「日経MJ」を購読している。
が、
今日(これ書きはじめたのは11月3日)購読を中止することに決定♪
まぁ、別に大袈裟な話じゃないんだけどねぇ。
日経MJ
紙面自体は、キーワードにも書いているように面白いし、テレビを見ない儂としては流行や社会現象の重要な情報源でもあったわけだけど。
直接のきっかけは
11月2日の紙面での連載記事
伊藤元重氏の「ニュースな見方」の見出しに出ていた
「盛り上がるTPP議論」
という表現だ。
記事の内容にひっかかったわけではなく
この表現が引っ掛かったのだ。
#基本的に以前から原発に反対・新自由主義経済クソッタレ・TPP絶対イヤ!の儂とは根本的に相容れないのだけど、それはそれとしていつも記事はフツーに読んでふーん、で終わっているのよ
どう言ったらいいのかな。
なんかね、
シラケた☆
だいたいにして、「盛り上がる」ってなんだ?この表現。
軽っ! TPPの問題って、これからのこの国の行く先を左右する大問題だ。そんな大問題、国を挙げての議論にならなくちゃウソだろ?と思う。それは賛成派も反対派にも共通の認識だと思っていたが違うのか?「いやー、なんか盛り上がってるねー、いいねー」そんな感じか?主体性なしか?
「盛り上がる」ってなんだ?
なんだ、その他人事な表現は?外国の話してんじゃねーんだぞ?
仮にも日本を代表する大学の、しかも院の、さらに教授さん。影響力アリアリのその人が、なんだその他人事ちっくな表現は。
「盛り上がる」ってなんだ?
なんかのパーティかなんかかよ!
TPPの問題が、いろんなところで議論されているのは事実。それをどう表現したところで別に事実が変わるわけではないんだけれども、その表現にいままで引っ掛かっていたものが全部外れてしまった感じ。
引っかかっていたもの。。。
そう別にTPPに限らず、この「経済」というエラそうな立ち位置(主観です)から語る立場の、なんともいえない違和感についてだ。
いや、「パーティかなんかかよ!」とツッコんではみたものの、所詮彼らにとってはパーティなんじゃないのかなという気が薄々していたのだ。
経済は常に動き、社会情勢・国際情勢によって変化し、税制や国の経済施策といった政治的な事象とも密接に絡み、複雑で素人にはわかりにくい面も多々ある。そして、それがこの国の(ひいては世界の)将来さえも左右しかねない大きな要因となっている事はさすがに儂でもわかる。
なのに、経済の評論家っちゅーよーな感じの人(ホントに評論家とは限らないんだけど)が話をするのを聞いていると、何故だか視野が短期的でやたら「今のままじゃダメだ」的な切迫感を煽る感じがしてしょうがなかったの。将来どういう形になるのか、というイメージについて大きくは語ってくれるのだけど、それに繋がる具体的なプランを提示されるのは稀で、でもとにかくこのままでは置いていかれちゃうよ、早く早く、みたいに急きたてられている気がしてしまう。
なんだか、パーティで盛り上げて、その時の雰囲気で丸めこもうとしているみたいなのよ、なんだかさ。
そこには、この国と将来を左右する大事な問題、という意識が感じられないのだ。
いや、「経済」というからいけないのかもしれないな。「経済」という虎の威を借りた、「商売」という狐なのかもしれん。
#「商売」が悪いわけではなくってよ。ここは「経済」とはちょっと違うイメージを持ってくるため便宜的に使っております
わかってる。
わかってますよ。
だって、儂が読んでいるのは 「日経マーケティングジャーナル」 だもの。
分かりやすく言えば、学問的な「経済」という視点から語るのではなく、日常的な「流通・商売・市場」という立場が主導権を握っているわけです。
日々企業活動をしている側からすれば、経済を活発にさせる事によって社会を活気あるものにしていく事が至上命題なわけで(有り体に言えば、消費者の財布のひもが緩むようにあれやこれや宣伝活動してお金ががっぽがっぽ儲かるようにするのが至上命題なわけで)、その為には常に新しい情報を送りこみ、消費者を追いたてる事が必要になるわけだから、当然と言えば当然。祭りだ祭りだワッショッショーイ、ほりゃほりゃ、金使え~!
というのが、わかりやすーい理解のしかたですわな。
しかし、しかしだ。
結局、それが資本主義のどうしようもない方向性だとするならば、それがもう行き詰っている事についてはどう考えたらいいのか、という事なのだ。
単純に言えば、資本主義経済は成長し続ける事を前提としている(少なくとも多くの人はその前提の資本主義経済を信じている)。しかし、成長に限界があるであろう事は誰にだって容易に想像がつく。TPPだって、(穿って見れば)結局は自国では経済成長が見込めないから他から搾取しやすいようにしようやと言っているに過ぎない。反対派にとっては主語がアメリカで搾取される方が日本、賛成派は主語が日本で搾取される国にアジアを想定しているという違いですよねぇ?(違?)
結局残されたパイの取り合いをしているだけだ。
そこに「義」は全く感じられない。感じられるのは「偽」だけだ。
何が言いたいかというと、
この経済の成長というのを前提にして話をする人の言葉というのは、もうそれだけで全然信じる気になれない、というこの状況なのです。
社会が今のこの資本主義経済のままずーっと行くであろうというような思い込みは幻想でしかないのだけど、どうもその幻想に(多分多くの人は気付きながらも気付いてないふりをして)惑わされている人が多いように感じるのは、こういった、なんだか信じられないような言説が、どうやら多くの人に説得力を持ってしまっているという状況からして、あながち気のせいじゃないんじゃねーべか、と思うわけです。
そうだそうだ、
同じような状況がもう一個あった。
原発への賛否の議論をしていると、同じように経済を持ちだして来て原発を擁護する人がいるのも同じ感じがするのだ。
原発に反対する方は、「一番大事なのは生命を守る事でしょ!」と主張したりするんだけど(まぁ、これも言葉が足りないところはあるのだけど、一言でインパクトのある言い方をしようとするとこういう表現になりがちではある)、それに対して「何言ってるんだ、経済だって大事でしょうが、経済成り立たなかったら生活できないよ」なーんて反論してくる。
冷静に考えたらわかるんだけど、根本的に話がかみ合ってないからね。「命が大事」という人の「大事」の意味合いと「経済が大事」の「大事」の意味合いは全く違うんだから。同じ「長さ」を競い合ってるのに、片方は物の長さを誇って、片方は時間の長さを主張してるようなそんな感じだ(例えが悪いですか?)
今生きている儂らだけではなく、受け継がれさらに子どもたちに受け継いでいかなくちゃならない未来を含めた命の重さと、今という短い時間軸の貨幣経済の大事さと。比べるなんてナンセンスよナンセンス。おほほほほ。
しかし、なんだろう?
「経済」という錦の御旗を立てられるととたんに委縮してしまうようなこの空気は。異常に感じるのは儂だけか?
そもそも社会は変化し続ける。
変化しないでいられる社会よりも変化し続ける社会の方がフツーである事は、歴史を見ればわかる事でしょうが。
フランシスフクヤマの「歴史の終わり」とか読んだ時は「そうなんかなー」とかも思ったけれども、それでも現在のように行き詰るのであれば、それこそ歴史で習うようなドラスティックなものでなかったとしても社会の形が変わるのは必然だろう。今のまま経済成長が続くという幻想を信じている人は流石に少数派になったのだろうけど、今のままの経済システムがこの先も(破綻せずに)続くという幻想を信じている人はまだまだ多いのではないでしょうか?
社会の変化を恐れる人が多いのは分かる。
今までの常識や培ってきたものがご破算になる可能性だってあるのだから、それはコワイ事だ。
でも、変化せざるを得ない状況にもうなっているのに、古いパラダイムに固執して、自分の首を絞める事なんかないのにね。
「経済が大事」と声高な威しが聞こえると、「そうか、まだ今の経済システムが続くんだな」と安心し、その脅し文句に依存してしまう状況、そんな風に見えるのだけど違うかな。
もういい加減目を覚ました方がいいと思うで。
「経済」なんかと人としての「尊厳」を比べるなんてナンセンスや。
とりあえず、「経済」を声高に掲げてなんかかっちょいい事を言っている人がいたら、ペテン師かも、とあたしゃ疑ってかかる事にしますよん。
が、
今日(これ書きはじめたのは11月3日)購読を中止することに決定♪
まぁ、別に大袈裟な話じゃないんだけどねぇ。
日経MJ
紙面自体は、キーワードにも書いているように面白いし、テレビを見ない儂としては流行や社会現象の重要な情報源でもあったわけだけど。
直接のきっかけは
11月2日の紙面での連載記事
伊藤元重氏の「ニュースな見方」の見出しに出ていた
「盛り上がるTPP議論」
という表現だ。
記事の内容にひっかかったわけではなく
この表現が引っ掛かったのだ。
#基本的に以前から原発に反対・新自由主義経済クソッタレ・TPP絶対イヤ!の儂とは根本的に相容れないのだけど、それはそれとしていつも記事はフツーに読んでふーん、で終わっているのよ
どう言ったらいいのかな。
なんかね、
シラケた☆
だいたいにして、「盛り上がる」ってなんだ?この表現。
軽っ! TPPの問題って、これからのこの国の行く先を左右する大問題だ。そんな大問題、国を挙げての議論にならなくちゃウソだろ?と思う。それは賛成派も反対派にも共通の認識だと思っていたが違うのか?「いやー、なんか盛り上がってるねー、いいねー」そんな感じか?主体性なしか?
「盛り上がる」ってなんだ?
なんだ、その他人事な表現は?外国の話してんじゃねーんだぞ?
仮にも日本を代表する大学の、しかも院の、さらに教授さん。影響力アリアリのその人が、なんだその他人事ちっくな表現は。
「盛り上がる」ってなんだ?
なんかのパーティかなんかかよ!
TPPの問題が、いろんなところで議論されているのは事実。それをどう表現したところで別に事実が変わるわけではないんだけれども、その表現にいままで引っ掛かっていたものが全部外れてしまった感じ。
引っかかっていたもの。。。
そう別にTPPに限らず、この「経済」というエラそうな立ち位置(主観です)から語る立場の、なんともいえない違和感についてだ。
いや、「パーティかなんかかよ!」とツッコんではみたものの、所詮彼らにとってはパーティなんじゃないのかなという気が薄々していたのだ。
経済は常に動き、社会情勢・国際情勢によって変化し、税制や国の経済施策といった政治的な事象とも密接に絡み、複雑で素人にはわかりにくい面も多々ある。そして、それがこの国の(ひいては世界の)将来さえも左右しかねない大きな要因となっている事はさすがに儂でもわかる。
なのに、経済の評論家っちゅーよーな感じの人(ホントに評論家とは限らないんだけど)が話をするのを聞いていると、何故だか視野が短期的でやたら「今のままじゃダメだ」的な切迫感を煽る感じがしてしょうがなかったの。将来どういう形になるのか、というイメージについて大きくは語ってくれるのだけど、それに繋がる具体的なプランを提示されるのは稀で、でもとにかくこのままでは置いていかれちゃうよ、早く早く、みたいに急きたてられている気がしてしまう。
なんだか、パーティで盛り上げて、その時の雰囲気で丸めこもうとしているみたいなのよ、なんだかさ。
そこには、この国と将来を左右する大事な問題、という意識が感じられないのだ。
いや、「経済」というからいけないのかもしれないな。「経済」という虎の威を借りた、「商売」という狐なのかもしれん。
#「商売」が悪いわけではなくってよ。ここは「経済」とはちょっと違うイメージを持ってくるため便宜的に使っております
わかってる。
わかってますよ。
だって、儂が読んでいるのは 「日経マーケティングジャーナル」 だもの。
分かりやすく言えば、学問的な「経済」という視点から語るのではなく、日常的な「流通・商売・市場」という立場が主導権を握っているわけです。
日々企業活動をしている側からすれば、経済を活発にさせる事によって社会を活気あるものにしていく事が至上命題なわけで(有り体に言えば、消費者の財布のひもが緩むようにあれやこれや宣伝活動してお金ががっぽがっぽ儲かるようにするのが至上命題なわけで)、その為には常に新しい情報を送りこみ、消費者を追いたてる事が必要になるわけだから、当然と言えば当然。祭りだ祭りだワッショッショーイ、ほりゃほりゃ、金使え~!
というのが、わかりやすーい理解のしかたですわな。
しかし、しかしだ。
結局、それが資本主義のどうしようもない方向性だとするならば、それがもう行き詰っている事についてはどう考えたらいいのか、という事なのだ。
単純に言えば、資本主義経済は成長し続ける事を前提としている(少なくとも多くの人はその前提の資本主義経済を信じている)。しかし、成長に限界があるであろう事は誰にだって容易に想像がつく。TPPだって、(穿って見れば)結局は自国では経済成長が見込めないから他から搾取しやすいようにしようやと言っているに過ぎない。反対派にとっては主語がアメリカで搾取される方が日本、賛成派は主語が日本で搾取される国にアジアを想定しているという違いですよねぇ?(違?)
結局残されたパイの取り合いをしているだけだ。
そこに「義」は全く感じられない。感じられるのは「偽」だけだ。
何が言いたいかというと、
この経済の成長というのを前提にして話をする人の言葉というのは、もうそれだけで全然信じる気になれない、というこの状況なのです。
社会が今のこの資本主義経済のままずーっと行くであろうというような思い込みは幻想でしかないのだけど、どうもその幻想に(多分多くの人は気付きながらも気付いてないふりをして)惑わされている人が多いように感じるのは、こういった、なんだか信じられないような言説が、どうやら多くの人に説得力を持ってしまっているという状況からして、あながち気のせいじゃないんじゃねーべか、と思うわけです。
そうだそうだ、
同じような状況がもう一個あった。
原発への賛否の議論をしていると、同じように経済を持ちだして来て原発を擁護する人がいるのも同じ感じがするのだ。
原発に反対する方は、「一番大事なのは生命を守る事でしょ!」と主張したりするんだけど(まぁ、これも言葉が足りないところはあるのだけど、一言でインパクトのある言い方をしようとするとこういう表現になりがちではある)、それに対して「何言ってるんだ、経済だって大事でしょうが、経済成り立たなかったら生活できないよ」なーんて反論してくる。
冷静に考えたらわかるんだけど、根本的に話がかみ合ってないからね。「命が大事」という人の「大事」の意味合いと「経済が大事」の「大事」の意味合いは全く違うんだから。同じ「長さ」を競い合ってるのに、片方は物の長さを誇って、片方は時間の長さを主張してるようなそんな感じだ(例えが悪いですか?)
今生きている儂らだけではなく、受け継がれさらに子どもたちに受け継いでいかなくちゃならない未来を含めた命の重さと、今という短い時間軸の貨幣経済の大事さと。比べるなんてナンセンスよナンセンス。おほほほほ。
しかし、なんだろう?
「経済」という錦の御旗を立てられるととたんに委縮してしまうようなこの空気は。異常に感じるのは儂だけか?
そもそも社会は変化し続ける。
変化しないでいられる社会よりも変化し続ける社会の方がフツーである事は、歴史を見ればわかる事でしょうが。
フランシスフクヤマの「歴史の終わり」とか読んだ時は「そうなんかなー」とかも思ったけれども、それでも現在のように行き詰るのであれば、それこそ歴史で習うようなドラスティックなものでなかったとしても社会の形が変わるのは必然だろう。今のまま経済成長が続くという幻想を信じている人は流石に少数派になったのだろうけど、今のままの経済システムがこの先も(破綻せずに)続くという幻想を信じている人はまだまだ多いのではないでしょうか?
社会の変化を恐れる人が多いのは分かる。
今までの常識や培ってきたものがご破算になる可能性だってあるのだから、それはコワイ事だ。
でも、変化せざるを得ない状況にもうなっているのに、古いパラダイムに固執して、自分の首を絞める事なんかないのにね。
「経済が大事」と声高な威しが聞こえると、「そうか、まだ今の経済システムが続くんだな」と安心し、その脅し文句に依存してしまう状況、そんな風に見えるのだけど違うかな。
もういい加減目を覚ました方がいいと思うで。
「経済」なんかと人としての「尊厳」を比べるなんてナンセンスや。
とりあえず、「経済」を声高に掲げてなんかかっちょいい事を言っている人がいたら、ペテン師かも、とあたしゃ疑ってかかる事にしますよん。