1週間ほど前に新聞記事で「穴虫の郷」の蓮の花が満開だと報じられていた。そういえば、今年は行っていないな、と、サイクリング。
今朝は天気が良く、朝から蒸し暑い。8時過ぎに家を出てのだが、漕ぎだしから暑い。
まずは、新名神鈴鹿PAに展示されている、ネルソン・ピケのF1マシーンを観に行くことに。1987年オーストラリアGPでのピケの車。F1ホンダ黄金時代の幕開けだった。この後にアイルトン・セナが出てくる。
椿神社~東海自然歩道で両尾へ出て鈴鹿川右岸の農道で、穴虫の郷へ。花は、やや盛りを過ぎた感じだった。もう少し早く来れば良かったか、と(蓮の花は、時刻も早朝に限る)。
穴虫の郷の入り口付近にある建物が、昔の小学校ではないかと、前から気になっていたので立ち寄る事に。小さなグラウンドみたいなのがあるので分校ではなかったかと思うのだが、現在は集会所。その隅に石碑があったので、見てみると、義民喜八の碑、とある。刻まれた文章を読んでみると、明和5年(1768年)9月13日の一揆の責任者の一人のようだ。翌年、阿野田の蹟(河原)で処刑とある。
家に帰って、鈴鹿市史第2巻を読むと、苦しい藩財政のために年貢増徴を図ったが、このためにさらに困窮が増すことになると、領内83か村の男子を広瀬野に集め、代官の罷免などを要求し、5500人が集まったという。14日朝から敵対した庄屋など数軒を打ち壊しながら、14日夜には阿野田河原で野宿、未明、藩からの100人を超す部隊で、一揆側に藩の下文(書付)を渡し、要求文書も受領した。万一に備え、現在、亀高のある丘に150人の鉄砲隊を待機させたとある。一揆側は、15日夜は広瀬野へ戻り、翌16日には解散、帰村となった。藩は代官などを更迭した。
碑文には翌年とあるが、史書では2年後の明和7年6月に、伊船の真弓長右ェ門、辺法寺の喜八、小岐須の喜兵衛の代表3人が斬首となった。他4人が永牢となった。なお、真弓長右ェ門の先祖は私財を投入し「龍が池」をつくり開墾に貢献している。
安楽越えの帰途、阿野田は良く通る地区だが、そう言う事があったのか、と昔を思うサイクリングだった。
HondaFW113 V6DOHCツインターボ PGM-F1

穴虫の郷の蓮の花
今朝は天気が良く、朝から蒸し暑い。8時過ぎに家を出てのだが、漕ぎだしから暑い。
まずは、新名神鈴鹿PAに展示されている、ネルソン・ピケのF1マシーンを観に行くことに。1987年オーストラリアGPでのピケの車。F1ホンダ黄金時代の幕開けだった。この後にアイルトン・セナが出てくる。
椿神社~東海自然歩道で両尾へ出て鈴鹿川右岸の農道で、穴虫の郷へ。花は、やや盛りを過ぎた感じだった。もう少し早く来れば良かったか、と(蓮の花は、時刻も早朝に限る)。
穴虫の郷の入り口付近にある建物が、昔の小学校ではないかと、前から気になっていたので立ち寄る事に。小さなグラウンドみたいなのがあるので分校ではなかったかと思うのだが、現在は集会所。その隅に石碑があったので、見てみると、義民喜八の碑、とある。刻まれた文章を読んでみると、明和5年(1768年)9月13日の一揆の責任者の一人のようだ。翌年、阿野田の蹟(河原)で処刑とある。
家に帰って、鈴鹿市史第2巻を読むと、苦しい藩財政のために年貢増徴を図ったが、このためにさらに困窮が増すことになると、領内83か村の男子を広瀬野に集め、代官の罷免などを要求し、5500人が集まったという。14日朝から敵対した庄屋など数軒を打ち壊しながら、14日夜には阿野田河原で野宿、未明、藩からの100人を超す部隊で、一揆側に藩の下文(書付)を渡し、要求文書も受領した。万一に備え、現在、亀高のある丘に150人の鉄砲隊を待機させたとある。一揆側は、15日夜は広瀬野へ戻り、翌16日には解散、帰村となった。藩は代官などを更迭した。
碑文には翌年とあるが、史書では2年後の明和7年6月に、伊船の真弓長右ェ門、辺法寺の喜八、小岐須の喜兵衛の代表3人が斬首となった。他4人が永牢となった。なお、真弓長右ェ門の先祖は私財を投入し「龍が池」をつくり開墾に貢献している。
安楽越えの帰途、阿野田は良く通る地区だが、そう言う事があったのか、と昔を思うサイクリングだった。
HondaFW113 V6DOHCツインターボ PGM-F1

穴虫の郷の蓮の花
