11月に入ってしまったが、見応えたっぷりだった芸術祭十月大歌舞伎の感想も続けて書くことにする。先に20日に観た夜の部の「通し狂言 義経千本桜」から。
2007年3月の「義経千本桜」通し上演を観ているが、今回は吉右衛門の知盛と菊五郎の忠信で見せるダイジェスト版か。
Wikipediaの「義経千本桜」の項はこちら
【渡海屋・大物浦】
2007年3月の「渡海屋・大物浦」の記事はこちら
今回の主な配役は以下の通り。
渡海屋銀平実は新中納言知盛=吉右衛門
女房お柳実は典侍の局=玉三郎
相模五郎=歌六 入江丹蔵=歌昇
源義経=富十郎 武蔵坊弁慶=段四郎
亀井六郎=種太郎 伊勢三郎=尾上右近
駿河次郎=隼人 片岡八郎=巳之助
幕開きは渡海屋の店先から。だから女房お柳がいいと思えるかどうかが入り込めるかどうかの鍵だ。これまで観た女房お柳は舞台で藤十郎、DVDで芝翫。残念ながらあまりいいと思えなかったのは予想外だった。今回の玉三郎は初役だというが、人間国宝級の出演月だとそちらに優先的配役になっていたのではないかと思われる。文楽でみた時の床本も読み直してみると、冒頭の弁慶とのやりとりをするところがお柳の役どころを下女たちにふっている。歌舞伎版ではお柳の登場は相模五郎と入江丹蔵への応対から。
玉三郎の女房お柳は眉なしの石持姿の登場からよかった。相模五郎と入江丹蔵の無理難題にやりとりをしながらきっぱりと断るところの台詞も明瞭。一気にドラマの世界に入り込めた。
そこに厚司をはおった姿の渡海屋銀平の吉右衛門が登場してやっつけるのだが、吉右衛門も登場からすごい存在感。吉右衛門×玉三郎というコンビのバランスもいいじゃないか!とあらためて思ってしまった。
銀平が義経主従に出船をすすめ、用意のために引っ込んだ後でお柳が夫の日和見の確かさを夫婦で洗濯日和かどうかで意地の張り合いとなったという“洗濯のしゃべり”をするところは歌舞伎でお柳の見せ場をつくるための入れ事。面白いと思えたことがなかったが、今回は玉三郎の仕方話ぶりに引き込まれてしまった。見事だ。
義経たちを送り出した後でようやく白装束に身を固めた銀平が奥の一間から姿を現すと知盛となった吉右衛門に溜息がもれる。海老蔵のこの装束も美しかったが、吉右衛門は佇まいがまた違うのだ。出陣の前の舞も型が極まって美しい。
それを受けた玉三郎がお柳の衣裳のままで、典侍の局の佇まいに切り変わるのがわかってゾクゾクした。
義経主従に壇ノ浦で死んだはずの怨霊として仇をなすという仕掛けなので、家来たちも頭に三角の布をつけた亡者の姿で迎えにきて並ぶ。ついつい前月の「紅長」の死に装束と続いているなぁというのも頭をよぎる。9月10月の吉右衛門は死に装束つながりかとまたまた脱線イメージも楽しみつつ、この場面も堪能。こういうところに毎月観続ける楽しみもある。
「大物浦」の場面で簾が上がって姿を見せる十二単姿の典侍の局の玉三郎の顔に薄墨の太い眉が引かれていたことに感嘆。顔の拵えにも意を尽くす玉三郎のことだから、あくまでもお乳の人なのだからやんごとない女人に見えないにしているのかと推測。
安徳天皇役の子役の台詞回しには少し違和感があったのが残念だったが、玉三郎の台詞からは乳母として育てたという緊張感のある愛情が滲んで実に素晴らしい典侍の局だと思った。帝を自分の腕に抱いて階段を下りたところなど、さすがにまだまだ玉三郎は体力があるなぁと思いつつ観てしまったり、とにかく初役の典侍の局を歌舞伎座で見せて貰えてよかったと痛感。
知盛たちが敗れたことが相模五郎、続いて入江丹蔵の注進で知らされる。歌六と歌昇がこの二つの役で揃うのは初めてらしいが、実にこのコンビもいい。
その注進で覚悟を固めた典侍の局が帝を波の下の都にお連れするという件のドラマの緊張感にもゾクゾクした。辞世の句を詠んだ帝に「おでかしなされた・・・・・・」という台詞には自らが育てた帝の成長ぶりに乳母としての達成感と生母の建礼門院に思いもいたしながら悲運に散る命への嘆きがあって思わず目頭が熱くなってしまう。
官女たちに続き、八大龍王に守護を祈り帝を抱きかかえていざ入水という直前、帝を義経主従に奪われる。ここから富十郎の義経という大きな存在感が生きる。
血まみれになった知盛が現れ、弁慶に計略を見破って裏をかいたことを聞かされ、この期に及んでは出家をと数珠をかけられるが穢らわしいと断る。ここで知盛の台詞が凄い。
「討っては討たれ討たれては討つは源平の習い、生き代わり死に代わり、恨みをなさでおくべきか」
わが国における復讐の連鎖の代表が源平の関係だろう。その一念に凝り固まった知盛を帝のひとことが打ち砕く。典侍の局も帝の供奉を義経に頼んで自害してしまう。ここは二人に裏切られたとも思える場面だ。
知盛は一転、自分たち一門がこういう憂き目に合うのは父清盛の悪業からと嘆く。その上であくまでも怨霊として仇をなしたと語り伝えよと大音声で呼ばわる。源平の復讐の連鎖を自分が死んで終止符を打つと宣言するのだ。生きた自分の屍をさらすと台なしになるので碇に自らを巻きつけて静めるというわけか。
「きのふの敵はけふの味方、あら心安や嬉しやな、これぞこの世の暇乞ひ」
吉右衛門は実に高潔で立派な知盛だった。だからこそ哀れだった。魂からの絶唱のような台詞に涙腺が決壊。ここで泣かされたのは初めてだった。
知盛の鎮魂の法螺貝を吹く幕切れの段四郎の弁慶の引っ込み。ぼーうっ、ぼーうっと繰り返して客席に響き渡る法螺貝の音がドラマの余韻を胸に沁みこませる。
吉右衛門の知盛、玉三郎の典侍の局、富十郎の義経とまさに役者が揃って充実した舞台として歴史に残りそうだ。富十郎の義経も初役とのことだが床机も使えるので実にうまい配役だった。この素晴らしい舞台を一回でも堪能できてよかったと痛感している。
10月は演舞場でも復讐劇の「蛮幽鬼」、歌舞伎座でもこの舞台と復讐の連鎖を断ち切るテーマの作品が上演されることに、時代の巡りあわせを感じないではいられなかった。
写真は10/20の歌舞伎座正面。カウントダウン時計はあと193日となっている。
2006年12月文楽の「渡海屋・大物浦の段」の記事も参考までに