先日、DVDで、ケン・ラッセル監督の『マーラー』をみたのですが、とてもつまらない映画になってゐました。(ラッセルのマーラーについては こちら )
俳優さんもよく似てゐて、マーラーの神経質な感じをだしてゐたのですが、それでも、如何にもエキセントリックなマーラー像になってしまってゐて、
確かに、さうではあったのでせうが、グスタフ・マーラーは、破天荒で、土俗的で、感傷的な音楽も書いたのでせうが、一方では、かのヴィーン国立歌劇場のトップであり、それなりの図太い運営感覚もあったはずです。
(歌劇場のマネイジャーとは、つねに喧嘩してゐたらしいですがー)
それゆゑに、疲れ傷つく姿が見えてこない。
マーラーを扱ってゐながら、マーラーが描かれてゐない。
そして、後日、口直しのやうにヴィスコンティの『ヴェニスに死す』をみました。
映画としても、とびきりの名作、でせう。
まう、幾十回みたことでせう。
ずゐぶんと以前、映画館で見たとき、クレジットが終り、夜明け前の闇の中から、5番のアダージェットとともに浮かび上がる一隻の船の姿に、腰がぬけるほど感銘した名シーンから物語りは始まります。
マーラーがモデルだとされるトマス・マンの小説を、ヴィスコンティは、全篇に3番と5番の音楽を使ひながら、主人公アッシェンバッハの姿に、見事にマーラーの姿を映し出してゐる。
もちろん、映画のやうに、マーラーは美少年をストーカーする、老いて化粧までした老作曲家ではなかったでせうが、
自分では無調音楽を書けないけれど、弟子達のその音楽理論で激しく攻撃されながらも時代の流れの大きな防波堤になり、娘の小さな棺に泣き崩れ、歳の違ふ妻を大切にしてゐた(それらの説明は、ほんの数分のカットなのですがー)。
きっと、ヴィスコンティはマーラーを描いたのではなく、豪華な背景の中に、うつろひ、消へ行く退廃的で絶対的な美しさ、みたいなものを描きたかったのでせうが、その本質的なところがマーラーの一部をえぐりだしてゐるのでせう。
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