72年3月26日。モット・ザ・フープルのファンならこの日付は
頭に刻み込まれているはずだ。「モット・ザ・フープル物語」のサブ・タイトル
にもなったこの日付は、モットがチューリッヒでのライブの後に
解散を決意したその日である。ベーシストの職探しの電話でモットの危機を
察知したボウイ様の援助で、モットは窮地を脱しバンドが存続したのは
有名な話である。
では、ボウイとモットの話し合い?もしくは援助の旨の意思伝達は
いつ行われたのか。
掲載写真は72年4月6日のライブ盤。もちろんオフィシャル物である。
このライブは72年のロックンロール・サーカス・ツアー二日目を収録していて
初日は4月5日。ということは、3月26日からわずか9日のインターバルで
ツアーが始まったことになる。この9日の間にボウイとのミーティングがあり、
バンドが存続することが決定し、多分当初から決められていた通りの
スケジュールでツアーが始まったのだろう。
たった9日の間に、4月22日まで続く16回分のコンサート会場を押さえるのは
至難の技だろうから。
で、ツアー2日目のこのライブ盤で早くも「モット・ザ・フープル物語」が
演奏されているのを聞くことが出来る。
この曲もたった9日の間に出来上がったということになる。
ロックには様々な伝説があり、そのロマンに私のような凡人は様々な思い入れを
時に過剰に盛り込んでしまう。
もちろんロマン優先であるのだが、バンドを取り巻くビジネスという
現実も見えてしまうこともある。
存続が決まったから、さあツアーに出ろといったところなんだろうなあ。
哀愁漂うバンドの現状を、聴衆に披露する気持ちというのはどんなものだった
ろう。
ボウイ様の援助は現実のものになり、バンドはそれなりの成功を収める。
72年11月から始まる「ALL THE YOUNG DUDES U.S. TOUR」では
もう「モット・ザ・フープル物語」は演奏されない。
74年のライブを収録した「華麗なる煽動者」にも収録されていない。
コンサートのオープニングがホルストの「木星」であるのは変わらないけど。
頭に刻み込まれているはずだ。「モット・ザ・フープル物語」のサブ・タイトル
にもなったこの日付は、モットがチューリッヒでのライブの後に
解散を決意したその日である。ベーシストの職探しの電話でモットの危機を
察知したボウイ様の援助で、モットは窮地を脱しバンドが存続したのは
有名な話である。
では、ボウイとモットの話し合い?もしくは援助の旨の意思伝達は
いつ行われたのか。
掲載写真は72年4月6日のライブ盤。もちろんオフィシャル物である。
このライブは72年のロックンロール・サーカス・ツアー二日目を収録していて
初日は4月5日。ということは、3月26日からわずか9日のインターバルで
ツアーが始まったことになる。この9日の間にボウイとのミーティングがあり、
バンドが存続することが決定し、多分当初から決められていた通りの
スケジュールでツアーが始まったのだろう。
たった9日の間に、4月22日まで続く16回分のコンサート会場を押さえるのは
至難の技だろうから。
で、ツアー2日目のこのライブ盤で早くも「モット・ザ・フープル物語」が
演奏されているのを聞くことが出来る。
この曲もたった9日の間に出来上がったということになる。
ロックには様々な伝説があり、そのロマンに私のような凡人は様々な思い入れを
時に過剰に盛り込んでしまう。
もちろんロマン優先であるのだが、バンドを取り巻くビジネスという
現実も見えてしまうこともある。
存続が決まったから、さあツアーに出ろといったところなんだろうなあ。
哀愁漂うバンドの現状を、聴衆に披露する気持ちというのはどんなものだった
ろう。
ボウイ様の援助は現実のものになり、バンドはそれなりの成功を収める。
72年11月から始まる「ALL THE YOUNG DUDES U.S. TOUR」では
もう「モット・ザ・フープル物語」は演奏されない。
74年のライブを収録した「華麗なる煽動者」にも収録されていない。
コンサートのオープニングがホルストの「木星」であるのは変わらないけど。