ぴか の観劇(芸術鑑賞)日記

宝塚から始まった観劇人生。ミュージカル、ストレートプレイ、歌舞伎、映画やTVドラマ等も書きます。

11/02/18 ル テアトル銀座歌舞伎「女殺油地獄」本格感想!

2011-02-19 23:59:04 | 観劇

久しぶりに本格的に観劇の感想を書くことにする。
ル テアトル銀座の舞台に初めて定式幕がかかる歌舞伎公演が1月2月と続いているが、私は1か月遅れで染五郎×亀治郎の花形歌舞伎へ。「歌舞伎美人」サイトの『平成 劇場獨(ひとり)案内』の案内記事はこちら
劇場が小さいので3等席でも上層階ではなく、12日に昼の部は最後列で観たが舞台は近いし椅子は硬くないし、これで3000円なら有難いものだとしみじみ思った。そちらの感想は次回に書く。

18日に夜の部で「女殺油地獄」を観た。2009年6月歌舞伎座の「片岡仁左衛門一世一代」の舞台から1年半。仁左衛門から教えを受けた染五郎の与兵衛もきっといいだろうと期待がいっぱい。今回は見取り上演にない場面もあって、2009年2月の国立小劇場での文楽公演とも重ねられるのが楽しみだった。

【女殺油地獄】野崎参り屋形船の場より豊嶋屋逮夜の場まで
Yahoo!百科事典の「女殺油地獄」の項はこちら
元々が三段ものの世話物(上段:「徳庵堤」、中段:「河内屋内」、下段:「豊島屋油店」「同逮夜」)だが、今回は冒頭に「野崎参り屋形船の場」もついて、最後の「豊嶋屋逮夜の場」まで通しで見られるのは滅多にないチャンスであった。
今回の主な配役は以下の通り。
河内屋与兵衛=染五郎 豊嶋屋お吉=亀治郎
芸者小菊=高麗蔵 豊嶋屋七左衛門=門之助
父 徳兵衛=彦三郎 母 おさわ=秀太郎
兄 太兵衛=亀鶴 妹 おかち=宗之助
叔父 森右衛門=錦吾 小栗八弥=亀三郎

「野崎参り屋形船の場」。野崎観音に参るのに屋形船に乗って船でいく人と堤を歩く人が悪口を言い合い、口喧嘩に勝つと1年間の幸が得られるという言い伝えがあり、それにあやかろうと芸者小菊を連れて繰り出した会津のお大尽がすれ違う船の乗り手と口喧嘩をふっかけて負けてしまうというのが次の場面を余計に盛り上げるようになっている。
お吉と娘が夫の七左衛門を待って休んでいる徳庵堤茶店で与兵衛と遭遇してしまうのが悲劇の始まり。与兵衛は小菊が自分を騙して他の客と野崎参りに行っていることを聞きつけて、小菊を懲らしめようとが待ち伏せにきたのだがお吉に意見をされてしまう。
それなのにお吉がいなくなってしまうと、仲間たちとそのまま計画を実行。それまでに頭に血が上っていた会津のお大尽との派手な喧嘩で主の野崎への代参にきた馬上の侍に泥をかけてしまい成敗されそうになる。その侍の従者が叔父の森右衛門でその悪行は後日になって親にばれるのだが、まずは泥だらけの着物をまたまたお吉の手を煩わせて洗ってもらったというのが七左衛門に不義の疑いを招いてしまう。
亀治郎はこれまでのお吉のイメージと違っていた。人のいい商家の女房というだけでなく、与兵衛のような札付きの不良青年相手でも小心者だと知っているし、ご近所のよしみもあるし、親身に世話を焼きながら意見を言える関係だという自信をもった勝気な女にみえた。その自信が与兵衛の着物を脱がせてまで洗ってやるというおせっかいな行動をとらせ、夫を怒らせる。割に合わないとぷんぷんする時の表情は「じゃじゃ馬馴らし」のキャタリーナを彷彿としてにやついてしまったが(笑)その自信過剰なところが悲劇を招いてしまうのだが・・・・・・。

二幕目の「河内屋の場」は、与兵衛の家族関係の複雑さ、それぞれの人間像が実にくっきりしてよくわかった。叔父の手紙をもってきて弟を真人間にするために勘当するように言う太兵衛も亀鶴が好演。彦三郎の徳兵衛は、元は番頭だった男が継父になり主人の子への遠慮から与兵衛を甘やかしてしまったことを悔い、真人間になって欲しいという思いをぶつける屈折した思いの深さを熱演(こういう屈折した思いは当時の義理人情の感覚を踏まえるとより深くかみしめられると思う)。おさわの秀太郎は仁左衛門一世一代の時と同じだが、今回は彦三郎の徳兵衛とのバランスもいい。おかちの宗之助も可愛くいじらしい。
しかし、与兵衛は家族の思いを受けとめるという感覚はもちあわせていないようだ。ひたすら馬鹿息子に振り回され、それでも思いをかける家族に感情移入してしまう。

三幕目の「豊嶋屋油店の場」。節季のかけとりに忙しい夜、七左衛門は約束の店に遅くに出かけていってしまう。娘の使っていた櫛の歯がかけ、夫が立ち酒をするということで、夫の不在時に不幸が起こる予兆として描かれ、クライマックスへのカウントダウンが始まる。
河内屋夫婦が次々と現れて、勘当した与兵衛に親からと言わずに渡して欲しいとお吉にお金を預けて帰っていく。それを与兵衛が戸口で立ち聞いており、お吉に意見とともに真人間になると涙を流して改心を誓う。ところがお金を数えると自分が必要な金額には足りないので、お吉に貸して欲しいと懇願する。実はこの場面をすでに改心の不十分さだと解釈してしまっていたのだが、どうやら与兵衛はここまで改心した心で無心しているのだと気がついた。偽判で借金をしたのが返せなければ親の信用を損なってしまうということを心底気遣ったようだ。
ところが、それをお吉に嘘だと言われ、夫に不義の疑いを抱かせた与兵衛を相手に夫の不在に大金を貸したりできないとつっぱねられて、気持ちが豹変するのだ。自分がカッコいいことが一番大事で、お吉に無心の理由が嘘だと言われて自尊心が傷つけられ、逆ギレしてしまったのだろう。与兵衛はつまらない自尊心のかたまりで、その時々でカッコよく振る舞うことが人生で一番大事な人間のようで、こんな人間には全く魅力を感じない。

それなのに、「不義になっても貸してくだされ~」からの狂気が支配する与兵衛と、追いつめられていくお吉の場面は実にスリリング!大体、家にあるお金がどれくらいあるかなんていうことをお金に困った与兵衛相手にぺらぺらしゃべってしまったのはお吉さん、いくらなんでも不用心だったよ。与兵衛の殺意に気付いて外に出る戸口のところで刺された時に、自信過剰だった女がツケを払わされることになったことに気が付いたかもしれないが後の祭り。
逃げ回る中で油桶を倒し、その油を模したフノリの海の中を刀を持ってとどめを刺そうとする男と「(子どものために)死にとうない」と抵抗する女がころびつまろびつしながらの殺し場。解いた帯が油に浸ったところを歩いていってとどめを刺し、またその上を歩いて逃げるというのも実に理にかなった歌舞伎の演出に感心。要所要所で二人が極まる。亀治郎の美しい海老反りに染五郎が狂気の目を光らせて刃を振り上げる場面には溜息が出る。

お吉を殺してしまって我に返り、ガタガタ震える与兵衛の小心ぶり。亡骸から鍵束をとりあげて戸棚をあけて有り金を奪って逃げていく、花道の引っ込み。いつもの三階席では見えないが、客席の半分くらいまで設けた短い花道を鳥屋の揚幕まで入っていくところまで見えた今回はお得な気分!

お吉を殺したあとの与兵衛を描いたあとの二つの場面も面白く観た。「北の新地の場」では盗んだ金で花街でいい気に遊ぶ姿と、叔父の捜索の噂にびくつく姿にますますあきれる。
そしてお吉の三十五日法要の前夜=逮夜で人々が集まる豊島屋に念仏をあげにわざわざ行って捕まるのだが、ここはお吉の怨念か与兵衛の殺しの証拠が次々と見つかってという仕掛けが歌舞伎である。お前が殺したのだろうと問い詰める人々に言い逃れて暴れ、動かぬ証拠を捕り方につきつけられて観念したかと思うと、縛られる前にまたひと暴れ。
縄を打たれたところに兄と叔父がかけつけて声をかけてもつっぱねてふてくされて引かれていく。その花道の引っ込みの染五郎の与兵衛の表情が実によかった。
ふてくされていたかと思うと、不安げにもなり、最後は我を忘れたように呆然となっていった。与兵衛には「俺は何をしてきたのだろう何をしたかったのだろう」という思いもよぎったのではないだろうかとか、ふっと思ってしまった。
殺し場のあとの引っ込みで終わる方がよいという感想もお聞きするが、私はけっこう今回の通し上演は面白かったと思った。

朝日新聞の2/16夕刊の劇評にも「現代的な染五郎の与兵衛」とあったが、確かに無軌道な生き方をして殺人に走る若者の犯罪が話題になる現代の方が、受けとめられやすい作品だろう。江戸時代には初演であまり評判がとれずに上演が絶えたというから、作品が時代に合わなかったのだろう。それが今になって注目されるというのはすごいものだ。
しかしながら、現代に生きる私たちは、役者が見せる狂気の芝居の魅力を堪能するだけでいいのだろうか。この与兵衛のような人間が犯罪を犯しても本当に改心するような場をつくっていくことが21世紀の日本の課題なんじゃないだろうかと、そういう思いに至ったことも最後に書いておきたい。

写真は今回評判の蜷川実花さん撮影の公演チラシ画像。
そうそう、今回の公演の顔ぶれをながめていたら、2006年3月のPARCO歌舞伎「決闘!高田馬場」につながった。いい座組みである。