あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

一下士官の昭和維新 3 「 尊皇義軍からは射たないが 貴様らの方から射てば応戦するぞ 」

2017年11月02日 19時32分15秒 | 下士官兵


福島理本伍長

前頁

2 「 おい、福島班長、これからが大変だぜ、しっかりやろうな 」 の 続き


二月二十六日  午後一時三十分
午後一時三十分~二時頃、聯隊より食糧が届く。
炊き上がった飯は四斗樽に詰められ中庭の雪上に置かれた。
我等の行動は正式に認めれたのであると 士気大いに挙る。
兵にとっては心にかかる重臣襲撃は、
この時に聯隊から食糧補給により その正しいことを証明されたのであった。
聯隊長以下聯隊幹部が私等の決行行動を認めたものとして士気はいや増したのである。

警視庁に至る道路はどこも МG、LG、iG により封鎖され 建物数ヶ所にある入口もみな厳重に固められた。
午後二時三十分、我が分隊は歩哨線に交代服務した。
外部からの激励にとまどうくらいだった。
午後三時、第一師団に戦時警備司令発動されたと聞く。
始めて49i 甲府四十九聯隊、57i 佐倉五十七聯隊 出動し、49i は歩一へ、57i は歩三で警備についた由。
これは師団として協同の警備にあたるためと思った。
歩哨の叱声は ときおり降雪を舞せて響いた。
庁内に監禁中の雇員、巡査、消防士、交換手 等 朝から食事を与えられず憐れであった。
炊事夫を入れないためである。

朝八時頃より 斉藤實、鈴木貫太郎、渡辺錠太郎、高橋是清 は確実に殺害成功と伝わる。
興津に赴いた部隊は牧野、西園寺ともに逃げられてしまったそうだ。
実に無念なことだ。
でも牧野の場合は火災の中で拳銃音がしたから おそらく自殺しているであろう。
確認はできないが火災中逃げ出した様子はなかったとのことだった。
今回の蹶起には天佑がある。
だから それは間違いなく自害しており、成功しているであろうとの意見が大部分であった。
十時頃、高橋是清は負傷で 死んでいない と伝わり悔しかったが、
夕刻になって実は胴が二つになった、これが事実だとのことに、よかった、よかったと胸を撫でおろす。

第十中隊は警備配置のほか 警視庁舎隣ビルを本部とし 交替服務宿泊することになった。
午後十二時、歩哨線巡察すると見物の民間人が多数いた。
大森軍曹は、
「 さきほど血書を携行した壮年者約十名、嘆願書を歩哨に示し 何か仕事を手伝わせてくれとの由、
我々の決起趣意書に感激しているんだそうだ。
その風体ふうていも ゴロツキのような者でなく相当の人物に見受けた 」
と 語る。
我々には一点の私心もなく 世を革あらためようとの行動だから、このような人達が出て来るのは当然であろう。
市民は午後二時になっても代わる代わる見物に来て、むしろこちらの方が驚く始末である。
タクシー運転手が、
「 金は要らないよ 」
と 言って 約五十箇もの 煙草を差出すのには 感謝した。 激励そのものである。

二十六日の夕刻から海軍省は陸戦隊の行動が活発化してきたので注目された。
私も分隊を前面の市民に対処させながらも 最も注意するところは海軍省内の動勢であった。
鉄門は閉ざされたままで兵員は我々の前面に現れない。
然し その雰囲気は 攻撃があれば闘うぞ の構えに見えた。
我々は海軍だからといって刺戟させてはいかぬと対敵意思のない行動をすることに 特に留意した。

二月二十七日  午後三時
昨日は聯隊から食糧が届いたのに今日は届かない。
午後三時、
「 警視庁にいる各隊は逐次撤去して新議事堂に集合せよ 」
と 下命があった。
そこで庁舎を去り、歩哨線を退げ 議事堂に集合しようと移動を始めた。
この議事堂集結の下命を受けた時感じたことは、
蹶起軍幹部もこのままでは海軍との衝突を最も懸念した結果であろうと思った。
二十分あまり過ぎたところ、第一師団長命令として、
「 警視庁にありし部隊は戻りて警戒に当る可し 」
との下令により、再び元の位置に復帰し 警戒する。
午後五時頃に至り 再度議事堂に集合せよとの命令あり 移動を開始した。
私の中隊が移動を開始して議事堂との距離三分の一程度の位置に至った時、いったん休止。
ここで我々は次の通達に接した。
「 蹶起の趣旨は分かった。
昨夜来の蹶起部隊は本日より戒厳司令官の指揮下に入り、
歩兵第一聯隊長 小藤大佐統率の許もと に麹町地区一帯の警備に任ず可し 」
これは口頭命令で全員に示達じたつされた。
我々の目的は、なかば達成できたと思い、気も晴れ晴れとした。
三、七、十、配属のМG、それぞれ議事堂構内に集結を終り、
折柄、議事堂工事の廃材を集め雪中炎々と火を焚き 暖を取り合った。
その間も決して安心ならぬ情報が刻々入る。
第一師団戦時警備令による歩一、歩三の警備地区に対して49i、57i はおろか、
近歩までが武装して出動しているとのこと、戦時警備令によれば旅団単位で警備しなければなるまい。
歩三には僅少の留守隊しかないのだから 歩一だって同じ筈だ。
我々は今はもう麹町地区一帯の警備軍なのだ。
が、歩三の我々がほのい小藤大佐の指揮下に入るということは亦どうなのか?
下士官連中の問答、憶測に対して明快な回答は何一つ与えられなかった。
将校達も野中隊長の許に集まり協議しては自隊に戻り、情報を伝えるがいずれも一貫性がないのが気に掛る。

二月二十七日  午後七時
だいぶ暗くなった。
その後は小藤大佐からの指令は何ひとつなく、悪い予感がする。
午後八時、寒さは酷きびしくなる。
ここで露営かと覚悟していたが、第十中隊は文部大臣官舎に至って警備宿営することになる。
将校の動き、下士官の挙動。兵はどのように感じていたのであろうか。
文部大臣官舎は近距離である。
私は兵を安心させる手段は何もなかった。
ただ正義の戦いであるということだけである。
聯隊から食糧が来ない。
この一事、私等の知らぬうちに何物とも知れない動きがあるのではないか。
文相官邸に入る。
武装は瞬時も解けない。
兵の動きが活発になり食糧をあさる懸念が出た。
「 舎内を荒らしてはならないぞ。掠奪りゃくだつなどしたら厳罰だぞ。
武士は食わねど高楊枝だ。もう少しの我慢だ 」
兵隊も素直に極めて従順に指令に従った。
一人、二年兵の誰だったか班が違うので判明しないが、勝手の戸棚から角砂糖を持出して、
「 班長殿、いかがですか 」 と 差出した。
「そうか。自分は要らぬ。一粒ずつ兵に与えてやれ。それ以上家捜しするな 」
これ以上は叱れなかった。みな空腹なのだ。
各分隊それぞれ格好な部屋に入り 亦は廊下に休息する。

二、三の兵が鉛筆をとるのを見る。遺書である。
止めさせることはできない。むしろ覚悟のために書かせたい。
東京市出身兵で電話をかけるものがいる。まだ電話は通じていたのである。
私の班でも島村だったと思う。
私は、
「 電話は無事でいるくらいは良いがそれ以上はしゃべってはいかんぞ 」
と やめさせる。
空腹と疲労で腰を下ろすとすぐ眠る兵、ますます緊張してゆくものなど様々だ。
午後九時頃、陸軍大臣告示という印刷物が渡される。

まさに 「 万歳 」 である。
声を大にして兵に伝える。
一同大いに喜ぶ。
遺書書く手許も止まったことであろう。

午後九時稍々過ぎた頃、
近衛部隊が出動して盛んに雪を固めて掩体を築き、
銃口はいずれも我々の方に向いていると緊急情報が入る。
彼等は陸軍大臣告示をいまだ知らないのであろう。
もし我々を攻撃して来るようなら 彼等は賊軍となるのだ。
彼等の幹部は我々の蹶起の趣旨を知らないはずはあるまい。
仮にも攻撃してくれば本望ではないか。決戦してみようではないか。
安心は出来ない、厳重に警戒しなければならない。
さっそく一部を以て斥侯を出し 様子を探らせる。
報告はやがて、
「 我々は包囲されているらしい。
攻撃態勢ではなく 我が部隊の攻撃に備えているのではないか。
どちらか判明しないが いずれにしても敵対行動には変りない 」
兵の休息を考えながら約二分の一の兵員を以て前面の道路の両側、
麹町小学校の入口附近に散開して敵襲に備えた。

二月二十八日  午前六時
そのまま朝になる。何事もなく朝を迎えた。
午前七時、全員移動の下命があったところへ聯隊から食事が届けられた。
一同 なにはおいてもありがたいことだった。
さっそく配給食事にかぶりつく。
その時の情報は、
「 聯隊から食糧を届ようとしても ほとんど包囲軍に取り上げられてしまうのだ。
これは囲みの薄いところを突破してようやく届けられたが、これが最後になるかも知れない。
それよりも歩三には57五十七聯隊が入って留守隊は患者を除く全員が出動してしまった 」 と。
「 当然のことではないか。五七と協同して警備につくのは同じ第二旅団なのだから 」
「 違う、違うんだ。蹶起部隊を包囲して居るんだぞ 」
「 そんなはずはない。
第一師団は結束して近歩を始め その他の出動部隊に対して警戒配置についたのであろうよ 」
今の我々は小藤大佐の指揮下にあるのだから・・・・と自らの心に語っても不安は募るばかりであった。
その後も小藤大佐からの命令は何ひとつない。
時は刻々過ぎる。情報は次々伝わる。

陸軍大臣官舎に於て安藤、野中その他蹶起部隊幹部の折衝は行われつつあり。
その様子は恰も勝海舟と西郷との江戸城明渡交渉に似たり・・・・等々。
午前十時、歩三は陸軍省、陸軍大臣官舎、首相官邸を撤退し近歩が替わって警備についたと?
奇怪なことである。第一師団の歩三警備区域に近歩が入るとは。
五十七聯隊はどうしたのだ。
近衛師団が第一師団に対して攻撃に出たのか

情報は混沌として真相は把握できないが 近歩が敵であることには間違いはない。
敵は近歩三である。
近歩三には一部我々と共に蹶起した中隊もあるのに。
午後五時頃になり全くの デマ であり、歩三は依然として上記三地区を警備中と知る。
橋本中将は奸賊だ。
これは斃す必要がある。
近衛師団長たるものが奸賊では近歩が我々の行動に同調出来る筈がない。
どうしても討たねばならない。
ときおり、配備兵の報告に近歩の将校斥侯らしい者、しきりに我が陣近くに現れると。
彼等の進撃あれば戦うまでだ。いつでも来い。どちらからでも来い。
と 決意固める。

十一時、常盤少尉が来て、事態極めて重大となってきたぞと云う。
斯くなる上は我々を攻撃する者は即ち敵であるから、攻撃を受ければ遠慮はない。戦うまでだ。
しばらくして蹶起部隊本部 ( この時は陸軍省 ? ) から 一下士官が伝令として情況報告あり、
「 堀師団長以下第一師団全部が蹶起の志に感じ、近衛師団を相手にするために四十九聯隊、
五十七聯隊、野戦重砲七聯隊、戦車第二聯隊が馳せ参じつつあり 」 と。
十二時を過ぎた頃 又 常盤少尉来り、
「 蹶起部隊幹部は陸軍省に監禁され、自決した。私はかろうじて脱出してきた 」 と。
何時頃からまったく将校達の姿が見えなくなった。
鈴木少尉も顔を見せない。
上官達が自決したようでは中隊、分隊の行動にも迂闊なことはできないぞ。
兵の生命は護らねばならない。
なぜ自決するのか。情報は支離滅裂ではないか。
それにしても心配なものだ。
井沢、井戸川、大森、松本の各下士官と自分も含め協議の結果、
いずれにしても動揺することなく事態を見究めようではないか。
その結果、将校達の自決が事実であればそれは大命によるものか、
事と次第によっては下士官以上は割腹すべきである。
この時である。
維新義軍の檄文が七中隊から届けられた。
  檄文
尊王討奸の義軍は如何なる大事も兵器も恐れるものではない。
又如何なる邪知策謀をも明鏡によって照破する。
皇軍と名のつく軍隊が我が義軍を討てる道理がない。
大御心を奉載せる軍隊は我が義軍を激励しつつある。
全国軍隊は各地に蹶起せんとし、全国民は万歳を絶叫しつつある。
八百万の神々も我が至誠に感心し加護を垂れ給う。
至誠は天聴に達す。
義軍は飽くまで死生を共にし昭和維新の天岩戸開きを待つのみ。
進め進め、一歩も退くな、位置に勇敢、二にも勇敢、三に勇敢、以て聖業を翼賛し奉れ。
昭和十一年二月二十八日
維新義軍
( 二月二八日午後、蹶起部隊本部から各行動隊下士官兵に配布された。ガリ版刷り )

このような状況下にあっても心は極めて平静で居られるものである。
覚悟の上だからだ。
実に明朗な心境で事態を看察出来るものだ。
常盤少尉 再度来て、 「 近歩に反撃せよ 」 と言う。
私は伊沢軍曹と顔を見合す。攻撃されれば撃つが 我が方から先に攻撃は出来ない。
同胞を撃つことは出来ない。
伊沢軍曹は、「 我が方から発砲するようならむしろ自決する 」 と言う。
私も亦その方がはるかに気が楽だと言う。
情況ますます切迫の様子に将校数名集まって協議するうち、常盤少尉が奮然として、
「 三中隊の兵を引連れて近歩に攻撃するぞ 」
と 言いながら走り去る。
三中隊は清原少尉の指揮下にあり、我々は鈴木少尉の指揮下なのに、
常盤少尉は何故に七中隊の兵を指揮しないのか。不思議でならなかった。
鈴木少尉からは何の連絡もない。自決したのか。

午後一時三十分頃、鈴木少尉が走って来た。
そして、
「 情況事態は混沌としている。我々は益々やり抜かねばならない。
歩三の蹶起部隊は将校以下みな張り切っているぞ。しっかり頼むぞ 」
と 言った。
常盤少尉の言葉は全く違っていることが判った。
教官は尚続けて言う、
「 師団長以下第一師団全部が我々同志を援護してくれることになっている。
第一師団には野砲も重砲も戦車もあるんだ。もし近歩が攻撃してきても充分に戦えるんだから安心だ 」
この言葉で大いに力づいた。
そして鈴木少尉は尚続けて、
「 今 盛んに全国的に同志が出来つつあり各地で蹶起行動があるらしいぞ 」
我々の意気は大いに挙る。
兵士もこれで大いに元気づけられ、戦局は混沌としていても一応有利に展開しているように思われた。
少尉の情況下達は兵に徹底させる必要がある。
先の常盤少尉の出動要請などは全く血迷い行動のようであり、
これを見ていた兵たちの心境はどのようであったろうか。
私は鈴木少尉に言った。
「 常盤少尉が先刻来りて我々に出撃を指示したが 」
少尉は
「 なに 常盤が 」
口をつぐんでしまった。
「 監禁されてはいない。自決もしていない。
だが陸軍大臣官邸では全く混沌としているんだ。我々がしっかりしなければ駄目だ 」
と 言う。
決起出動以来のことを考えてみると、
二十六日には壮者十数名血書を構えて感銘をうけた。
俺達にもなにかさせてくれと申し入れあり、
又 円タクの運転手が煙草五十箇ほど持って来て、
「 金は要らないよ。兵隊様吸って下さいよ 」
こちらこそ感銘をうけたものだった。
わざわざ車から降りて貴婦人の
「 兵隊さん、ご苦労様 」
との言葉で最敬礼されたこともあった。
これ程迄我等の行動は一般人には理解されているんだと思うと、
現在の事態に対処する心構えは益々張り切るべきである。
午後三時、中隊はあらためて攻撃に対し布陣することになる。
文相官邸を本部として概ね図の通りであった。

文相官邸前の小学校 ( 麹町小学校 ) には福島、宇田川、斉藤のLG、が入る。
布陣は宇田川分隊は道路上に、
福島、斉藤分隊は学校北側の垣根沿に雪を固めて掩体構築し来襲に備えることとなる。
この両分隊は生垣を遮蔽物として恰好なものであったが、
宇田川分隊は街路樹は細くセメントのかけらや大石を利用して雪を覆い、
いざの時に邸内から跳り出てこれを利用する手筈とした。
福原曹長以下小銃分隊は白兵を提げて大通りに交差する路地に待機。
敵進攻の折り側面から突込みを敢行かる手筈である。
布陣の上は待機するだけである。

午後四時、
磯部部隊と称して数名の兵が来た。歩一のようであった。
十中隊に連繋して警備するからとのことだ。
鈴木少尉から指令が来た。
「 発砲は厳禁する。敵が射っても命令あるまでは射ってはならないぞ 」
今迄は 「 敵が射つまでは 」 であったが 今度は 「 射たれても射つな 」 とは。
これはどうなるかわからない。
退避するならわかるが退避は逃げる事だ。どのようになっても敵に後ろは見せないぞ。
冗談じゃない。射たないで突込んでやるとするか。
射つ射たないは ひとつには兵を助けることなんだから兵を退避させて自分だけでやればいい。
余人は知らない。自分はやるぞ。
午後五時頃、野津大隊長と渡辺特務曹長と兵二名が来た。
下士官たちは官邸内の一室に集まり大隊長の説得を聞いた。
「 新井中尉は来ていないか 」
「 おりません 」
「 秩父宮から注意が出ているぞ 」
「 ・・・・」
友軍相撃つな。蹶起軍は反乱軍になっているぞ 」
「 ・・・・」
「 包囲軍の前面には歩三の兵が、十中隊の前には十中隊の留守部隊が出ているんだ。
俺達について帰営してくれないか 」
すでに決意の下士官にも私案の影が浮ぶ。
私は新品伍長であるが口を切った。
「 野中大尉の命令でなければ 今は帰るわけにはまいりません 」
この一言は我々をどうにもならない方向に、而もあらためて決意を強固なものとした。
使者は現れた方向に急ぎ足で戻った。
この様子を見ていた兵にも動揺の色を感じさせなかった。

緊張裡に過ぎる時間は刻々と早い。
夕闇、空腹、包囲軍からの重圧----この状況では決戦は今夜になると思われた。
六時頃、中隊に四斗樽が届いた。聯隊からとは思えない。
鈴木少尉はすみやかに配給するように指令している。
「 教官殿、この酒はどこからですか 」
「 常盤少尉の親戚から差入れなんだそうだ 」
一同大いに喜んで飯盒に配給だ。
自分は既に煙草もない一同のことを考え 急ぎ足で附近の煙草屋を探した。
戸は閉まってはいるが看板を見つけて叩くと窓を開けてくれた。有金をはたいた。
もう金なんか要らない。まとめて買って帰り兵に配給して 言った。
「 空腹では戦さにもならない。酒を飲み雪を食い煙草でも吸って元気を出そう 」
然しこの酒は一同に非常にこたえた。悪酔いする者があった。
緊張の時てせもあり、あまりにも空腹に雪では身体が堪らなかったのが判った。

兵一名連れて状況偵察に鉄道大臣官邸附近に行った時に驚いた。
午後八時? 近衛の軍帽着用の大尉か居るではないか。
これに対するは磯部大尉である。
射つか射たないかの折衝である。
磯部大尉は
「 尊皇義軍からは射たないが 貴様らの方から射てば応戦するぞ 」
リンク
・・・二・二六事件 「 昭和維新は大御心に副はず 」
・・・行動記 ・ 第二十三 「 もう一度、勇を振るって呉れ 」 

近衛大尉は一言もなく去り、闇に消えた。
彼は兵を連れずに単独であった。
こんな所に近衛将校が単独で入ったことに警戒の洩れを知った。
そして思った。敵も射つ気になれないのだな。
でも、あれだけの攻撃態勢を整えているのだから必ず射つに違いない。
その時こそ好敵御参なれだ。銃身を真赤にして撃ち斃してみせるぞ。
私心の無い我々の大精神を知らしめてやるぞ。
安藤中隊の鉢巻き、白襷で気勢が上がっているそうだ。
十二時になっても糧食はこない。
これは聯隊からの支援がないことが判った。
各隊から派遣した糧食下士官兵も戻らない。我が中隊は伊高軍曹だったか。
軍曹は無事だろうか。それにしてもこの空腹は堪え難いものだ。
食事も与えられないとは兵に対して申し訳もない。
できることなら自分の身体でも食べさせたいくらいだ。
小藤大佐の指揮下に入ってることや
第一師団全部が結束して支援するという情報など いずれも真におけないぞ。
策略に相違ない。将校連中はどう考えているのか。
伊沢軍曹を求めて聞いてみたが全く同感である。
現在の様子が皆目 掴めない。
このまま攻撃にさらされたら戦うまでだ。
初心に返り 己れを信じ 徹底して戦いぬくだけだ。

二月二十九日  午前零時
夜零時、私はたまたま路上巡察していたところ、マントを翻して走ってきた将校がいた。
磯部大尉であった。掌中に入る小型拳銃を握りながら、
「 おい 近衛が攻撃を開始したぞ 」
と言う。
私は直ちに戻って兵員に指示し、眼を凝らして待機したが 前方にその変化を認められない。
此の頃より 轟轟ごうごうたる戦車の響きが恰も我等を囲むように西方に移動するのが聞こえた。
その距離は一km前後かとも思われた。
敵の来襲を待つ事三時間余。攻めてこなかった。
午前四時頃、四十九聯隊の大隊長と名乗る者のマイクロホンによる宣伝があり、閑院宮邸方面より聞えて来た。
私は兵の動揺を察知し、これはまさに思想戦謀略なりと感じた。
直ちに兵に
「 我々の団結を覆さんとする策略である。迷ってはならない 」 と 告げる。

奉勅命令要旨
戒厳司令官は三宅坂附近一帯を占拠せる将兵をして
速やかに各師団長の指揮下に復帰せしむる可し

不可思議なことである。
我々は戒厳司令官の命によって小藤大佐の指揮下にあるのだ。
命令系統指揮系統を通じて下令があって当然ではないか。
種々考えたが情況は切迫するばかり。
勅命の真疑はともかく、無謀の衝突を避けるため ひとまず兵を集結掌握して態度を決めることとなる。
出撃はいつでもできる。どうせ戦闘で勝てる兵力ではないのだから。
官舎内に下士官一同集まり 鈴木少尉と共に協議したが、意見定まらなかった。
井沢、福島は進撃は否とし時を考えて自決を求むとした。
下士官以上の損傷は当然としても、兵たちを守らねばならない。
勝目のない戦いとなるなら兵だけでも無事帰すべきだと思う。
ひとりでも闘志は燃えるのだ。官邸に近い分隊だけを哨兵を残して邸内に集結せしめた。
事態に応変の姿勢と兵力の温存である。
敵が発砲の無い限り 我は抵抗せずの構えである。

次頁 4 「 今から第十中隊は各分隊ごとに議事堂に集結する。いいか。着け剣 」   に続く

福島理本 著
ある下士官の二・二六事件  罰は刑にあらず
3 警備 から
次頁 に 続く