栗原が何人もの若い将校を連れて齋藤の家に訪ねてきた。
昭和六年七月末のことである。
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「おじさん、同志を連れてきました。どんどんやってください」
同志と聞いても軍帽を脱げば まだ童顔の残る、
むき卵みたいなつるりとした青年ばかりであった。
紹介されたのは、
栗原と陸士同期で 近衛歩兵第三聯隊附の中橋基明少尉、
たまたま所用あって上京中の同じく同期で 弘前歩兵第三十一聯隊附対馬勝雄少尉、
士官学校をこの七月に卒業し、十月からは歩兵第一聯隊附が決まっているという丹生誠忠、
そして旭川で 史 や栗原の一級下だった坂井直。
坂井はまだ士官学校生である。
栗原、中橋、対馬、丹生、坂井と五人が齋藤瀏の前に胡坐をかいて座った。
軍帽を脇の畳に置くと、その上に白い手袋を重ねて齋藤の口元をじっと見つめた。
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「ところで、今日は若い君たちが
一部特権階級の堕落や腐敗の影響を受けて軍まで侵されており、
国家改造の必要があるというので、私も同感だと考えており少し話をしておきたい」
そう前置きした瀏は
農村を襲っている窮乏の実態をまず知って欲しいのだ、と話し始めた。
「昭和初年より続いた不況は四年、五年となってますます苛烈となり、
国民の購買力は減退し、
物価は極度に低落し、米価は昭和五年には十六円台にまで下がっている。
生糸の値段も下がり、休業する製糸工場は全国に広がっている。
従ってそこに働く女工の生活も成り立たない。
昭和六年には農村の肥料不足から米作は五千五百万石に過ぎず、
特に北海道、東北の一部では飢饉のため木の芽、草の葉で飢えをしのいでいるのだ」
そこまで一気に喋ると齋藤は、
「欠食児童の実態を私は見て来たが、それは見るに耐えないものだった」
といってから座を見まわした。
対馬勝雄がぼそりとした東北弁で重い口を 開いた。
「ズブンのずっかは青森ですが、
すり合いの家では芋のつると麦こがすで飢えをすのいでおったです」
対馬はなおもお国訛りで語った。
それによると芋のつるさえなくなり、種芋も食い尽くす有様だという、
上京して師団参謀や幕僚の宴会に呼ばれたが、
財閥のお偉方も大勢来ては飲めや歌えやの大騒ぎを見せつけられ、
これでは故郷にいる兵は納得しないだろう、
と 彼は声を震わせて嘆いた。
昭和維新の朝 工藤美代子 著から