スペイン・バルセロナに生まれパリに没したフェルナンド・ソル(Fernando Sor 1778~1839)は、ベートーヴェン(1770~1827)より8歳年下であり、ベートーヴェンの時代に生きた。
だいぶ昔にソルのことを「ギターのベートーヴェン」と言っているのを聴いたことがあるが、その時は今一つピンとこなかった。どちらかというと作風はモーツァルト(1756~1791)に近いように感じた。
しかしソルは同時代に生きた偉大な作曲家ベートーヴェンの音楽に触れて、大きな影響を受けたに違いない。
ソルはモーツァルトやベートーヴェンの「ピアノ・ソナタ」のような演奏時間の長い大曲を、ギターの世界にも当てはめてみようと考えたのではないか。つまりギター曲をピアノ曲と同様の水準まで高めたかったのかもしれない。
ソルの曲は小曲が多いが、演奏時間の長いソナタや幻想曲、変奏曲も少なからずあり、演奏会用の曲としては立派なものである。
ソルがギター史の中で極めて高い貢献をしたのは、この点だと思う。
タレガはロマンティックでギターの音の魅力を活かした小品を数多く作曲したが、演奏時間の長い大曲に優れたものは無い。
タレガはセゴビアが指摘するように、ギターの狭い枠の中にとどまった作曲家であった。
ソルはどうであろう。
ソルもギタリスト兼作曲家であったが、作曲にあたり、ギターがまず先にあって、その後に曲を作っていくのではなく、まず曲を先に作り、次にその創作をギターという楽器に移し替えていく、という方法をとっていたのではないかと思うのである。多くのギタリスト兼作曲家がやるような、ギターという楽器を弾きながら曲を作っていった、というイメージは湧かない。
ソルはギター以外にオペラなども数多く作曲したと言われている。
今日紹介する「村人の幻想曲(Fantaisie Villageoise)」(Op.52)は演奏時間が9分~13分のギター曲としては比較的長い曲だ。
この曲を初めて聴いたのは高校生の時、FMラジオから録音したナルシソ・イエペスのレコードの演奏であった。
ソルの大曲というと当時はおなじみの「魔笛」や「グランソロ」が際立って人気であり、このようなマイナーな幻想曲が録音に取り入れられるのはめずらしかったが、すぐにこの曲が好きになった。
この曲が好きになったのは、ナルシソ・イエペスの演奏の影響が大きい。後でイエペス以外の演奏家の録音も聴いたが、もし他の演奏家の演奏であったなら、高校生の時の私はこの曲に興味を覚えるどころか素通りしていたに違いない。
「村人の幻想曲」は、Andatino-Appel(呼び出し)-Danse Allegro-Priere(祈り)で構成されている。
この1曲が、ある村の村人たちの1日を描写したものなのか、あるいはある期間(1年、数か月等)の日常生活を観察して、その心象風景を表したものなのかは分からない。
最初のAndatinoはイ短調の軽快な曲である。スタッカートや付点音符のリズムが多用されている。
村人たちの忙しくも生き生きとした労働のさまを表したのであろうか。
次のフレーズはとても印象的でこの曲のとても重要な部分だ。
低音を良く響かせたい。
途中イ長調に転調すると、曲は極めて明るい曲想に転じる。
とてもよく晴れた、太陽の光が降り注ぐ気持ちのいい昼間に、順調に育った作物を収穫する喜びの気持ちが伝わってくる。
この村は農業、しかも広大な畑作を営んでいるように思える。
再び主題のイ短調に戻り、短いコーダを経てAndatinoは静かに終わる。
Appelに入ると、突然意表を突いたようなハーモニックスが響き渡る。
あまり使用されない3フレットや4フレットのハーモニックスも多用される。
Appelはフランス語であり、英語でいうとcallに相当するもの。
このハーモニックスのフレーズは、祭りの開催を知らせる合図を意味しているようだ。鐘や笛などの音をハーモニックスで表したに違いないが、この部分はあまり速くし過ぎない方がいい。
イエペスの演奏はさすがだ。
そしてこの後に Allegroの軽快な踊りが始まる。
収穫を祝っての踊りなのであろうか。村人たちがたくさん集まり、お酒や食べ物を食べながら、1年に1回の収穫祭を楽しむ風景が浮かんでくる。
日頃の労働のことは忘れ、この日だけは思いっきりはめを外して歌や踊りに興じる。
日本にも盆踊りがあるが、外国(フランス)のお祭りは陽気なのであろう。
イ長調の明るく、踊りを表現した躍動的なリズムのある曲が繰り返されるが、途中おどけたような短いイ短調のフレーズも挿入される。
また次のロ短調に転調された箇所は左手の技巧(セーハ)がつらいところではあるが、イエペスはこの部分を10弦ギターの開放弦を利用して、音が詰まらないように工夫している。
その直後のffの和音が続く部分は実に爽快だ。イエペスの音が素晴らしい。
Danse Allegroは意表を突く⑤、⑥弦6フレットのハーモニックスで終わる。
このハーモニックスをイエペスは7フレットで弾いている。
このハーモニックスの音は教会の鐘の音をイメージしていると思われる。
Priereは今までとは全く異なる曲想に変化する。
調性はハ長調となり、速度もゆっくりとしたものになる。
移調後しばらく譜面の表記は単音であるが、運指は1と4が指定されている。これは②弦と③弦のユニゾンにより演奏することを意味している。
このPriereは祭の締めくくりとしての祈りなのか、あるいは村人の日常的な信仰の習慣のさまを表したものなのか分からない。場所は外なのか、教会の中なのか。
いずれにしても村人たちの宗教的な祈りの雰囲気を表現するためにこのような弾き方をとったのであろう。にぎやかな屋外ではこのような祈りのイメージを想像しにくい。
複数弦の同音は教会で歌われる聖歌の音の反響を表しているように思う。
イエペスはこのフレーズをユニゾンで弾いていない。
しかしイエペスの単音はユニゾンに弾くよりも荘厳であり、神秘的だ。ユニゾンだとこの雰囲気を十分に表現できないから単音での演奏を選択したのであろう。実際ユニゾンでの演奏での表現は難しい。
この部分の録音をよく耳を澄まして聴くと、「キーン」という反響音が何度か聴こえてくる。この音は何であろうか。
この後、和音による哀愁のある歌が奏でられる。
随所に⑥弦6フレットのハーモニックスが挿入される。このハーモニックスは教会の鐘の音をイメージしていると思われる。
イエペスはこの⑥弦6フレットのハーモニックスを弾いていない。
この和音による静かなフレーズは、こまでの労働をねぎらい、1日の締めくくりに歌われたようにも思える。
終わり近くに Danse Allegroの軽快な一部のフレーズが突然挿入される。そして再び哀愁ある静かな和音による歌が再現される。
このDanse Allegroの一部の突然の挿入の意味するところは、楽しい祭りへの名残惜しむ気持ちの現れなのか。
このようにして考えていくと、この「村人の幻想曲」は祭り(恐らく収穫祭)とその直前と直後の村の風情と村人の心象を表現したようにも思う。
終結部は⑤、⑥弦6フレットのハーモニックスの打弦が連続されるが、イエペスはこのハーモニックスを➆弦(C音)と⑥弦5フレットのハーモニックスに変更している。
これは10弦ギターでないと出来ない変更である。
最後のハ長調の和音もイエペスは⑦弦C音の開放弦を加えて、原曲よりも重厚な音響となるように演奏している。
さてこの「村人の幻想曲」の録音であるが、イエペスがベルナベ製の10弦ギターに替えてから録音された1978年の演奏のほかに、フィンランド出身のギタリスト、ティモ・コルホーネンとアメリカ出身のアダム・ホルツマンの演奏を聴いてきた。
アダム・ホルツマンの演奏は原点に極めて忠実であるが、音が薄っぺらく、全くと言っていいほど記憶に残らない演奏。国際コンクールで優勝した奏者のようだが、物足りない。
ティモ・コルホーネンはギター愛好者の中では知られた存在のギタリスト。
音出しが乱暴で粗野な部分がある。 Appelの最後のハーモニックスは譜読みの間違いであろう。
イエペスの演奏は原曲をかなり変更しているが、それも熟考の上と考えられる。
テンポの選択も抜群であり、この曲の求めるものを完全に掌握している。
そして何よりも音が、単音であろうと和音であろう、素晴らしく生き生きしていることだ。こんなに聴く人を生き生きと、また荘厳な気持ちにさせてくれるギター奏者は少ない。
音だけでなく、音の流れ、音楽の流れが一つのストーリーか映画などでのスクリーンの移り変わり、人間が歌う歌曲のように感じられる。まさに超名演である。
イエペスは10弦ギターを使用するようになってから即物主義だと評されたことがあったが、これほど的外れな評価は無い。
イエペスの弾く音楽は人間的な感情がみなぎっており、時にそれは聴く者を圧倒させる。
イエペスは10弦ギターの使用に対して決してブレることは無かった。
この「村人の幻想曲」の演奏を聴くと、イエペスの10弦ギターによる音楽の強い信念が感じられる。
繰り返し何度も聴くと、彼がギター音楽の表現に何を求めて10弦ギターを使用したのか分かってくるように思う。
だいぶ昔にソルのことを「ギターのベートーヴェン」と言っているのを聴いたことがあるが、その時は今一つピンとこなかった。どちらかというと作風はモーツァルト(1756~1791)に近いように感じた。
しかしソルは同時代に生きた偉大な作曲家ベートーヴェンの音楽に触れて、大きな影響を受けたに違いない。
ソルはモーツァルトやベートーヴェンの「ピアノ・ソナタ」のような演奏時間の長い大曲を、ギターの世界にも当てはめてみようと考えたのではないか。つまりギター曲をピアノ曲と同様の水準まで高めたかったのかもしれない。
ソルの曲は小曲が多いが、演奏時間の長いソナタや幻想曲、変奏曲も少なからずあり、演奏会用の曲としては立派なものである。
ソルがギター史の中で極めて高い貢献をしたのは、この点だと思う。
タレガはロマンティックでギターの音の魅力を活かした小品を数多く作曲したが、演奏時間の長い大曲に優れたものは無い。
タレガはセゴビアが指摘するように、ギターの狭い枠の中にとどまった作曲家であった。
ソルはどうであろう。
ソルもギタリスト兼作曲家であったが、作曲にあたり、ギターがまず先にあって、その後に曲を作っていくのではなく、まず曲を先に作り、次にその創作をギターという楽器に移し替えていく、という方法をとっていたのではないかと思うのである。多くのギタリスト兼作曲家がやるような、ギターという楽器を弾きながら曲を作っていった、というイメージは湧かない。
ソルはギター以外にオペラなども数多く作曲したと言われている。
今日紹介する「村人の幻想曲(Fantaisie Villageoise)」(Op.52)は演奏時間が9分~13分のギター曲としては比較的長い曲だ。
この曲を初めて聴いたのは高校生の時、FMラジオから録音したナルシソ・イエペスのレコードの演奏であった。
ソルの大曲というと当時はおなじみの「魔笛」や「グランソロ」が際立って人気であり、このようなマイナーな幻想曲が録音に取り入れられるのはめずらしかったが、すぐにこの曲が好きになった。
この曲が好きになったのは、ナルシソ・イエペスの演奏の影響が大きい。後でイエペス以外の演奏家の録音も聴いたが、もし他の演奏家の演奏であったなら、高校生の時の私はこの曲に興味を覚えるどころか素通りしていたに違いない。
「村人の幻想曲」は、Andatino-Appel(呼び出し)-Danse Allegro-Priere(祈り)で構成されている。
この1曲が、ある村の村人たちの1日を描写したものなのか、あるいはある期間(1年、数か月等)の日常生活を観察して、その心象風景を表したものなのかは分からない。
最初のAndatinoはイ短調の軽快な曲である。スタッカートや付点音符のリズムが多用されている。
村人たちの忙しくも生き生きとした労働のさまを表したのであろうか。
次のフレーズはとても印象的でこの曲のとても重要な部分だ。
低音を良く響かせたい。
途中イ長調に転調すると、曲は極めて明るい曲想に転じる。
とてもよく晴れた、太陽の光が降り注ぐ気持ちのいい昼間に、順調に育った作物を収穫する喜びの気持ちが伝わってくる。
この村は農業、しかも広大な畑作を営んでいるように思える。
再び主題のイ短調に戻り、短いコーダを経てAndatinoは静かに終わる。
Appelに入ると、突然意表を突いたようなハーモニックスが響き渡る。
あまり使用されない3フレットや4フレットのハーモニックスも多用される。
Appelはフランス語であり、英語でいうとcallに相当するもの。
このハーモニックスのフレーズは、祭りの開催を知らせる合図を意味しているようだ。鐘や笛などの音をハーモニックスで表したに違いないが、この部分はあまり速くし過ぎない方がいい。
イエペスの演奏はさすがだ。
そしてこの後に Allegroの軽快な踊りが始まる。
収穫を祝っての踊りなのであろうか。村人たちがたくさん集まり、お酒や食べ物を食べながら、1年に1回の収穫祭を楽しむ風景が浮かんでくる。
日頃の労働のことは忘れ、この日だけは思いっきりはめを外して歌や踊りに興じる。
日本にも盆踊りがあるが、外国(フランス)のお祭りは陽気なのであろう。
イ長調の明るく、踊りを表現した躍動的なリズムのある曲が繰り返されるが、途中おどけたような短いイ短調のフレーズも挿入される。
また次のロ短調に転調された箇所は左手の技巧(セーハ)がつらいところではあるが、イエペスはこの部分を10弦ギターの開放弦を利用して、音が詰まらないように工夫している。
その直後のffの和音が続く部分は実に爽快だ。イエペスの音が素晴らしい。
Danse Allegroは意表を突く⑤、⑥弦6フレットのハーモニックスで終わる。
このハーモニックスをイエペスは7フレットで弾いている。
このハーモニックスの音は教会の鐘の音をイメージしていると思われる。
Priereは今までとは全く異なる曲想に変化する。
調性はハ長調となり、速度もゆっくりとしたものになる。
移調後しばらく譜面の表記は単音であるが、運指は1と4が指定されている。これは②弦と③弦のユニゾンにより演奏することを意味している。
このPriereは祭の締めくくりとしての祈りなのか、あるいは村人の日常的な信仰の習慣のさまを表したものなのか分からない。場所は外なのか、教会の中なのか。
いずれにしても村人たちの宗教的な祈りの雰囲気を表現するためにこのような弾き方をとったのであろう。にぎやかな屋外ではこのような祈りのイメージを想像しにくい。
複数弦の同音は教会で歌われる聖歌の音の反響を表しているように思う。
イエペスはこのフレーズをユニゾンで弾いていない。
しかしイエペスの単音はユニゾンに弾くよりも荘厳であり、神秘的だ。ユニゾンだとこの雰囲気を十分に表現できないから単音での演奏を選択したのであろう。実際ユニゾンでの演奏での表現は難しい。
この部分の録音をよく耳を澄まして聴くと、「キーン」という反響音が何度か聴こえてくる。この音は何であろうか。
この後、和音による哀愁のある歌が奏でられる。
随所に⑥弦6フレットのハーモニックスが挿入される。このハーモニックスは教会の鐘の音をイメージしていると思われる。
イエペスはこの⑥弦6フレットのハーモニックスを弾いていない。
この和音による静かなフレーズは、こまでの労働をねぎらい、1日の締めくくりに歌われたようにも思える。
終わり近くに Danse Allegroの軽快な一部のフレーズが突然挿入される。そして再び哀愁ある静かな和音による歌が再現される。
このDanse Allegroの一部の突然の挿入の意味するところは、楽しい祭りへの名残惜しむ気持ちの現れなのか。
このようにして考えていくと、この「村人の幻想曲」は祭り(恐らく収穫祭)とその直前と直後の村の風情と村人の心象を表現したようにも思う。
終結部は⑤、⑥弦6フレットのハーモニックスの打弦が連続されるが、イエペスはこのハーモニックスを➆弦(C音)と⑥弦5フレットのハーモニックスに変更している。
これは10弦ギターでないと出来ない変更である。
最後のハ長調の和音もイエペスは⑦弦C音の開放弦を加えて、原曲よりも重厚な音響となるように演奏している。
さてこの「村人の幻想曲」の録音であるが、イエペスがベルナベ製の10弦ギターに替えてから録音された1978年の演奏のほかに、フィンランド出身のギタリスト、ティモ・コルホーネンとアメリカ出身のアダム・ホルツマンの演奏を聴いてきた。
アダム・ホルツマンの演奏は原点に極めて忠実であるが、音が薄っぺらく、全くと言っていいほど記憶に残らない演奏。国際コンクールで優勝した奏者のようだが、物足りない。
ティモ・コルホーネンはギター愛好者の中では知られた存在のギタリスト。
音出しが乱暴で粗野な部分がある。 Appelの最後のハーモニックスは譜読みの間違いであろう。
イエペスの演奏は原曲をかなり変更しているが、それも熟考の上と考えられる。
テンポの選択も抜群であり、この曲の求めるものを完全に掌握している。
そして何よりも音が、単音であろうと和音であろう、素晴らしく生き生きしていることだ。こんなに聴く人を生き生きと、また荘厳な気持ちにさせてくれるギター奏者は少ない。
音だけでなく、音の流れ、音楽の流れが一つのストーリーか映画などでのスクリーンの移り変わり、人間が歌う歌曲のように感じられる。まさに超名演である。
イエペスは10弦ギターを使用するようになってから即物主義だと評されたことがあったが、これほど的外れな評価は無い。
イエペスの弾く音楽は人間的な感情がみなぎっており、時にそれは聴く者を圧倒させる。
イエペスは10弦ギターの使用に対して決してブレることは無かった。
この「村人の幻想曲」の演奏を聴くと、イエペスの10弦ギターによる音楽の強い信念が感じられる。
繰り返し何度も聴くと、彼がギター音楽の表現に何を求めて10弦ギターを使用したのか分かってくるように思う。
村人の幻想曲とは懐かしいです。遠い昔にFMでイエペスの演奏で聴いて好きになった曲です。ソルの作品の中ではマイナーな曲で、ほとんど弾かれることがありません。他にも“マルボロー”や“小川の岸辺”のような素晴らしい曲があるのに“魔笛”ばかり。それにしてもイエペスの演奏は素晴らしいです。10弦ギターにしか出せない響きを堪能した気がしました。ソルの佳作としてもっと弾かれてもよいのではと思います。
このイエペスの「村人の幻想曲」を初めて聴いたのが、約35年前の高校3年生の時で、FMラジオでした。
ラジオから録音して何度も聴きました。
宇都宮さんももしかして同じ番組で聴いたのかもしれません。
この「村人の幻想曲」の演奏を聴くと、イエペスの音楽性が物凄く高い次元にあると感じさせられます。
イエペスは他にもモンポウの「歌と踊り第13番」など超名演を残していますね。
セゴビアはタレガよりもソルを評価していたようですが、この「村人の幻想曲」を聴くとその理由が分かるような気がします。