あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

昭和十一年正月

2017年11月18日 16時09分23秒 | 後顧の憂い

昭和十一年の正月は穏やかな日本晴れで明けた。

三日過ぎ、
栗原たちは顔の汗を寒風が飛ばすのをいつになく心地よく感じながら上池上の坂を上っていた。
斎藤瀏と史の家まであと少しだった。
呑川とその枝のように延びる支流を渡って、
何度この坂を上り下りしたことだろうと 栗原は考えていた。
現在の地名に上池上はない。
今日の池上台かせ馬込一帯が かつて大森区上池上と呼ばれていた山林台地であろうか。
本門寺下を曲がりながら羽田に落ち込む呑川は今でもあるが、
支流は暗渠になって流れは見えない。
だが、栗原たちが上っていたころの上池上台地からは細い水系をはさんで東に東京湾、西に富士山が望めた。
 ・
「 みろよ、霊峰というにふさわしい関節゛りだなあ 」
何にでも感激する栗原 ( 歩兵第一聯隊中尉 ) が 坂井直 ( 歩兵第三聯隊中尉 ) 、
中橋基明 ( 近衛歩兵第三聯隊中尉 ) 、清原康平 (歩兵第三聯隊少尉 ) 、林八郎 ( 歩兵第一聯隊少尉 )
ら連れに声をかけた。
中橋基明    清原康平
「 やあ、おじさん、フミ公、明けましておめでとうございます。一箇聯隊やって来ました 」
いうなり 例によって
「 どんどんやりましょう 」
などと 言いながら大勢で提げてきた一升瓶を差し出した。
その夜、瀏も若い隊付将校たちと心ゆくまで酒に酔った。
史も お運びの合間をみては盃を受けていた。
酒が入れば成行で必ず歌うのが 「 青年日本の歌 」、
一般的には 「 昭和維新の歌 」 として知られた歌である。
この夜も若い坂井や清原たちがまず歌い出した。
それに全員が声を揃えて、腕を振って歌った。

汨羅の淵に波騒ぎ  巫山の雲は乱れ飛ぶ
混濁の世に吾立てば  義憤に燃えて血潮湧く

権門上に傲れども  國を憂うる誠なし
財閥富を誇れども  社稷を思う心なし

昭和維新の春の空  正義に結ぶ益荒男が
胸裡百万兵足りて  散るや万朶の桜花

栗原安秀 
やがて栗原が斎藤に、
「 おじさん、こんな話を聞いてください 」
と言って喋り始めた。
栗原の部下の家庭のことだった。
「 昭和六年の秋も終わりごろでした。
自分の中隊に満洲事変で両手両足を失って辛くも命だけ助かった兵がいました。
東北の生家に帰った彼に会いに行ってみたら、
一家の凋落を支えるため最愛の妹が遊女になっていたのです。
それなのに自分は何をしてやることもできず、樽の中に据えられたまま、
食べることも、着ることも人手に頼らねばならない。
なぜ自分は生き残ったか、そしてこの眼で貧しい両親の生活、
妹の苦労をみなければならない。
どうして自分は死ななかったのか、そう言って彼は泣きました 」
そう言いながら 栗原の両目にからも熱いものが溢れてきた。
人一倍、感情のひだの深い男だった栗原には、部下の耐え難い生活実態を語ること自体切なかった。
史も くしゃくしゃになった栗原の顔を見ているうちに、少女のようにもらい泣きした。
史    坂井直
続いて坂井が重い口を開いた。
坂井は第三聯隊の後輩で連隊旗手を務めている高橋太郎少尉から聞いたのだと
前置きして次のように語り始めた。
「 高橋少尉がある初年兵から家族の聞き取り調査を順次していたときの話であります。
高橋太郎 
『 姉は・・・』 
と ポツリと言ったきり彼は口をつぐんでしまったのだそうです。
そしてじっと高橋の顔を見上げたときには
その兵の目にはいっぱいの涙が溢れていて何も喋れない状態だったというのです。
高橋も  『 もうよい、なにも言うな 』 と言うのが精一杯だったといいます。
もうこれ以上、何も聞くことはない と言っていました。
高橋はそのあともこう言いました。
『 食うや食わずの家庭を後に、国防のために命を散らす者、その心中はいかばかりか。
この兵に注ぐ涙があったならば、国家の現状をこのままにしては置けないはずだ。
ことに政治の重職にある人たちは 』
そういって我々の仲間に加わってくれています。
それはおじさんに是非申し上げたかったのです 」
林八郎
さらに林八郎が話を継いだ。
「 先夜、実際に自分が隊内で見た事実です。
国防の第一線にありながら、日夜生死の境にある戦友の金を盗んで、
故郷の食うや食わずの母親に送った兵があったんのです。
これを発見した上官は ただその兵を抱いて声を上げて泣いていました 」

おもいつめ一つの道に死なむとするこの若人とわが行かむかな

斉藤は一首詠んで青年将校と生死を共にする覚悟をした。
正月が過ぎると各部隊の隊付将校の間では隠密裡に作戦が練られていったのである。

昭和維新の朝 二・二六事件を生きた将軍と娘  工藤美代子著から


安田優 『 軍は自らの手によって、その墓穴を掘ったのであります 』

2017年11月18日 15時32分28秒 | 安田優


安田 優

安田少尉は音吐朗々として雄弁を奮った。
その内容と共に私は非常に感激した。
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・・・昭和11年5月19日、第十五回公判・・・
公訴事實ニ對スル反駁
檢察官ノ陳述セル公訴事實中我々ノ行動ヲ賊軍ノ如ク取扱ヒアルモ、
私ハ奉勅命令ニ背キタルコトナキニ附、
奉勅命令ヲ傳達シタルヤ否ヤノ點十分審理アランコトヲ希望ス。
尤モ、私自身トシテハ賊徒ノ汚名ヲ甘受シテ死スルノ雅量ヲ有セザルニアラザルモ、
國軍ノ爲ニマコトニ遺憾ニ堪ヘザル次第ナリ、云々

原因、動機ニ就テ
上層階級ノ精神的堕落、中堅階級ノ思想的頽廃たいはい
下層階級ノ經濟的逼迫ひっぱく ヲ救フ爲ニハ、
球磨川ノ如キ流ガ大ナル岩ニ當リテ激スル如キ事件ヲ起コスカ、
或ハ戰争ヲ起スカ、
兩者其ノ一ヲ選ブノ外ナシト思料シ、
而モ戰爭ヲ起スコトハ我國内外ノ情勢上危險ヲ伴フ虞アリタルヲ以テ、
前者ヲ選ビタルモノナリ。
而シテ多クノ諸君 ( 相被告ノ意 ) ハ
陸軍大臣ノ告諭、戒嚴部隊編入等ヲ以テ
我々ノ擧ガ正シキモノノ如ク考ヘアルガ如キモ、自分ハ意見ヲ異ニス。
即チ、我々ノ行動ハ其ノ良否ハ別トシテ、最初ヨリ正シキガ故ニ正シキモノニシテ、
今トナリテハ考フレバ、
大臣ノ告諭、戒嚴部隊ノ編入等ハ却テ禍とナリタルモノト思料セラル。
肩ニベタ金ト星ヲ三ツ着ケテ自己ノ職分ヲ盡スコト能ハザル如キ軍人ノ存在ヨリモ、
身分ノ低キ一士官候補生ニテモ自己ノ信念ニ基キ盡クスベキ処ヲ盡ス者ノ存在ガ國軍ノ爲如何ニ有用ナルカ、
嚴頭ニ立ツテ頭ヲメグラス如キ軍人ノ存在ハ國軍ヲ毒シ國家ヲ滅亡ニ導クノ因ヲ爲スモノニシテ、
斷ジテ排撃すベキモノナリ、云々

國軍ノ將來ニ對スルオ願
私ハ斯ク申セバトテ我々ノ今回ノ擧ヲ以テ罪ナシトナスモノニアラズ。
又、國法無私スルモノニモアラズ。
唯現在ノ國法ハ強者ノ前ニハ其ノ威力を発揮セズシテ
弱者ノ前ニハ必要以上ノ威力ヲ發揮ス。
我々今回ノ
擧ハ此ノ國法ヲシテ絶對的ノ威力ヲ保タシメントシタルモノナリ。
私ハ今回ノ事件ヲ起コスニ方リ既ニ死ヲ決シテ着手シタリ。
即チ、決死ニアラズシテ必死ヲ期シタリ。
今更罪ニナルトカナラヌトカヲ云爲スルモノニアラズ。
靜カニ處刑ノ日ヲ待ツモノナリ。
今、玆ニ述ベントスル処ハ、恐ラク私ノ軍ニ對スル最期ノオ願ト成ル物ト思料ス。
(1)
軍ガ財閥ト結ブコトハ國軍ヲ破壊シ國家ヲ滅亡ニ陥ラシムル原因ナリ。
而シテ其ノ萌芽ハ既ニ三月事件、十月事件ノ際之ヲ認メタリ。
 トテ、池田成彬ガ靑年將校ニ偕行社ニ於テ金錢ヲ分配セントシタルコト、
十月事件ノ宴會費ハ機密費ヨリ支出セリト云フモ 財閥ヨリ支出セラレタル疑アルコト ヲ 引例ス )
(2)
軍上層部ト第一線部隊ノ者トノ間ニ意思ノ疎隔アルハ國軍將來ノ爲憂慮ニ不堪。
此ノ携行ハ在満軍隊ニ於テ其ノ著シキヲ見ル。
永田事件後、軍上層部ニ依リテ叫バレタル肅軍、統制ノ聲ハ相當大ナルモノナリシガ、
第一線部隊ニ在ル者ハ第一線ノ部隊ハ軍紀風紀嚴正ニシテ統制ヲ破ル者ナシ、
肅軍、統制ノ必要ハ第一線部隊ヨリモ軍上層部ナリトテ、中ニハ憤慨シタル者アリ。
多門師團長ガ第一線部隊ノ將兵ガ困苦欠乏ト闘ヒアル際自分ハ高楼ニ坐シテ酒色ニ耽リ、
靑年將校ガ憤慨シテ斬リ込ミタルハ事實ナリ。
某旅團長ガ花柳病ノ爲部下將兵ヲ満洲ノ野ニ殘シテ歸還セザルベカラザルニ至リタルモ事實ナリ。
日露戰役ノ際、上原將軍ガ部下將兵ト共ニ戰場ニ於テ穴居生活ヲ爲シアルヲ見タル
獨逸皇太子ヲシテ感歎セシメタルハ有名ナル話ナルガ、
斯ノ如キ將軍ガ現今幾人アリヤ。
(3)
將校ト下士官以下トノ氣持チハ漸次遠カリツツアリ。
此ノ現象ハ國軍將來ノ爲看過シ難キ一大事ナリ。
我々ハ及バズナガラ此ノ點ニツキ努力シ來レルガ、
將校タル者ハ大イニ考慮スベキコトト信ズ。
(4)
將校團ノ團結ニ就テ
現在ノ將校團ニハ士官學校出身アリ、少尉候補者出身アリ、特別志願者アリ。
士官學校出身者ノ中ニ於テモ貴族的ノ者アリ、
役者ノ如キ軟派ノ者アリ、或ハ纔ワズカニ氣骨ヲ保持スル者アリテ、多種多様ナリ。
此ノ現象ハ將校團ノ團結上障碍ヲ爲スニアラザルカ。
以上四項ハ軍首脳部ニ於テ特ニ御考慮ヲオ願ヒシ度キ點ニシテ、
恐ラク私ノ最後ノオ願ヒナリ。
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以上は憲兵が残した記録であるが、
よくその意を尽くしていないし、舌足らずである。
そして肝心のことが欠落している。

安田少尉は今回の事件の処理に於て、
軍の取った方法手段は我々の心情を全く無視したものであると言った。
二十九日最後の日の軍のやり方は悉く我々の精神を蹂躙したもので、
これによって林の剛勇も池田の純情もすべて踏みにじられてしまったと慨嘆した。
そして軍はこれから我々の総てを葬り去ることによって
自らの指導権を確立した幕僚の天下となることを予言し、
このようなやり方が如何に軍自体を傷つけたかを直言し、
最後に、
「 軍ハ自ラノ手ニヨッテ、ソノ墓穴ヲ掘ツタノデアリマス 」
と絶叫した。


事件の証拠調、証拠物件の提示、
申請せられた証人に対する予審官の取調及びその回答、
これは大体に於て検察官が行ったように記憶している。
検察官は匂坂春平という法務大佐であった。
この背の低い小柄な検察官は嫌な感じのする男であった。
我々が占拠していた場所の検証調書、殺害した人々の死体検案書を一々読み上げ、
証拠物件として多数の品々を呈示した。
そしてブリキ缶の中から故高橋蔵相の血染めの寝巻などをとり出して呈示した。
我々がやったことはすべて事実として全員認めているのだから、
こんな物をわざわざ見せなくとも良いと思った。嫌な感じであった。
申請した証人の回答もすべて一方的なもので、
陸軍大臣の告示も戒厳部隊への編入も皆説得の為になされたものであることを、
川島大将の証言を読上げて立証した。
その他の証言もすべて最初から我々を鎮圧する為の作戦上の必要性から行われたまので、
我々の行動は兵営を出た時から反乱行為であると言う立場の上に構築されていた。
その他数多くの申請した証人に就いては、其の必要を認めないとの理由で脚下された。
事件勃発当時、義によって我々を応援した多くの人々も、
我々が敗れ去ってからは腫れ物に触るように、我れ関せずの態度をとった。
若し同調するような言動を取れば、直ちに拘留されることは判然としていたからである。
多くの人々は我々を一方的に葬り去ることによって、その責任を逃れた。
その変心の様はまことに憐れむべきものであった。


池田俊彦 著
きている二・二六  から