圧倒的な存在感を示した 大友直人指揮東京交響楽団「スクリャービン:交響曲第2番ハ短調」
「スクリャービン」は「作品の大半がピアノ曲」であり、主力のソナタでは最大時間が25分に達する作品が1つも無い「中小品作曲家」
である。「24の前奏曲集」や「12の練習曲集」などもあることにはあるのだが、ショパンに比べても規模が小さい。さらに加えれば、『スクリャービン交響曲中、唯一頻度高く演奏される第4番「法悦の詩」も時間的には「ハイドン交響曲クラス」』プロオーケストラ定期演奏会の後半を占める大曲はプログラムに乗ること自体が珍しい。
大友直人指揮東京交響楽団は、スクリャービン交響曲第2番ハ短調を「楷書風」に極めて丁寧に細部を詰めて、しかし充分なダイナミクスレンジ巾を持たして演奏に臨んだ
私高本がこれまで持っていた「スクリャービン交響曲第2番」像は、(東京でナマ演奏に遭遇しなかったので)スヴェトラーノフ指揮盤とムーティ指揮盤であったが、どちらも「スクリャービンの官能」側面を強調しており、特に良い演奏に感じられなかった。他の演奏を聴いたことが無かったので、「曲の問題か? 演奏の問題か?」はこれまで全くわからなかった。
大友直人 は、「金管楽器の咆哮」を許さない。1番トランペットと1番ホルン&4番ホルンにアシスタントを付けて、疲れが出て無闇に吹くことを予め防止する準備の入れよう! 東京交響楽団の金管楽器は「パートのまとまり」がうまい上に、ひっくり返ることがほとんど無い「超絶スーパー金管楽器」集団。大友直人 は「ピアニッシッシモ」を金管楽器に狙わせることはしなかったが、これは 大友直人 の解釈なのか? スクリャービンの指示なのか? は即断は出来ない。
さらに、「打楽器を不必要に鳴らさない」も徹底。出番が多くは無いだけに、張り切り易い、と思うが、これも「リズムを添える」に徹していた。
スヴェトラーノフ と ムーティ スクリャービンは「ワーグナーのオーケストレイションを模倣して失敗した始めの3つの交響曲」
をイメージさせる録音。
大友直人 は、チャイコフスキー や リムスキー=コルサコフ のオーケストレイションを彷彿とさせる解釈
聴く限り、『大友直人 + 東京交響楽団』の方が存在感が大きく、説得力が深い。東京交響楽団について、金管と打楽器について書いたが、木管楽器は「旋律の受け渡し」が極めて滑らか、弦楽器は「コントラバス から 順に上に積み上げて行く和声作り」で、在京オケの中でも相当上位に上がって来た。(「シューベルト」がテーマの年は、まだ現在の演奏水準には達していない「過程途上」だった。)
終演後、きちんと余韻を感じた後、盛大な拍手とブラヴォーが掛けられたが、「滅多に演奏されない隠れた大曲」としては、珍しいことだろう。それだけ素晴らしい名演であった。
私高本期待の「マーラー : 子供の不思議な角笛から抜粋7曲について。
バリトンの トーマス・バウアー が低音で響きが無くなる上に、声量が 横浜みなとみらい大ホールには不足気味で、スクリャービンに比較すると「小粒の演奏」に終始してしまった
バウアー は「濃く表情を付けたがった」が、本人の声量が小さめなので、「オケが声にかぶさらない」範囲にしかフォルテ方向が伸ばせない。「天上の生活」間奏など「オケだけ」の箇所を(スクリャービン並みの)大音量で鳴らせば「このバリトンは声が小さいですよ!」と晒してしまうことになるので、大友直人 は「バウアーの声量」で全体設計をした。
バウアーの「歌」自体は、よく歌い込まれた感じであり、好感が持てる。演奏直後にブラヴォーも飛び出したほどだった。できることならば、同じ マーラー「子供の不思議な角笛から」をピアノ伴奏で、大きくても紀尾井ホールまでの「リサイタル向けホール」で再度聴いて見たいものだ。
最後に、冒頭演奏されたラフマニノフ「ヴォカリーズ」について。私高本は「声楽版」が最も好き。オーケストラ版の良さは猫頭なので未だにわかっていない(涙