やまがた好日抄

低く暮らし、高く想ふ(byワーズワース)! 
山形の魅力や、日々の関心事を勝手気まま?に…。

アダージオ

2007-11-04 | 音楽を


小澤征爾指揮/ボストン交響楽団によるマーラーの全集では、第九番の演奏が二枚のディスクにまたがってゐます。
第一楽章から第三楽章までが一枚に、そして、二枚目に終楽章のアダージオが収められ、残りの部分に、未完に終った第十交響曲の最初の楽章(アンダンテ-アダージオ)が収められてゐます。

1910年4月、50歳のマーラーは、ニューヨークで第九番を完成させた足でヨーロッパへ戻り、その年の晩秋には第十番にとりかかってゐます。

マーラーの第九番の演奏では、ブルノ・ヴァルターやバーンスタインやバルビローリらの演奏が小生も好きですが、なかでも、あの、肩で息をしながら、声も絶え絶えに終る終楽章のアダージオが聴き処でもあります。
まさに、グスタフ・マーラーの、告別の響きのやうでもあります。

けれど、小澤征爾のディスクのやうに続けて聴いてみると、否、そんなことはなく、確かにこの時期、マーラーはヨーロッパとアメリカとを往復する演奏活動、そして、最愛の妻アルマとの確執に心労し、健康の悪化もあったやうですが、スケッチに終った残りの楽章(第二楽章スケルツォ、第三楽章煉獄または地獄、第四楽章スケルツォ、終楽章フィナーレ)の構想をみると、文字通り最期の作品になっただらうそれにふさはしく、きっと私小説的な壮大な作品になっただらうことが予測されます。

弟子や研究者たちがスケッチを補足し、完成版をつくり、現在ではその演奏もあまた出てゐますが、小生は、マーラーの色々な演奏を聴きだして30年ほどですが、一度も聴きたいと思ったことはありませんでした。
それでも、さうか、マーラーはこの先も確実に生きながらへやうとしてゐたのか、と改めて思ふと、この晩秋に、その仮の完成版も聴いてみやうと思ってゐます。