元旦は例年通り、「ウィーンフィルニューイヤーコンサート」を焼酎飲みながら聴いた。初めて聴いたのは1979年元旦で、ボスコフスキー指揮の最終年を聴いた。44年前か!
翌1980年から7年連続マゼールが振り、1987年に カラヤン が振り、以降毎年指揮者が交代する慣習が2023年まで続いている。
である。そして1964年にはウィーン国立歌劇場総監督解任となり、「帝王」は僅か8年だけであった。解任も カラス が関連していることは、知られていない。本日は、
について詳細を記す。主役は上記4、脇役は
google検索で「カラス ルチア スカラ座」検索すると、トップに カラス + スカラ座 の静止画youtube が来て,2番目に当 Piano Music Japan が来る。12年ぶりに書くぞ、マリア・カラス!
具体的に「演奏批評」しているのは、日本語ページでは 当Piano Music Japan だけだからなあ。
だろう。ラジオ生放送だったので、イタリア首相を始めとする歌劇場来場者だけでなく、ラジオ視聴者にも瞬時に判ってしまった。降板しただけでなく、謝罪もしなかったカラスに対して、イタリア国内では オペラ・放送 がほとんど無くなってしまった。(既に契約していたミラノスカラ座だけいくつか出演している)
オペラライブCD は マリア・カラス/マリア・カラス - コンプリート・ライヴ・オペラ・コレクション
セッションCD は マリア・カラス/コンプリート・スタジオ・レコーディングス
セッション録音は完璧だが、ライブ録音は間抜け。「ルチア」はこれじゃないでしょwww
カラヤン と カラス で世界に先に世に出たのは、年長の カラヤン である。「1938年 ベルリン国立歌劇場 : ワーグナー : トリスタンとイゾルデ」公演である。これは伏線があり、「1934年 ベルリン国立歌劇場 : ヒンデミット事件」である。1934年にヒンデミット作曲作品を巡って、フルトヴェングラー と ナチスドイツ(ゲッベルス)が対立して、フルトヴェングラーは「ベルリン国立歌劇場」から追放されてしまった。(ベルリンフィルからも短期間追放されたが、直ぐに復位している)
ナチスドイツのゲッペルスは、地方の「アーヘン歌劇場指揮者=カラヤン」を抜擢して1938年ベルリン国立歌劇場で ワーグナー「トリスタンとイゾルデ」を降らせ、新聞紙上で「絶賛批評記事」を書かせた。これに、フルトヴェングラーが激怒、死ぬまで「カラヤンを干す」実行した。これには、実は裏がある。
である。
である。
非文明国家=日本にはカラヤンを派遣しなかったが、文明同盟国家=イタリア には、カラヤンを派遣したのである。
・フルトヴェングラー のレパートリーにはイタリアオペラ無し
・カラヤン のレパートリーにはイタリアオペラ有り
イタリア語が駆使出来たカラヤン、ドイツ語のみのフルトヴェングラー(多分)は、ゲッペルスの目から見ると、ド大差だった。ちなみに1934年当時の「ヒットラーの理想 = 日独伊英4ヶ国同盟」だったので、英語も堪能な カラヤン は適任だった。日本は非文明国家なので無関係w
日本初「国立オペラハウス」は1997年、文明遅れの評価は正しいw
1939年、カラヤンがミラノスカラ座でドイツオペラを原語ドイツ語公演で振ったのか? イタリア語訳詞公演で振ったのか? は不明。その後、1943年イタリア降伏 & 対ドイツ宣戦布告まで多分4年派遣された。
ドイツ敗戦後、何年から カラヤンがミラノスカラ座に振り始めたかも不明。少なくとも、1953年セラフィン指揮「カラス主演ルチア録音」前までには「ミラノスカラ座ドイツオペラ指揮者」として戻っていた。
1953年、フルトヴェングラーは存命中。カラヤンは「カラス主演ルチア」をミラノスカラ座で「カラヤン指揮&演出」で振ることを提案。何故か、許可される。これが「カラスの悲劇」となる。これさえ拒絶していれば、マリア・カラス は永く永く歌えた、と私高本は信じる。
・1954.01.18 - 02.07 ドニゼッティ「ルチア」ミラノ・スカラ座 7公演
・マリア・カラス狂の録音狂が録音を海賊盤業者に売り込めなかった → カラヤン指揮&演出ミラノスカラ座「ルチア」
である。天井桟敷で初日を毎回録音していたが、海賊盤業者が買い取らなかったのだ!
理由ですか?
セラフィン盤より、遥かに劣るから、ただそれだけ。
ヴェルディ「マクベス」全曲 1952年12月 ミラノ ミラノ・スカラ座 以降 の「カラス海賊盤」続出状態を知っていたカラヤンは、「海賊盤出ないのか!」と怒ったことだろう。
翌1980年から7年連続マゼールが振り、1987年に カラヤン が振り、以降毎年指揮者が交代する慣習が2023年まで続いている。
「帝王カラヤン」呼称は1956年「ウィーン国立歌劇場総監督就任が端緒」であり、1956年6月カラス主演「ルチア」で原語イタリア語上演が評価されたから
である。そして1964年にはウィーン国立歌劇場総監督解任となり、「帝王」は僅か8年だけであった。解任も カラス が関連していることは、知られていない。本日は、
カラス と カラヤン と ウィーン国立歌劇場、ミラノスカラ座
について詳細を記す。主役は上記4、脇役は
- フルトヴェングラー
- ナチスドイツ
- ベルリン国立歌劇場
- レッグ
- メネギーニ
google検索で「カラス ルチア スカラ座」検索すると、トップに カラス + スカラ座 の静止画youtube が来て,2番目に当 Piano Music Japan が来る。12年ぶりに書くぞ、マリア・カラス!
具体的に「演奏批評」しているのは、日本語ページでは 当Piano Music Japan だけだからなあ。
クラシック音楽界正月最大の事件 = 1958年1月2日マリア・カラス のローマ歌劇場「ノルマ」中途退場
だろう。ラジオ生放送だったので、イタリア首相を始めとする歌劇場来場者だけでなく、ラジオ視聴者にも瞬時に判ってしまった。降板しただけでなく、謝罪もしなかったカラスに対して、イタリア国内では オペラ・放送 がほとんど無くなってしまった。(既に契約していたミラノスカラ座だけいくつか出演している)
オペラライブCD は マリア・カラス/マリア・カラス - コンプリート・ライヴ・オペラ・コレクション
セッションCD は マリア・カラス/コンプリート・スタジオ・レコーディングス
セッション録音は完璧だが、ライブ録音は間抜け。「ルチア」はこれじゃないでしょwww
カラヤン と カラス で世界に先に世に出たのは、年長の カラヤン である。「1938年 ベルリン国立歌劇場 : ワーグナー : トリスタンとイゾルデ」公演である。これは伏線があり、「1934年 ベルリン国立歌劇場 : ヒンデミット事件」である。1934年にヒンデミット作曲作品を巡って、フルトヴェングラー と ナチスドイツ(ゲッベルス)が対立して、フルトヴェングラーは「ベルリン国立歌劇場」から追放されてしまった。(ベルリンフィルからも短期間追放されたが、直ぐに復位している)
ナチスドイツのゲッペルスは、地方の「アーヘン歌劇場指揮者=カラヤン」を抜擢して1938年ベルリン国立歌劇場で ワーグナー「トリスタンとイゾルデ」を降らせ、新聞紙上で「絶賛批評記事」を書かせた。これに、フルトヴェングラーが激怒、死ぬまで「カラヤンを干す」実行した。これには、実は裏がある。
1937年11月協定「日独伊防共協定」の為に、カラヤンを「友好の橋」としてミラノスカラ座に派遣するため
である。
1939年「カラヤン : ベルリン国立歌劇場芸術監督就任」で即「ミラノスカラ座 ドイツオペラ担当」派遣
である。
非文明国家=日本にはカラヤンを派遣しなかったが、文明同盟国家=イタリア には、カラヤンを派遣したのである。
・フルトヴェングラー のレパートリーにはイタリアオペラ無し
・カラヤン のレパートリーにはイタリアオペラ有り
イタリア語が駆使出来たカラヤン、ドイツ語のみのフルトヴェングラー(多分)は、ゲッペルスの目から見ると、ド大差だった。ちなみに1934年当時の「ヒットラーの理想 = 日独伊英4ヶ国同盟」だったので、英語も堪能な カラヤン は適任だった。日本は非文明国家なので無関係w
日本初「国立オペラハウス」は1997年、文明遅れの評価は正しいw
1939年、カラヤンがミラノスカラ座でドイツオペラを原語ドイツ語公演で振ったのか? イタリア語訳詞公演で振ったのか? は不明。その後、1943年イタリア降伏 & 対ドイツ宣戦布告まで多分4年派遣された。
ドイツ敗戦後、何年から カラヤンがミラノスカラ座に振り始めたかも不明。少なくとも、1953年セラフィン指揮「カラス主演ルチア録音」前までには「ミラノスカラ座ドイツオペラ指揮者」として戻っていた。
1953年、フルトヴェングラーは存命中。カラヤンは「カラス主演ルチア」をミラノスカラ座で「カラヤン指揮&演出」で振ることを提案。何故か、許可される。これが「カラスの悲劇」となる。これさえ拒絶していれば、マリア・カラス は永く永く歌えた、と私高本は信じる。
・1954.01.18 - 02.07 ドニゼッティ「ルチア」ミラノ・スカラ座 7公演
・マリア・カラス狂の録音狂が録音を海賊盤業者に売り込めなかった → カラヤン指揮&演出ミラノスカラ座「ルチア」
である。天井桟敷で初日を毎回録音していたが、海賊盤業者が買い取らなかったのだ!
理由ですか?
セラフィン盤より、遥かに劣るから、ただそれだけ。
ヴェルディ「マクベス」全曲 1952年12月 ミラノ ミラノ・スカラ座 以降 の「カラス海賊盤」続出状態を知っていたカラヤンは、「海賊盤出ないのか!」と怒ったことだろう。