最近読んだある心理セラピストのメルマガに、このようなことが書かれていた。
「早く成功したい」と強く願えば願うほど、潜在意識には「でも今は未だ成功していない」というメッセージが届いてしまうのだと言う。
これまた最近読んだ本の中にも同じようなことが書かれていた。
この本によると「上手になりたい」という言葉が多く出てくると、一見上手になれそうであるが、潜在意識がどんなメッセージを受け取っているかというと、「上手になりたいのだから、今の自分は上手ではない、つまり下手なのだな」という「裏メッセージ」を受け取ってしまうのだと言う。
成功したい、上手になりたい、と渇望すればすれほどそれと逆の現実が引き寄せられてしまうという何とも皮肉なことである。
何故このような矛盾したことが起きるのだろうか。
津留晃一氏はどんな解説をしているだろう。
メッセージ集を開いて該当する文章を探してみる。
あった。
「幸せになりたいという気持ちは、今が幸せでないという気持ちの表れです。すなわち、今に不足があるという認識があるということです。その欠落意識からとった行動であなたが満足することはありません。足りないものは無限にあります。足りていないものを追いかける行為は永遠に満たされることはありません。」(メッセージ集「3 今この瞬間が最善」より)
「まずいたらない自分がいて、その不完全な自分を修復していくというのがこれまでの生き方でした。あなたはどんなに努力して自分を修復しようとしても、その根底の所で自分のいたらなさを認め続けているわけですから、永遠に進歩ゲームは続いていくわけです。あなたは、自分を修復させようと想念を発する度に、いたらない自分をもう片方の手で創造し続けているのです。」(メッセージ集「34 鏡」より)
津留晃一氏は今から25年前にこのメッセージを発信していた。
この数年後くらいから、願望達成法や引き寄せの法則といった成功法則の類がさかんに情報発信されていたが、現在では下火になっているようだ。
何故ならば、先述の潜在意識の性質のように人間の心はプラスの思いを持てば願望はかなえられるという単純なものではないからなのだろう。
何故、人は成功を求めるのだろう。
純粋な成功への願望とは異なる動機の願望が意識的に成功を求めるのではないかと思う。
加藤諦三氏の言葉を借りれば「神経症的願望」ということであろう。
その願望の背景に、今の実際の自分を嫌っている、こんな自分では満足出来ないという心理が働いていると思う。
若い頃に読んだ加藤諦三氏の著作の中に、「行動はその背景にある動機を強化する」という言葉が何度か出てきたことがあった。
「今の自分が嫌だ」、「今の自分では至らない」、「今の自分では周囲から受け入れられない」、「今の自分では情けない」など、自分に対する否定的評価から逃れたいという動機から、成功や幸せを願って行動しても永遠に実現することはないということだ。
それどころか、ますます不幸になり心が苦しくなっていくということである。
では何故、人は今の自分を嫌ったり、至らないなどと否定的な見方をしてしまうのだろう。
この理由にはさまざまなものがあり、今までにも何度か記事にしてきたが、1つは他人と自分を比較し、他人の評価に依存していることが考えられる。今風の言葉で言うと、自分軸ではなく他人軸で生きているということだ。
言いかえれば、自分を生きていないということでもある。実に苦しい生き方である。決して幸せになることはない。
願望達成法や引き寄せの法則に吸い寄せられる人は、心に著しい空虚感、欠乏感を抱いている人であろう。そのような人たちを引き寄せて商売をしている方もいる。
では、このような苦しい生き方から脱却するにはどうしたらよいのだろう。
冒頭のメルマガのセラピストも最近読んだ本の著者も津留晃一氏も共通してある考え方を述べている。
それは「今の自分の全てをそのまま受け入れる」、「ありのままの今の自分はすでに満たされている」という心境になるということであった。
津留晃一氏はこのように述べている。
「自分を愛しなさい、大切にしなさいというのは、あなたの外部に何か別のプラスを求めなさいということではなく、あなたが今どんな環境にいたとしても、今のその瞬間が最高であることを知りなさいということです。今そこがあなたの意識の進化にとって最高の環境だからです。」(メッセージ集「7 あるがままに」より)
「そのままの自分を無条件に、愛おしく抱きとめ愛して下さい。自分を愛するのにどんな条件も不要です。それがあなたの源の愛、無条件の愛のことです。自分の全ての部分を、そのままありのまま愛せるようになったとき、初めて他人の欠点もそのまま愛せるようになってきます。」(メッセージ集「10 解脱」より)
私は今までの人生の長きに渡って、自分を激しく憎み、否定し、強迫的に成功や幸福を求めてきた時代があったが、あるとき、これが自分を苦しめ不幸にする原因となっていることに気が付くことが出来た。
そしてその苦しかった生き様を振り返り、その生き様をまるごと理解し受け入れられるようになってからベクトルの向きが変わった。
「早く成功したい」と強く願えば願うほど、潜在意識には「でも今は未だ成功していない」というメッセージが届いてしまうのだと言う。
これまた最近読んだ本の中にも同じようなことが書かれていた。
この本によると「上手になりたい」という言葉が多く出てくると、一見上手になれそうであるが、潜在意識がどんなメッセージを受け取っているかというと、「上手になりたいのだから、今の自分は上手ではない、つまり下手なのだな」という「裏メッセージ」を受け取ってしまうのだと言う。
成功したい、上手になりたい、と渇望すればすれほどそれと逆の現実が引き寄せられてしまうという何とも皮肉なことである。
何故このような矛盾したことが起きるのだろうか。
津留晃一氏はどんな解説をしているだろう。
メッセージ集を開いて該当する文章を探してみる。
あった。
「幸せになりたいという気持ちは、今が幸せでないという気持ちの表れです。すなわち、今に不足があるという認識があるということです。その欠落意識からとった行動であなたが満足することはありません。足りないものは無限にあります。足りていないものを追いかける行為は永遠に満たされることはありません。」(メッセージ集「3 今この瞬間が最善」より)
「まずいたらない自分がいて、その不完全な自分を修復していくというのがこれまでの生き方でした。あなたはどんなに努力して自分を修復しようとしても、その根底の所で自分のいたらなさを認め続けているわけですから、永遠に進歩ゲームは続いていくわけです。あなたは、自分を修復させようと想念を発する度に、いたらない自分をもう片方の手で創造し続けているのです。」(メッセージ集「34 鏡」より)
津留晃一氏は今から25年前にこのメッセージを発信していた。
この数年後くらいから、願望達成法や引き寄せの法則といった成功法則の類がさかんに情報発信されていたが、現在では下火になっているようだ。
何故ならば、先述の潜在意識の性質のように人間の心はプラスの思いを持てば願望はかなえられるという単純なものではないからなのだろう。
何故、人は成功を求めるのだろう。
純粋な成功への願望とは異なる動機の願望が意識的に成功を求めるのではないかと思う。
加藤諦三氏の言葉を借りれば「神経症的願望」ということであろう。
その願望の背景に、今の実際の自分を嫌っている、こんな自分では満足出来ないという心理が働いていると思う。
若い頃に読んだ加藤諦三氏の著作の中に、「行動はその背景にある動機を強化する」という言葉が何度か出てきたことがあった。
「今の自分が嫌だ」、「今の自分では至らない」、「今の自分では周囲から受け入れられない」、「今の自分では情けない」など、自分に対する否定的評価から逃れたいという動機から、成功や幸せを願って行動しても永遠に実現することはないということだ。
それどころか、ますます不幸になり心が苦しくなっていくということである。
では何故、人は今の自分を嫌ったり、至らないなどと否定的な見方をしてしまうのだろう。
この理由にはさまざまなものがあり、今までにも何度か記事にしてきたが、1つは他人と自分を比較し、他人の評価に依存していることが考えられる。今風の言葉で言うと、自分軸ではなく他人軸で生きているということだ。
言いかえれば、自分を生きていないということでもある。実に苦しい生き方である。決して幸せになることはない。
願望達成法や引き寄せの法則に吸い寄せられる人は、心に著しい空虚感、欠乏感を抱いている人であろう。そのような人たちを引き寄せて商売をしている方もいる。
では、このような苦しい生き方から脱却するにはどうしたらよいのだろう。
冒頭のメルマガのセラピストも最近読んだ本の著者も津留晃一氏も共通してある考え方を述べている。
それは「今の自分の全てをそのまま受け入れる」、「ありのままの今の自分はすでに満たされている」という心境になるということであった。
津留晃一氏はこのように述べている。
「自分を愛しなさい、大切にしなさいというのは、あなたの外部に何か別のプラスを求めなさいということではなく、あなたが今どんな環境にいたとしても、今のその瞬間が最高であることを知りなさいということです。今そこがあなたの意識の進化にとって最高の環境だからです。」(メッセージ集「7 あるがままに」より)
「そのままの自分を無条件に、愛おしく抱きとめ愛して下さい。自分を愛するのにどんな条件も不要です。それがあなたの源の愛、無条件の愛のことです。自分の全ての部分を、そのままありのまま愛せるようになったとき、初めて他人の欠点もそのまま愛せるようになってきます。」(メッセージ集「10 解脱」より)
私は今までの人生の長きに渡って、自分を激しく憎み、否定し、強迫的に成功や幸福を求めてきた時代があったが、あるとき、これが自分を苦しめ不幸にする原因となっていることに気が付くことが出来た。
そしてその苦しかった生き様を振り返り、その生き様をまるごと理解し受け入れられるようになってからベクトルの向きが変わった。
ブッダの教えについてご教示下さりありがとうございます。
「自分自身が執着を手放せれば、心は安穏、安楽になります。」という箇所がキーのように感じました。
たしかに人は過去の体験記憶や価値観により現実を認識し、未来を憂うことがあります
それらが強いと自分も他人も裁くようになり、苦しい生き方になりますね。過去の体験記憶をリセット(浄化)し、価値観をニュートラルにするのが目下、私が意識しているところであります。
読み直してみると間違いがありました。
>どんな生き方、方法であれ
緑陽さんの心が、少しでも安らかに安穏になることを期待します。
ここで期待という言葉は適切ではないかもしれません。
自我を離れて、他者の幸せを祈る気持ちでした。
私は何の団体にも所属していないし
誰とも何の利害関係もありません。
ブッダを心の師としているだけです。
期待しますを、祈ります、念じますと訂正します。
それでは、失礼いたします。
おっしゃる通りだと思います。
どれだけ期待しても、希望を持っても
それは自我から生まれた妄想と言えます。
自分が勝手に期待したというわけです。
それがうまくいかなかった時に、人は勝手に失望したり、絶望します。
絶望は自分自身が作ったものです。期待がなければ絶望はありません。
期待もしなければ、絶望もしない
人にも物質にも、ありとあらゆるものに依存しない
過ぎ去った過去にも執着しない。未来にも期待しない。今ここでするべき事に集中するだけ。
自分の心、感覚、体の状態を常に観察して、気づきを入れている事。
主観から生まれる、思考、妄想はしない、判断、解釈、期待もしない。そして、手放す。
何もかも執着せず手放すようにすると、心はどんどん楽になっていきます。
それが難しいという事ですが、ブッダは自我は存在しないと言っており
無我であると言います。自我は錯覚だと。
自分の感覚である、六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)は、六境(色、声、香、味、触、法)というデータを受け取って
六識という認識システムが、主観を入れて事実を捻じ曲げて、自分に都合よく認識しているのです。
これをブッダはパパンチャ、捏造と言っています。我々が認識しているものは全て幻だと。
犬でも猫でもハエでも、それぞれの認識世界を持っているのです。人間同士でも一人一人違う認識の世界を持っている。
誰もが同じ世界を見ているのに、見えている世界が違う。すべては自分の心、主観がそれを作っています。
そして、誰もが自分の認識こそが正しいと思い込んでいる。誰もが正しくないのに。
自分の見たもの、知っている事、思った事、それこそが真実だと誰もが思い込んでいます。
そして、それが自分と他者でぶつかる。ここに苦が生まれる原因があります。
自我から離れる事、つまり自分の主観に執着しない事で、苦から離れる事ができます。
すべての苦の原因は、自分という錯覚が出発点となっています。
誰も他人が傷つけられても、本当は関心がありません。
他人の子が川に流されても、他人事だと思っていますね。
しかし、自分に関わる事であれば、それは大変な苦となります。結局は「自分、私」というのが問題です。
自分のお金、健康、病気、家、財産、子供、家族、、、、、、などなど
すべて自分のものだと錯覚して執着しています。自分の心・体ですら自分のものではないのに!
本当は自分というのものすら無いのです。それはほとんどの人が知らない事です。
さまざまな問題の解決という事も、悩ましいですね。
すべての現象は、因縁により生じては滅する、とブッダは言っています。
どんな事も生じれば必ず滅します。生じては消えるのですね。
また、消えては生じる。それを延々と繰り返しながら変化し続ける。
終わりがないです。生じる事も消える事も変化にすぎません。
人生の問題も現れては消え、消えては現れる。次から次へと。
だから、心配しないでください。すべては変化します。無常とはそういう事です。
そこに感情や思考、妄想が入ると、現象に執着が入って
心に苦が生まれます。執着するのは対象に価値を入れているからです。
価値を入れる(渇愛する)のは、無明(道理が分からない)からです。
この世のありとあらゆる現象、対象は、何一つ執着する価値がない、
とはブッダの言葉です。
すべての現象は、変化しつづけており
自分もこの一瞬でさえ、細胞レベルで変化しています。
ありとあらゆる存在が瞬間瞬間で変化しています。(無常)
そこにしがみ付こうとするので苦が生まれるわけです。無理をやっているわけです。
すべて対象を観察して、気づいているだけ。思考、妄想を入れない。
そして、観察したら手放す。執着しない。
ブッダが言っている事、修行のやり方は簡単に言うとそんなところです。
宗教的な儀式をしたり、お経を唱えたり、滝に打たれたり、呪文を唱えたって、何も解決しません。
どこどこの神様だとか、何とか如来だとか、一生懸命に拝んでも
心が苦しいのは何も変わりません。例え、ブッダに祈ったとしてもまるで解決はしません。
自分自身が執着を手放せれば、心は安穏、安楽になります。
この世に、完全・完璧はありえません。すべてが不完全であり、不満足です。どれだけ期待しても思い通りにはならない。
ブッダはこれをドゥッカと言いました、つまり漢字で訳されて苦というわけです。
これを知っているのと知らないでは、人生では大きな違いが出ます。
元々がすべて思い通りにならない、苦なんだから、問題が起きても、まあいいやくらいで済ませられる。
人は思い通りにならない時に、怒ったり、嘆いたり、苦しんだりします。自分勝手な都合であり、妄想から生じた感情です。
執着を手放す方法は、慈悲喜捨という、慈しみの心を育てる事。
そして、自我の錯覚を破る事です。それはヴィパッサナー瞑想が一番です。
人それぞれ、いろんな生き方があり、それはすべて自由です。
長文で、さらに押しつけがましくなってしまい、ご迷惑をおかけして申し訳ないです。
今後は長文を書くなどの迷惑行為、投稿内容などの粘着行為など一切やりませんので、ご心配なく。
どんな生き方、方法であれ
緑陽さんの心が、少しでも安らかに安穏になることを期待します。
生きとし生けるものが幸せでありますように。
津留晃一氏の親族の方から聞いた話なのですが、ある方が亡くなる間際に「思い通りにならないのが人生だった」と語ったそうです。
「思い通りにならない」のを思い通りにしようとするから苦しみが生まれてくるのだと思います。
津留氏は問題を解決しようとするから苦しくなると言っています。
問題を問題だと認識するのではなく、あるがままにそれを受け入れる、それも体験のなかの1コマなのだと、今では感じています。
どんな人生もプラスマイナスゼロ。自分の人生を人の人生と比べてみてもどうしょうもないですね。
当時流行ったスピリチュアルとかの本も読みましたが
何も変わらず。今でもスピも宗教も嫌いです。
結局は金儲けですから。
今のくだらない日本仏教ではなくて
宗教ではなかった時代のブッダの教えに出会って
諸々のトラウマは克服できたように思います。
すべては思い通りにならない、不満足であるという(苦)。すべては生滅変化するという(無常)。実体のあるものは存在しない(無我)。これらを学んで、今はマインドフルネスとか呼ばれる事も多いですが、ブッダが開発して悟りを開いたヴィパッサナー瞑想と慈悲の瞑想を始めてから、人生のすべてが変わりました。
youtubeでスマナサーラ長老の動画を見てみてください。人生を変えるヒントがあるかと思います。
あなたが幸せでありますように。
生きとし生けるものが幸せでありますように。