rakitarouのきままな日常

人間様の虐待で小猫の時に隻眼になったrakitarouの名を借りて政治・医療・歴史その他人間界のもやもやを語ります。

地獄の黙示録(特別完全版2001年)感想

2008-04-29 21:00:00 | 映画
地獄の黙示録(特別完全版2001年)

監督 フランシス・フォード・コッポラ
主演 マーチン・シーン/ロバート・デュバル/デニス・ホッパー他

難解なことで有名な映画。初版を見たのは20年以上前だが、前段後段のつながりが分からず難解のまま終わっていた。立花隆氏をはじめこの映画(初版)の細かいところまで薀蓄を傾けて解説を試みたものがたくさんあり、確かにいろいろな見方があるのだろうとは思います。しかし初版で割愛された部分を付け加えた完全版を見てみると初版で考察された種々の薀蓄も否定される部分がだいぶ出てくるのではないかとも思われます。

今回この完全版で初版の時によく分からなかった前段の「動」を中心にしたベトナム戦争の分かりやすい戦争表現と、後段の「静」の場面が多いカーツの帝国に入ってからの繋がりをどう解釈するのか、その謎が解けたように思います。コッポラが描きたかったのはアメリカの新植民地主義、今の言葉で言えば米国グローバリズムに対する痛烈な批判ではないだろうか。新たに加わったフランスの植民者達との邂逅で謎が解けた。

旧来の帝国主義に基づく植民地経営は入植者が土地を開墾し、自分の物として利益を得るものである。原住民から見れば迷惑な話だろうが、支配する側からは彼らにも生活の糧と文化を与えそれなりに「うまく」やって来たという自負があるのだ。フランス人達は悩みながらも軸足はぶれていない。しかしアメリカの新植民地主義はどうだろう。文化の違う(未開と見なす)土地に入ってゆき反対者は圧倒的な軍事力で排除するけれども、命を懸けて戦う兵士達自身には何の利得もない。せいぜい占領地でサーフィンをしたり、圧倒的な戦力で奇兵隊ごっこをして胸の空く思いを堪能するだけで利得は内地で机に向かっている「誰か」の物でしかないのである。世界の警察と言う建前で船を臨検するけれど、もともと欺瞞に満ちた存在でしかないから無実の人々に銃弾を浴びせ、怪我をしたからといって病院へ連れてゆこうと主張するのである。

カーツ大佐は新植民地主義の使い走りとしての自分に嫌気がさして、一人城を作るのだが結局作った城はアメリカが第三世界で行ってきたことと同じであることで悩む。そしてウイラードに自分を抹殺してこの城も焼き払えと命ずるのである。軸足ぶれぶれのウイラード大尉もカーツの意図を察してカーツを殺して元の世界に帰ってゆくのであるが、元の世界もカーツの城と同じ地獄であることを知ってしまったのだろう。

アメリカの新植民地主義の顛末は現在のアフガニスタンやイラク、アフリカや中南米を見れば明らかである。まっとうな精神を持った優秀な軍人ほどアメリカの新植民地主義を武人としての命をかけるだけの意味を見出せない「乱痴気騒ぎ」のように表現した製作者に共感するだろう。映画として初版では興行を考えてアジアの未知の秘境に入り込んでゆく冒険譚に仕立ててしまった事が魅惑的であり難解であることの原因となったのだろう。完全版ではカーツの城の情景がやけにあっさりとして見えたのは全体がうまくつながったからかも知れない。21世紀に入ってからのアメリカの活動を見る限り、この映画は原題通りの「現在の黙示録apocalypse now」になったようだ。
コメント
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