【20160214】
(続き)
ギターの表面板には古くから松材が使用されてきたが、1960年代前半にホセ・ラミレスⅢ世が偶然のきっかけで杉材を採用してから、クラシックギターは、表面板が松材と杉材の2種類で製作されるようになったのは周知のとおりである。
ラミレスに遅れてイグナシオ・フレタが1968年頃から、また同じくらいの時期からアメリカのホセ・オリベが殆ど杉材を用いたギターを製作した。
よく杉材のギターは寿命が短いと聞く。1980年代初めの現代ギター誌の記事にそのようなことが書かれていた。
この記事が独り歩きしたのか分からないが、杉のギターは松のギターよりも寿命が短いという見方が定着していたように思う。
しかしこの記事を投稿した製作家は、ギターの表面板に杉材が採用されてから20年も経過していないので、あくまでも推測であると言っていた。
杉材のギターの生みの親であるホセ・ラミレスⅢ世はその著書の中で、杉材のギターが寿命が短いという迷信に対し、怒りを込めて反論している。
私は10年以上前であるが、日本で最も知られているある製作家に直接、「杉材のギターが寿命が短いと言われているが、本当か?」と質問したことがある。
その製作家曰く。「杉材のギターが寿命が短いというのは、嘘である。だって木材は100年以上も生き続けるのです。だから杉も同じ。寿命が短いのは、松、杉に関係なく、限度を超えて板厚を薄くしている楽器である」と。
日本の製作家は従来殆どが松材のみで製作する方が多かったが、2000年代半ば頃から、日本でも杉材の楽器が増えてきた。
伝統的な楽器は松材であろうが杉材であろうが、良材と長年の歴史の中で培われてきた製作技術により、聴き手を感動させる音を生みだしてきた。
このような楽器は、材料に依存する要素が強いので、名工の楽器の中でも当たり外れがある。
近年、素材の良し悪しはあまり関係なく、工学的な技術を楽器の設計構造に取り入れて製作する製作家が出てきた。
昨年、フランスの製作家でこのような工学的な構造を採用した楽器を試奏する機会があったが、音量があり、音に伸びがあり、立ち上がり速く、均一でポジションによるむらが無いので、弾いていて爽快感を感じたが、同時に何か物足りなさも感じた。
多分、工学的技術を徹底すれば、大きな音量、長い音の伸び、立ち上がりの速さ、均一な音の実現がより進化していくかもしれない。
しかしこれらの要素を、極めようとするほど、ギターにとって最も大切なことが失われていくように思える。
一言で言うと、このような楽器は音が無機的なのだ。
これらの要素を伝統的な構造、製作技術で拡大させたのはホセ・ラミレスⅢ世であり、彼の楽器が、聴き手を真に感動させるという意味で、限界点だと思う。
過度に音量を追求する製作家は、どんな音が聴き手を感動させるか、ということが分かっていないのではないか。
あるいは、弾き手がその楽器から発せられる音に、自らの気持ちと共鳴する、という作用があることが分かっていないのではないか。
無機的な音しか出せない楽器に、弾き手の感情を音に乗せられるわけがない。
今日、引越し後久しぶりに、静かな夜に、伝統的製作法により作られたメインのギターで、タンスマン作曲「古風な小曲」を弾いたが、その発っせられる音を聴きながら、自分の30歳代の頃の生活が走馬灯のように蘇ってきた
。
何故30代の頃の光景が蘇ってきたか分からないが、楽器の音とその音楽が、自分の古い記憶を引き出したのかもしれない。
つまり弾き手にも、聴き手にも、何が音にとって必要なのか、ということが本当に分かっている製作家が、いい楽器を生みだしていくのであり、製作家にとって、まず何よりも、この理解と絶え間ない追求心があるか否かが、最も大切なことと感じさせる。
(続き)
ギターの表面板には古くから松材が使用されてきたが、1960年代前半にホセ・ラミレスⅢ世が偶然のきっかけで杉材を採用してから、クラシックギターは、表面板が松材と杉材の2種類で製作されるようになったのは周知のとおりである。
ラミレスに遅れてイグナシオ・フレタが1968年頃から、また同じくらいの時期からアメリカのホセ・オリベが殆ど杉材を用いたギターを製作した。
よく杉材のギターは寿命が短いと聞く。1980年代初めの現代ギター誌の記事にそのようなことが書かれていた。
この記事が独り歩きしたのか分からないが、杉のギターは松のギターよりも寿命が短いという見方が定着していたように思う。
しかしこの記事を投稿した製作家は、ギターの表面板に杉材が採用されてから20年も経過していないので、あくまでも推測であると言っていた。
杉材のギターの生みの親であるホセ・ラミレスⅢ世はその著書の中で、杉材のギターが寿命が短いという迷信に対し、怒りを込めて反論している。
私は10年以上前であるが、日本で最も知られているある製作家に直接、「杉材のギターが寿命が短いと言われているが、本当か?」と質問したことがある。
その製作家曰く。「杉材のギターが寿命が短いというのは、嘘である。だって木材は100年以上も生き続けるのです。だから杉も同じ。寿命が短いのは、松、杉に関係なく、限度を超えて板厚を薄くしている楽器である」と。
日本の製作家は従来殆どが松材のみで製作する方が多かったが、2000年代半ば頃から、日本でも杉材の楽器が増えてきた。
伝統的な楽器は松材であろうが杉材であろうが、良材と長年の歴史の中で培われてきた製作技術により、聴き手を感動させる音を生みだしてきた。
このような楽器は、材料に依存する要素が強いので、名工の楽器の中でも当たり外れがある。
近年、素材の良し悪しはあまり関係なく、工学的な技術を楽器の設計構造に取り入れて製作する製作家が出てきた。
昨年、フランスの製作家でこのような工学的な構造を採用した楽器を試奏する機会があったが、音量があり、音に伸びがあり、立ち上がり速く、均一でポジションによるむらが無いので、弾いていて爽快感を感じたが、同時に何か物足りなさも感じた。
多分、工学的技術を徹底すれば、大きな音量、長い音の伸び、立ち上がりの速さ、均一な音の実現がより進化していくかもしれない。
しかしこれらの要素を、極めようとするほど、ギターにとって最も大切なことが失われていくように思える。
一言で言うと、このような楽器は音が無機的なのだ。
これらの要素を伝統的な構造、製作技術で拡大させたのはホセ・ラミレスⅢ世であり、彼の楽器が、聴き手を真に感動させるという意味で、限界点だと思う。
過度に音量を追求する製作家は、どんな音が聴き手を感動させるか、ということが分かっていないのではないか。
あるいは、弾き手がその楽器から発せられる音に、自らの気持ちと共鳴する、という作用があることが分かっていないのではないか。
無機的な音しか出せない楽器に、弾き手の感情を音に乗せられるわけがない。
今日、引越し後久しぶりに、静かな夜に、伝統的製作法により作られたメインのギターで、タンスマン作曲「古風な小曲」を弾いたが、その発っせられる音を聴きながら、自分の30歳代の頃の生活が走馬灯のように蘇ってきた
。
何故30代の頃の光景が蘇ってきたか分からないが、楽器の音とその音楽が、自分の古い記憶を引き出したのかもしれない。
つまり弾き手にも、聴き手にも、何が音にとって必要なのか、ということが本当に分かっている製作家が、いい楽器を生みだしていくのであり、製作家にとって、まず何よりも、この理解と絶え間ない追求心があるか否かが、最も大切なことと感じさせる。