Gyaoにて、『萌の朱雀』を見ました。
十年ほど前、これを撮った女性監督の感性が高く評価され、
確か、色々な賞ももらった映画でした。
いい作品です。
奈良県の山深い村で、成長し、離散してゆく小さな家族の姿を、
驚喜することもなく、叫ぶこともなく、号泣することもなく、
まさに、淡々と写してゆく。
夫は、死んでしまったのか、失踪してしまったのかー。
その姉は、何故男の子を残して姿を消したのかー。
成長したその男の子と、残された妻との関係は何だったのかー。
たくさんある、人物設定の不明な点に、この映画は一切答えない。
いや、一切を伏せてゐる。
けれども、あたり前のことですが、
現在の、いはゆる普通の家族構成(夫婦、子供二人のやうなー)だけが家族でもなんでもなく、
その家その家に、他人には話すことも出来ない、
できたら伏せてでもおきたい家族構成で、それでも、
日々の生活を送ってゆかなければならない家族、家庭もあまたあるはずです。
確かに、現地の方が多く出演してゐるやうで、
いはゆる素人的な演技もありますが、
その朴訥とした運びの中に、
肉親もまた、集ひ、そして、別れてゆくことの、
楽しく、幸せな時間は、ほんのひと時しかないのだ、といふ確信にみちた視線が見るものの心をうちます。
この映画を見てゐて、
人間(じんかん)至る所に青山(せいざん)あり、
といふ言葉を思ひだしました。
「青山」とは、墓のことで、
人は、たとへどこで野垂れ死んでも、骨を埋める場所くらいはあるものだ、といふ意味
(だからこそ、積極的に世に出て活躍を、といふことでせう)らしいですが、
ひとの世の、会っては別れることの繰り返しの中で、
やはり、どこへ自らの骨を埋めるのか、
小生にとっても、身近な命題になりつつあります。
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