこの炭焼きするより外の方法はねえでさア。
だが、この炭材は、官有林から払い下げにゃならねえで、それが現金でなくっちゃいけねえですから、
まずそれで困るですがす。
それからやっと炭材を買い込んで、こうしてかまで焼いた炭が---楢の上等の五貫目俵が、
たった四十五錢ですからな。
それもこのかま一つからやっと二十俵で、日數にすれば五日はかかります。
五日で二十錢、賣って九兩ですが、炭材代を差し引くと、残るのが五十錢か六十錢、
一日やっと十錢の稼ぎというわけです・・・・」
ここで私は、少々聞き難いことであったが、思い切ってこう聽いてみたのであった。
「 それでは、僅かの金のために、娘を賣るような家もあるのでしょうね?」
すると老爺は、何にも言わず、靜かに首を廻して私の顔を見詰めた。
炭がまの熱に焼かれた赤黒い皺しわだらけの顔であったが、
それがやがて笑うとも泣くともつかぬ顔に變ると、こう言ったのである。
「 お前さんは知っているかどうか、
山に吹雪が來る時は、その山中の小鳥共はチンとも啼かねえもんです。
小鳥共は、山の荒れることを知って、どっかへ飛んで行ってしまうものと見えますだ。
この村の小鳥共もそれと同じですがす・・・・」
私はこれ以上訊くことは出來なくなってしまった。
凶作と貧しさに追われて 不況に打ちひしがれる農村の娘たちを狙う
大都市に身を賣運ぶ娘たち 口入屋 だけは大繁盛だった
・
この、娘を賣る哀話は、靑森県の津輕半島へ入ってから實際に聽きもし見もし、
私は、その賣られた娘とも會って話したのであるが、これは後に述べることにして、
私はます゛、靑森県下へ踏み込んで、大一番に見聽した三本木町、七戸町附近 及び、
浦野館村一帯の飢餓地の惨狀を述べなければならない。
ここは、上北郡内で、例の太平洋横斷機の飛び出した淋代海岸もその一部であるが、
私が踏み入ったのは、この海岸より八甲田山の方へ六、七里入った平野の村であった。
岩手県には僅か三、四寸の雪も、この地方へ來ると、七、八寸から一尺ほどに積もっていて、
遙か北の空を区切っている八甲田山は、麓まで眞っ白に輝いていた。
三本木町までは輕便があったが、それから七戸町、浦野館村へ行くには乗合自動車しかなかった。
しかし私は村々を一つ一つ見て歩くために、一人の百姓靑年を道案内に頼み、
ズボンには巻ゲートルをつけて、歩ける所まで歩き、歩けなくなったら、
どっかの百姓家へ泊めて貰う覺悟で、ぼつぼつと歩き出した。
それが十二月二十九日の朝である。
私は歩きながら靑年と話した。
「 斯の地方は南部馬の名産地である筈だが、今年の値はどうでした?」
「 てんで問題になりゃせんでした 」
と、靑年は投げ棄てるように答えた。
「 二歳子のいっとういい馬がたまに百五十圓ぐらいに賣れたが、
これでも、飼いば料を引いたら儲かる所はありません。あとはたいてい一頭五十圓ぐらいで、
ひでえのは、たった三十圓ぐらいですから、みんな、一頭について百圓あまり損をしたです 」
「 養蚕ようさんはどうです 」
「 やっぱり問題になりゃせん。
一貫目一圓だの一圓二十錢だのでは、桑代の三分の一にもなりゃせんから 」
「 それじゃ、外に金を取る方法がありませんね 」
「 この邊では、なんにもありません。
山地じゃありませんから、炭焼きも出來ないし、海には遠いですから漁は出來ないし、
だから、金といったら米を賣るしかないですが、
その米が三部作以下ですから、賣るどころか、もうそろそろ食いつくしてしまったです。
仕方がないので、どこの家でも、じゃが芋を餅にして食っていますが、
それもあと一ト月もしたら無くなってしまいます。
それで金はなし、外米も買えないとなれば、その時はどうなることか。
いくら百姓が馬鹿でも、いよいよ何んにも食えなくなったら、黙って死にゃしまい、と 俺達若者は言ってるです 」
「 県庁の方から、救濟金や米が來ないですか 」
「 まだなんにも來ません。たとえそれが來たとこで、やっと生かして貰えるのが關の山で、
これから先の百姓の暮らしが根っから救われるわけじゃないから、
先のことを考えりゃ、みんな眞っ暗な気持ちです 」
私は、この旅の歸途、私の郷里の百姓の友人の口からも、これと同じような意味のことを聽き、
百姓の生活に對して、絶望的な氣持ちしか抱いていないのは、
ひとりこの靑森県下の兇作地の靑年ばかりではないと思ったのであった。
しかし、この飢餓地の靑年の口からこれを聽いたとき、
私は、この旅に出る時に知りたいと思った一つの疑問
---百姓達の胸の奥に潜んでいる考えの一つを伺い得たとおもったのであった。
このあたりの自然は大陸的で、朗らかであった。
尺餘の雪が一面に光り、タバコ色の落葉松の梢が美しく聯なり、
その彼方には、銀色の八甲田山がなだらかに走っていて、私は、思わず言葉に出した。
「 しかし、このあたりの景色はいいねえ!」
すると、その靑年は、こう言ったのである。
「 でも、このあたりの畑も、今年はひどい不作でした 」
百姓達にとっては、美しい自然の風景は、同時に食物を豊かに実らす土地でなければならないのだ。
その土地が、全く食物を実らすことが出來なくなれば、美しい自然も風景もあったものではないのだ。
---私は、ここでも黙るより外なかったのである。
・
ところで私は、この靑年の言おうとしていることを、
もっと率直に露骨に叫んでいるのを、七戸町のある暗いめし屋で聽いたのである。
それは、五十ぐらいか、それとも六十の老爺か、
長い間の生活の寒風に曝された顔は、末の皮のように荒れて硬くなっていた。
彼の前には、二本ばかりの徳利が置かれてあった。
そして相應に酔っていた。
「 それでも酒も飲める男もいるのだ 」
私は、そう思いながら、きもちよくその男を見ていたのだが、
その男は、木の瘤こぶのような拳をふり上げながら、めし屋の主婦を相手に叫んでいるのだ。
この地方の言葉を言っているので、私には解からない所が非常に多かったが、しかし大体は聽き取れた。
「 いいか、おかみさん、二年半育てた馬が ただの三十五兩だよ。
それも、この七月に渡して その金がまだ入らねえだ。
仕方ねえから、今日は、馬を取りかえして來べえと思って出かけて行ったところが、
それはかんべんしてくれろ、馬を持って行かれてしまっては、
わし等親子四人が干ぼしになるだ と言われただ。
相手は馬車曳きだからな。
それでも、五兩札一枚だして、今年はこれで我慢してくれろ、と 拝むだねえか、
なア、おかみさん。そこでわしは 言っただよ。
ようし、こうなっちゃ、お互い様だ。干ぼしになって死ぬ時ア 一緒に死ぬべえ、と 言って、
その五兩札へ二兩のお釣を置いて歸って來ただが、
おかみさん、去年は豊年で、それでもやっぱり飢饉と同じことだった。
つまり、豊年飢饉てえ奴だというが、わしもこの年になって初めて聽いたばかりでねえ、初めて出會った。
なア こういうことア 一度起こったら 毎年起こって、それが年々惡くなるばかりだ。
そうなりゃ、豊年もくそもねえじゃねえか。
・・・・そこへ持って來て、今年は飢饉の飢饉、
これでは來年は、百姓奴等は、干ぼしになって 飢え死んで 野たれ死んで、
それでも足りなくて、首をくくって死ぬ、ということになるだア。
べら棒め・・・・なあ、おかみさん、
わしも一人の息子を満洲の兵隊へ出しているだが、
こないだも手紙で言ってやっただ、
國のために勇敢に戰って、いさぎよく戰死をしろ、とな。
そうすりゃ。
なア おかみさん、
なんぼか 一時金が下って、
わしらの一家も この冬ぐらいは生き伸びるだからな。
娘を持っているものは 娘を賣ることが出來るだが、
わしは、
息子しか持たねえから、
そうして 息子を賣ろうと考えてるだよ・・・・」
・・・リンク→ 後顧の憂い 「 お前は必ず死んで帰れ 」
満洲の戰場から還る英霊の大半は農村の働き手たちだつた。
戰争は凶作の農村に二重の追い討ちをかけた
その男は、
これらの言葉を土間の土に向って、
一つずつ
叩きつけるように
叫んだのであった。
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