昭和六年 木の芽・草の葉を混ぜた うすい粥で飢えをしのぐ農民 (青森)
飢餓地帯を歩く
ノンフィクション作家
下村千秋
昭和七年 ( 1932年 ) 一月十日
( 中央公論 S ・7 ・2 )
三
「 西部戰線異狀なし 」
の中に、地上で戰争をする兵士にとっては、大地は、地べたは、土は、母の懐である。
大地のみが守護してくれる。
その大地の有り難さを知るものは、戰場に於ける兵士以外の者には全く解からないものだ、
という意味のことが書いてあるが、
百姓達に言わすれば、
百姓達にとっても、大地は、土は、母の懐であるのだ。
一切であるのだ。
土の有り難さを知るものは、百姓以外の者には全く解からないものなのだ。
その大地が、その土が、
今年は、一切の食物を實らせなかったのである。
母の懐は、死人の懐と化してしまったのである。
その最大の原因は、上の表に示す如く、
五月の稲の植え附け時から、九月の稲の實る節まで、僅か數日を除いた他の百数十日は、
ただの一日も平年の温度には達しなかったためであった。
ばかりか、八月、九月には、二度までも、非常な厳寒と降雹こうはくとに見舞われた。
水稲も、畑の作物も、僅かにその茎を育てたきり、ついに満足な實を入れる暇がなかったのであった。
そうして 十月が來れば、いやでもこの地方には冬が來る。
十一月となれば 雪が降り出す。
昨年の豊年飢饉のために、さなきだに、この社會を恨み嘆いていた百姓達は、
この年の飢饉襲來に依って、完全に自暴自棄の絶望狀態に陥し込まれてしまったのである。
彼等は、宿命論者となって、大自然の無情を儚はかなむと同時に、
一方では、被壓迫者の立場から、
現在の都會中心制度、都会商工業制度から來る搾取階級の無法を恨み呪うようになってしまった。
だが、斯く考える力を持ち、
それを實行に現わそうとする意志を持つ農村の若き人々に對しては、
私達は、或る未來と希望とを期待することが出來るが、
それすら持つことの出來ない純朴な老人、母親などを見るとき、
私は、ただ、暗涙を流すより外はなかったのである。
・
私は、七戸町のめし屋を出ると、
案内の靑年の後についてこの附近の最兇作地の浦野舘村へ向かって歩き出した。
まだ午後二時頃であったが、空一面に墨色の雲が蔽いひろがって、夕暮のように暗い。
しかも田圃の中の道路は、馬車と乘合自動車とにこね上げられて、雪と泥との河である。
七割の納税不能者を持つというこの村では、道路の修繕費など、一文も出ないので、
この通りの泥道であるというのだ。
私はこの泥道で、
七戸町へ買いものに言って来たという一人の百姓の母親と道づれになった。
母親は、二つぐらいの子供を、かくまきで包み背負い、
手には、買いものの風呂敷包みを持っていた。
そうしてその足には、大きな藁靴わらくつをはいていた。
それはまるで、竹串へ八ツ頭芋を刺したようであった。
泥にまみれたまま、わら屑くずが、雀の巣のようにほうけ出し、
藁靴というよりは ただのわら屑を足のまわりに纏わりつけたという風であった。
長野県でも、新潟県でも、雪靴というのを見たが、
それはもっと手際よく作ってあったのを思い比べて見て、
私は、この地方の百姓達の不器用さ、というよりは、
こんな藁靴にも非常に幼稚な原始性を発見して驚いたのである。
背中の子供の手には、赤い風船が一つ、竹棒の先にふわふわしていた。
私はこれを見てまた思わず、ほろりとした氣持ちになった。
で、私は、言葉をかけたのである。
「 ずいぶん寒いですね 」
事實、私の短靴の中の足も雪氷に濡れて、ちぎれそうだったのだ。
「 へえ・・・・」
と、母親は答えて、
どこまで行くのか、と 方言で聞いた。
「 浦野舘まで行くつもりです 」
と 私が答えると、
浦野舘に親類でもあるのかという。
ない、と 答えると、
それじゃ、宿屋はなし、どこへ泊るつもりかと訊き返すので、
私は、
「 百姓家へ泊らして貰うつもりです 」
と 答えて見た。
すると、その母親は、かぼちゃのめしで、囲炉裏端へごろ寝してもいいのなら、
私の家へ泊るがいい、
と言ってくれた。
私は、喜んで答えた。
「 それで結構です。是非泊めていただきます 」
そこで私は、
そこまで私のカバンを持ちながら道案内をして來てくれた三本木の靑年に歸って貰うことにした。
そのお礼として五十錢銀貨二つを出すと、その一つだけを取り、あとはどうしても取らない。
ここにもこの地方人の純朴さが現れていた。
二つの銀貨を渡すために、長い間、泥道の中に彳たたずまなければならなかった。
・
さて、その靑年と別れると、
私は、子供をおぶった母親の後について、その日の暮れ方、
どろどろの足を、その家の土間へ踏み入れたのであった。
この家の周囲には、雪に蔽われた田圃と畑とが、荒寥こうりょうとしてひろがっていた。
その庭には、藁塚が四つ五つ、円い塔を作っており、
家の周囲には、雪除けの藁の垣が張りめぐらされていた。
軒の下には、一尺あまりの氷柱がずらりと寒い色にぶら下り、
まったくその下には、めしの中へ入れて食べるための大根の葉、もろこしの穂などが
縄にしばられ、幾重にも釣り下げられてあった。
家の中は、料金不払いで 電灯も消されたとかで、炉の焚火で僅かに照らしている。
炉端の一方には眞っ黑な屏風が立てられ、
それに子供の着物やおしめがじっとりと掛けられていた。
そうしてその屏風のうしろには、一枚の障子もなくて、ふだんの居間があり、
めしを食う所であり、また寝る場所でもあった。
そうしてまた、これと向かい合った板仕切りの向こう側は厩うまやであった。
それは、中に六尺幅の土間を挟むだけで、彼等が寝たりめしを食ったりする所と、
九尺とは離れていないのであった。
しかもその板仕切りは、隙間だらけなので、黒い馬の姿の輪郭がはっきりと見えていた。
この地方の百姓達には、馬もまた家族の一員である。
だからこそ、南南部の名に依って知られている良馬がでるのであろうが、
これほどまで人と馬とが近々と寝起きしているとは、私はそれまで知らなかったのである。
イメージ・・昭和六年青森
蚤虱のみしらみ 馬の尿する 枕もと
これは、芭蕉の 「 奥の細道 」 の中の一句であるが、
私はこの夜、
この炉端にごろり寝しながら、この句を思い出し、
この地方の百姓の生活ぶりは、
元禄の芭蕉の時代も、昭和の我々の時代も、
少しも變わっていないのだ、と 思わずにはいられなかったのである。
・
さて、その炉端には、當家の主人が、ぼんやりと焚火を見詰めていた。
いつ剃りを當てたのか解からない髯面の中に、目だけを白く光らしている。
しかし主人は、私を連れて來たわけを主婦から訊くと、その白い目を細めてこころよく迎えてくれたのである。
私は泥靴を脱いで、炉の火に氷のような足をかざした。
炉にかけた鍋の中には、何かぐつぐつ煮えている。
それは、めしの時に食べたが、くだけ米に、かぼちゃのうらなりを混ぜたものであった。
うらなり南瓜は、平年には、田圃へ棄ててしまうものである。
ぐしゃぐしゃで、味もさっけないものであった。
・
主人は、方言を出來るだけ標準語に直しながら、ぼつりぼつりと話し出した。
話すことは勿論暗いことばかりであった。
同じ村内に、たった六錢の金がないばかりで、
満洲に出征している息子からの手紙を見損なったという老父のあることも話した。
「 切手の不足税六錢が払えないばかりに 手紙は元へかえされちまったのだそうです。
それで、親爺さんは、涙を流しながら言ってだです。
どっちりと重い手紙でした。
いろんなことが書いてあったに違えねえだ。
わしはそれを手に取って、
よくさわって見て、
倅の心持ちを讀み取ったです、
と 言ってやした。
ほんとうの話かどうか、何でも満洲の兵隊は、
一人について、歯ブラシが二十本も渡ったり、キャラメルが十ずつも配られたりするちゅうが、
こちらの國の家では、六錢の金にも不自由している始末ですからな 」
これに似た哀話が、中郡和徳村のうる出征軍人の家族にもあった。
それは、その軍人の妹が病死したが、
葬式を出す金がまるでないばかりか、
それを満洲の兄へ知らせる手紙を送ることも出來なかった。
満洲の兄は、このことを、ある新聞の記事に依って知り、一人聲を忍ばせて泣いていた。
それが、隊長の目にとまり、二十圓の葬式費を隊の名で送り届けて來たので、
やっと葬式を濟ますことが出來たというのであった。
・
めし時になると、主人はまたこう言った。
「 まだこれでも、もみ殻を取ってくだけ米ですから、どうやら咽喉が通るが、
そのうちに、くだけ米もなくなるので、
こんどは、もみ殻の着いたままを、かぼちゃやじゃが芋に混ぜて食べるのです。
これは平年には、馬が食うものだが、今年は、わし達が馬になるのです 」
ところで、このような食物で、幾月となく生きつないで行くうちに、
栄養不良から、先ず子供の健康が害されることは明らかであった。
これは、この数日後に、靑森県廳のの農務課長の口から聽いたことであるが、
現に凶作地の小學校の健康は甚だしく害されつつあることが、
県の巡回医師に依って發見されたとてうことであった。
で、食糧の最も欠乏する三月、四月に入って、なおも現狀のまま放置しとくならば、
榮養不良に依る子供の死亡率が激増するのではないか、ということであった。
・
夕めしが濟むと、灯はなし、もう寝るより外はなかった。
主人と主婦と子供とは、炉端の屏風のかげに、ぼろ布を重ね縫ったような布團にくるまって寝た。
私は、一枚のかけ布團をかけ、それへかしわにくるまって寝た。
私は、寝ながら訊いて見た。
「 こちらでは、お子さんは一人ですか?」
すると、主婦が、
「 なアに、もう一人、今年十七になるのがあるがです 」
と 答えた。
その娘は、今、どこにいるのか、
私はそれを聽いて見たかったが、
ここではもうそれを聽くのが餘りに殘酷に思われて來た。
で、黙っていると主人が、溜息をつくようにして言った。
「 その娘こは、今、東京の方へ行っています。
この村からは、紡績へ出る娘がずいぶん多いですが、
わしの娘は、五年の年期で、賣り飛ばしてしまったです 」
これには 私は相槌も打てなかった。
・
僅か二、三圓の手付金で、一人の娘が賣られて行くと、東京の新聞にあったが、
それは新聞のよたであった。
いかに純朴な百姓とうえども、それほど愚かではない。
しかし、百圓から三百圓ぐらいの金で、一人の娘が、
あるいは私娼に、あるいは公娼に賣られて行く例はザラにあるのであった。
私はその實例を、蟹田村の近くのある村落で見たのである。
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