rakitarouのきままな日常

人間様の虐待で小猫の時に隻眼になったrakitarouの名を借りて政治・医療・歴史その他人間界のもやもやを語ります。

現状肯定と戦後秩序の確認のためのD-Day anniversary

2014-06-07 21:16:46 | 政治

ノルマンディー作戦70年式典で緊張緩和へ首脳外交(産経新聞) - goo ニュース

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2014年6月6日は第二次大戦において連合軍がノルマンディ上陸作戦を敢行してから70年の記念日であり、欧州戦線で戦った各国首脳が自由と民主主義のための戦いにおいて勝利を決定的にした作戦を記念し、犠牲になった人達を追悼するために作戦が行われた海岸に集まりました。

 

G7(本当はG8)首脳会議で呼ばれなかったプーチン大統領も出席し、オバマとの建設的な会合が開かれるのではないかと期待されましたが、結局15分程度話し合って「戦争は良くないよね」と言い合った程度のようです。一方でプーチン氏はオランド氏やメルケル氏とはかなり積極的に交流しており、ウクライナ問題における欧州と米英との温度差を感じる結果となったようです。

 

D-Dayの記念日は日本ではさほど関心を持たれていませんが、欧米においてはその持つ意味が日本で考えられている以上に複雑で大きいものだろうと私は思います。それはこの作戦が戦後秩序というものを語る上での一つの結節点になっているからだと言えます。

 

そもそも連合軍に数千人の犠牲者を出したこの作戦が第二次大戦を終結させる上で本当に必要だったのか、という問題があります。この問題は以前紹介した米国参謀として第二次大戦を戦い退役したA.ウエデマイヤー氏の「第二次大戦に勝者なし」でも述べられていますが、本来米国は参戦したら早々にドイツ本国に爆撃を加えてカレーがノルマンディから欧州大陸に上陸してドイツを降伏させて欧州の覇権を握ることが国益だったのですが、版図維持を果たしたい英国に騙されてアフリカ/地中海経由の迂回作戦を取らされてしまいます。1943年のワシントンにおける米英首脳会談でノルマンディ上陸作戦は決定されるのですが、1943年9月にはイタリアは既に降伏しており、東部戦線では43年7月にクルスクで激戦があって既にウクライナもソ連に奪還されていました。時間をかければドイツの敗北は見えていたのですが、このままではドイツを含む欧州のほとんどがソ連の版図になりそうだという状況になって、連合軍はノルマンディ上陸を強行する決定をしたのです。Wikipediaではノルマンディ作戦を「東西冷戦の始まり」と見る考えもあると紹介しています。

 

東側が米軍、西側を英連邦軍が上陸

このように見てくると、実際に作戦に参加した90代の退役軍人達が出迎えている列に「チラッ」と一瞥を加えただけでさっさと自分の席についたプーチン大統領や、この人誰という感じだったウクライナ財閥のポロシェンコ新大統領(財閥だからロシアとも繋がっており、選挙前にひそかにイスラエルを訪問しているユダヤ繋がりもあるという)、満面の笑みで兵士達と握手をしていたオバマ大統領などの意味合いが理解できます。英国のエリザベス女王や各国首脳が列席したのは英連邦軍が上陸したSword海岸の式典でしたが、米軍が上陸したOmaha海岸で先に行われた式典でのオバマ大統領のスピーチは、戦後の自由と民主主義確立のために戦ったD-Dayの戦士達への賛辞とその精神が同じ部隊名を持つ米軍の後輩達によってイラク/アフガンの戦いでも引き継がれているという「戦後秩序」と「現状肯定」満載の内容でした(ガム噛んでるという批難も出ましたが)。

オマハビーチで演説するオバマ 

ソ連と米英のどちらが先にベルリンに到達するか、という競争は1945年5月2日にソ連がベルリンを陥落させて終了するのですが、米英は手前のエルベ川までしか到達できませんでした。本当は44年の9月には軍神パットン率いる米第三軍はパリの東からザール地方へ抜けてドイツ本国のマインツを伺う勢いだったのですが、ベルギーからのロケット攻撃に悩まされる英国はパットンの突出を許さずベルギー/オランダの解放を先行させます。しかし44年の冬にはベルギーのアルデンヌの森で思わぬ逆襲にあい、結局パットンの第三軍が救出に向かうことになります。この辺は映画パットン大戦車軍団に詳しいです。「このまま行けばすぐにベルリンを落としてみせるのに何故止める?」と悔しがる軍人としての正しい戦術を優先するパットン将軍の気持ちが解ります。

 

「力による現状の変更は許さない。」とは先日のG7を終えた安倍総理の言葉でしたが、2014年に入ってからはイスラム原理主義を敵とした「テロとの戦い(欧米中国ロシアみな同盟国だった)」から冷戦構造を再構築するような「中ロvs西側諸国(G7)」の対立が目立ってきました。戦後秩序に冷戦が含まれるならば、このD-Day記念日は冷戦再開の再認識という意味合いも持っていたのかも知れません。

コメント
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