購読している新聞に、俳優の宇梶剛士さんのメッセージが掲載されていた。
宇梶さんは10代の頃、親や教師、大人を憎み、すさんだ心で事件を起こし、世の中から転落した。
20歳になり生まれ変わると誓って歩き始めたものの、自分の中の黒いもの、すなわち憎しみや怒りが消えずに苦しんでいたが、或る時美輪明宏さんに出会い、「美しいものを見なさい」と言われたことがきっかけで、気付きを得られたと語っていた。
私は美輪明宏さんがどういうことをやっている方か詳しく知らないが、もう10年以上前に健康食品か化粧品のコマーシャルで変な歌声で歌っているのを見て、「なんだ、こいつ?!」(大変失礼な言い方、ごめんなさい)と思ったのが最初の印象だった。
数年前だっただろうか、私の購読している新聞の悩み相談室の回答者として美輪さんが登場し、その回答を読んで、いままで抱いていたイメージが180度変わってしまった。
こんなに人生を深く生きてきて強い信念を持っている方だったんだと感心し、それまでの見方を変えた。
以来、美輪さんの悩み相談の回答をスクラップするようになった。
「美しいもの」ってとても抽象的で、いかようにも解釈できるが、人間であれば誰でもが根源的に持っているもの、すなわち無垢な純粋に美しい心から生み出されたものであると思う。
しかし多くの人が、生きる過程で心にダメージを受け、こころに黒いものが蓄積され、本来持っているはずの純粋な心が失われていく。
大人になって、「美しいもの」を生み出した人は、心が黒いもに染まることを断固として拒絶し、忍耐強く守り通した人なのだ。
黒いものに支配された人に、人の心を打つようなものを生み出すことができるであろうか。
「美しいもの」は自然の風景のようなものもあるかもしれないが、人が生み出した創造物、しかも単なる表面的なものではなく、人の生き方を変えるほどの力、メッセージを持ったものだと思う。
人の心に黒いものが蓄積されるようになると、黒いものから生じる苦痛を外に吐き出そうとするであろう。
それはいじめや虐待といった形で現れたり、犯罪や反社会運動などで解決しようとする。
黒いものにおかされながら、外に吐き出さず最後までそれを自分自身で受け止め続ける人もいる。
自殺する人がそのような人だ。
自殺する人は例外なく心が純粋で良心を持った人であることは間違いない。
心が弱かっただけなのである。
最後の最後まで良心を捨てきれず、死をもってそれを守り通した人である。
先の新聞の悩み相談コーナーで最近、回答者に選ばれた姜尚中さんが、息子さんを自殺で亡くしたことを語っていたが、その息子さんは本当に純粋で優しい心を持っていたという。
私も若い時に幾度となくピンチがあったが、私にとって「美しいもの」とは音楽であった。
音楽で救われた。
音楽を聴く過程で、幸運にも素晴らしい演奏で出会うことが出来た。
30代から40代半ばの音楽に対し最も感受性の強かった時期に、週末の深夜にヘッドフォンを付けて聴き入った曲がある。
ガブリエル・フォーレ作曲、ジャン・フィリップ・コラール演奏の「夜想曲第1番」、同じくジャン・ドワイアン演奏の「夜想曲第6番」、同じくジャン・ドワイアン演奏の「舟歌第1番」、そしてマヌエル・ポンセ作曲、アンドレス・セゴビア演奏の「ソナタ・ロマンティカ」だ。
これらの曲を深夜のしじまの中で何度も聴き入った。
この時期の定番とも言える音楽鑑賞だった。
これらの曲は、曲も素晴らしいが演奏が神がかりというか常識を超えていた。
今日紹介するのが、アンドレス・セゴビア演奏の「ソナタ・ロマンティカ」である。
このセゴビアの「ソナタ・ロマンティカ」の演奏は、セゴビアの録音の中でもトップクラスの演奏である。
この「ソナタ・ロマンティカ」の演奏で、セゴビア以上の演奏が今後現れることは無いと断言できる。
そのくらい素晴らしい演奏だ。
「ソナタ・ロマンティカ」は4楽章のソナタであるが、第1楽章の演奏時間が長い。
この曲は「シューベルトを讃えて」という副題が付いているとおり、シューベルトのピアノソナタ第21番に影響を受けて作曲されたものである。
シューベルトのピアノソナタ第21番はギター愛好家の方の多くが聴いていると思うが、ピアノ曲の傑作である。
ベートーヴェンのピアノソナタ第31番、第32番、リストのピアノソナタロ短調と並び、ピアノ曲の最高傑作の1つである。
シューベルトのピアノソナタ第21番の第1楽章の演奏時間が長いが、ポンセのソナタ・ロマンティカも同じく長い。
そして次の部分は明らかにシューベルトのピアノソナタ第21番の途中で出てくるフレーズに影響を受けている。
ギター愛好家がこの曲のこの部分を弾いたときに違和感を感じたに違いないと思うのだが、ポンセらしからぬこのフレーズを生んだのはシューベルトのピアノ曲の最も特徴的な音楽的手法を強調させるためであったに違いない。
ただシューベルトのこのフレーズがとても荒涼とした孤独感に支配されているのに対し、ポンセのフレーズはそれとは違ったものとして聴こえてくる。
しかしこの不協和音のフレーズを含め、その前後のフレーズが素晴らしい。
次の部分などはギター曲としては極めて高度で昇華された音楽である。
そして第1楽章の最後のこの部分は演奏者に幸福感を抱かせる。
第2楽章も弾く者、聴く者双方に幸福感をもたらす素晴らしい曲である。
とくに次のフレーズが特徴的で、忘れがたい軌跡を残す。
セゴビアの演奏が見事だ。
この部分を楽譜通りのメトロノームに従ったような演奏では太刀打ちできない。
人間の感情が理解できないからそのような解釈に行き着くのだ。
そして最後のこのフレーズは感動的だ。
昔住んでいた公団のすぐ下の階の住人の奥さんが、私の弾くこのフレーズを聴いてため息をついていたのが窓越しに聴こえてきたを思い出す(ちょっと自慢しすぎか?)。
圧巻は第3楽章。
この第3楽章のセゴビアの演奏は神がかりと言っていいほどだ。
これほどの素晴らしい演奏は現代のギタリストには皆無だし、今後も決して現れないであろう。
この演奏を聴いていると脳が覚醒してきて、いわゆる脳内モルヒネ、ドーパミン?ってやつが出てくるのを感じるのである。
よくこんな曲を作れると思うし、よくこんな演奏が出来るものかと思う。
第4楽章は終曲に相応しい、渾身の力がこもった曲だ。
以下の分散和音が特徴的だ。
そして下記のフレーズに見る和声が何とも言えない不思議な気持ちを生み出す。
この感じ方は現代の日常で感じることは無い。
この感じ方はどんなことから生まれたのか。作曲者が何をきっかけに感じたのか興味深い。
この独特の和声が生み出すものがこの曲を名曲と言わしめ、作曲者ならではの音楽だと言える。
下記の部分は技巧を要する難所であるが、セゴビアはごまかすことなくきちんと弾いているのはさすがだと思う。
セゴビアの録音は、ポンセの原典が示す譜面の中からいくつかの部分を省略している。
それが最も顕著なのは第4楽章の最後の和音の連続する部分とその後の分散和音の部分であるが、私はこの変更は正解だと思っている。
この部分を変更したことでこの曲の真価は一層強化されたと言ってよい。
セゴビアは作曲者であるポンセから了承を得ていたであろうが、ポンセもセゴビアの提案を納得して受け入れたのではないかと思う。
宇梶さんは10代の頃、親や教師、大人を憎み、すさんだ心で事件を起こし、世の中から転落した。
20歳になり生まれ変わると誓って歩き始めたものの、自分の中の黒いもの、すなわち憎しみや怒りが消えずに苦しんでいたが、或る時美輪明宏さんに出会い、「美しいものを見なさい」と言われたことがきっかけで、気付きを得られたと語っていた。
私は美輪明宏さんがどういうことをやっている方か詳しく知らないが、もう10年以上前に健康食品か化粧品のコマーシャルで変な歌声で歌っているのを見て、「なんだ、こいつ?!」(大変失礼な言い方、ごめんなさい)と思ったのが最初の印象だった。
数年前だっただろうか、私の購読している新聞の悩み相談室の回答者として美輪さんが登場し、その回答を読んで、いままで抱いていたイメージが180度変わってしまった。
こんなに人生を深く生きてきて強い信念を持っている方だったんだと感心し、それまでの見方を変えた。
以来、美輪さんの悩み相談の回答をスクラップするようになった。
「美しいもの」ってとても抽象的で、いかようにも解釈できるが、人間であれば誰でもが根源的に持っているもの、すなわち無垢な純粋に美しい心から生み出されたものであると思う。
しかし多くの人が、生きる過程で心にダメージを受け、こころに黒いものが蓄積され、本来持っているはずの純粋な心が失われていく。
大人になって、「美しいもの」を生み出した人は、心が黒いもに染まることを断固として拒絶し、忍耐強く守り通した人なのだ。
黒いものに支配された人に、人の心を打つようなものを生み出すことができるであろうか。
「美しいもの」は自然の風景のようなものもあるかもしれないが、人が生み出した創造物、しかも単なる表面的なものではなく、人の生き方を変えるほどの力、メッセージを持ったものだと思う。
人の心に黒いものが蓄積されるようになると、黒いものから生じる苦痛を外に吐き出そうとするであろう。
それはいじめや虐待といった形で現れたり、犯罪や反社会運動などで解決しようとする。
黒いものにおかされながら、外に吐き出さず最後までそれを自分自身で受け止め続ける人もいる。
自殺する人がそのような人だ。
自殺する人は例外なく心が純粋で良心を持った人であることは間違いない。
心が弱かっただけなのである。
最後の最後まで良心を捨てきれず、死をもってそれを守り通した人である。
先の新聞の悩み相談コーナーで最近、回答者に選ばれた姜尚中さんが、息子さんを自殺で亡くしたことを語っていたが、その息子さんは本当に純粋で優しい心を持っていたという。
私も若い時に幾度となくピンチがあったが、私にとって「美しいもの」とは音楽であった。
音楽で救われた。
音楽を聴く過程で、幸運にも素晴らしい演奏で出会うことが出来た。
30代から40代半ばの音楽に対し最も感受性の強かった時期に、週末の深夜にヘッドフォンを付けて聴き入った曲がある。
ガブリエル・フォーレ作曲、ジャン・フィリップ・コラール演奏の「夜想曲第1番」、同じくジャン・ドワイアン演奏の「夜想曲第6番」、同じくジャン・ドワイアン演奏の「舟歌第1番」、そしてマヌエル・ポンセ作曲、アンドレス・セゴビア演奏の「ソナタ・ロマンティカ」だ。
これらの曲を深夜のしじまの中で何度も聴き入った。
この時期の定番とも言える音楽鑑賞だった。
これらの曲は、曲も素晴らしいが演奏が神がかりというか常識を超えていた。
今日紹介するのが、アンドレス・セゴビア演奏の「ソナタ・ロマンティカ」である。
このセゴビアの「ソナタ・ロマンティカ」の演奏は、セゴビアの録音の中でもトップクラスの演奏である。
この「ソナタ・ロマンティカ」の演奏で、セゴビア以上の演奏が今後現れることは無いと断言できる。
そのくらい素晴らしい演奏だ。
「ソナタ・ロマンティカ」は4楽章のソナタであるが、第1楽章の演奏時間が長い。
この曲は「シューベルトを讃えて」という副題が付いているとおり、シューベルトのピアノソナタ第21番に影響を受けて作曲されたものである。
シューベルトのピアノソナタ第21番はギター愛好家の方の多くが聴いていると思うが、ピアノ曲の傑作である。
ベートーヴェンのピアノソナタ第31番、第32番、リストのピアノソナタロ短調と並び、ピアノ曲の最高傑作の1つである。
シューベルトのピアノソナタ第21番の第1楽章の演奏時間が長いが、ポンセのソナタ・ロマンティカも同じく長い。
そして次の部分は明らかにシューベルトのピアノソナタ第21番の途中で出てくるフレーズに影響を受けている。
ギター愛好家がこの曲のこの部分を弾いたときに違和感を感じたに違いないと思うのだが、ポンセらしからぬこのフレーズを生んだのはシューベルトのピアノ曲の最も特徴的な音楽的手法を強調させるためであったに違いない。
ただシューベルトのこのフレーズがとても荒涼とした孤独感に支配されているのに対し、ポンセのフレーズはそれとは違ったものとして聴こえてくる。
しかしこの不協和音のフレーズを含め、その前後のフレーズが素晴らしい。
次の部分などはギター曲としては極めて高度で昇華された音楽である。
そして第1楽章の最後のこの部分は演奏者に幸福感を抱かせる。
第2楽章も弾く者、聴く者双方に幸福感をもたらす素晴らしい曲である。
とくに次のフレーズが特徴的で、忘れがたい軌跡を残す。
セゴビアの演奏が見事だ。
この部分を楽譜通りのメトロノームに従ったような演奏では太刀打ちできない。
人間の感情が理解できないからそのような解釈に行き着くのだ。
そして最後のこのフレーズは感動的だ。
昔住んでいた公団のすぐ下の階の住人の奥さんが、私の弾くこのフレーズを聴いてため息をついていたのが窓越しに聴こえてきたを思い出す(ちょっと自慢しすぎか?)。
圧巻は第3楽章。
この第3楽章のセゴビアの演奏は神がかりと言っていいほどだ。
これほどの素晴らしい演奏は現代のギタリストには皆無だし、今後も決して現れないであろう。
この演奏を聴いていると脳が覚醒してきて、いわゆる脳内モルヒネ、ドーパミン?ってやつが出てくるのを感じるのである。
よくこんな曲を作れると思うし、よくこんな演奏が出来るものかと思う。
第4楽章は終曲に相応しい、渾身の力がこもった曲だ。
以下の分散和音が特徴的だ。
そして下記のフレーズに見る和声が何とも言えない不思議な気持ちを生み出す。
この感じ方は現代の日常で感じることは無い。
この感じ方はどんなことから生まれたのか。作曲者が何をきっかけに感じたのか興味深い。
この独特の和声が生み出すものがこの曲を名曲と言わしめ、作曲者ならではの音楽だと言える。
下記の部分は技巧を要する難所であるが、セゴビアはごまかすことなくきちんと弾いているのはさすがだと思う。
セゴビアの録音は、ポンセの原典が示す譜面の中からいくつかの部分を省略している。
それが最も顕著なのは第4楽章の最後の和音の連続する部分とその後の分散和音の部分であるが、私はこの変更は正解だと思っている。
この部分を変更したことでこの曲の真価は一層強化されたと言ってよい。
セゴビアは作曲者であるポンセから了承を得ていたであろうが、ポンセもセゴビアの提案を納得して受け入れたのではないかと思う。
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