ぱたの関心空間

関心空間と徒然なるままに。

先祖になる@京都シネマ

2013-04-08 11:26:49 | 映画感想
77歳になるその人は、津波で息子を失い、家は残ったものの二階まで浸水し、普通には住めない状態、周囲の多くの家は流され地域の人はみな仮設などへ避難しているというのに、瓦礫の原と化したその場所に住み続ける。
津波から一週間後に流された息子さんが見つかる前には、もう米作りのできる農地を探し、役人が土地利用計画を打ち出すより早く自分の家を再建すると宣言する。

そして、震災から二年を待たずに家を再建してしまう。

そのドキュメンタリー。

表面的には、周囲の言うことも聞かず我侭を通す頑固爺さんの話に思えるかもしれない。

普通に考えれば、こうだ。
不自由な被災した家に住み続けるんじゃなく避難所、仮設住宅に行けばいいじゃない。行政の言うこと聞いて今後どうするか待っていたらいいじゃない。平時だったらいいよ、でもね、こんな大変な災害の直後で町も人も大混乱の非常時なのに、何あたりまえみたいな顔して言ってるの?非常識じゃない?って話になるのだろう。
現に、奥さんはそこに住み続ける事も家を建て直す事も反対だとはっきり言うし、地域計画の話をする若い役人だって困り顔だ。

何と言ったらわかってもらえるだろう。
これは先に観た「希望の国」で強制避難に応じなかった主人公の気持ちに通じているかもしれない(ので、上手に言葉にできないんだけれど)、その場所というものに対しての強い意思のようなものに近いのかもしない。

ただ、大きく違うのはこちらの方には生きる力強さのようなものを強く感じる点だ。
「希望の国」にあるのは絶望であり、「先祖になる」にあるのは未来である。

そこでこのタイトルになる。
「先祖になる」
町が復興する為には人が当たり前に住んで日々の営みがなくてはいけない。今はまだガレキの野だが、そこに自分がいち早く住む事で復興の先鞭をつけるというのだ。77歳の佐藤直志さんが誰よりも強く未来を意識してみんなの「先祖になる」と言う。
年寄りだなんて思ってみるなら、その先入観を恥じなくちゃいけない。誰よりも前を向いている力強い男がそこにいるだけだな。

大事なのは彼は当たり前のようになんでも自分でやろうとするところ。
元々、半分農家、半分木こり。生活の為に米を作り、家を造る為に木を伐る。それは津波が来ようが来まいが、当たり前のことを当たり前にするだけだというその力強さ。

そういえば、彼を助けて一緒にやっている人に「どうして、直志さんを支援するんですか?」って聞いたら「当たり前の事をしている人だから」みたいに答えていた。
そうか、すごい事なんだな。この未曾有の大災害の最中、全ての感覚が麻痺するであろう現実を目の当たりにして、なのに当たり前の感覚でいられるというのはむしろ狂気に近いのかもしれない。けれどもさ、そんな普通でいられないような状況下で、当たり前の事を言える人間がいるという事はいったいどれだけ心強い事なんだろう、って思うな。そういう事なんじゃないかな。

生きる力っていうのがある。
決してそれが悪いとは言わないけれど、行政に頼る事になれてしまい、自分で生きる力を失いつつあるのが現代だ。
確かに行政や他からの支援というのは必要で、十分に機能するのならとてつもなく有効な手段でもあるけれど、主体はあくまでそこで生きる人間である。それが日常的にもあくまで基本。ましてや長い復興期まで含めた平時とは言えない状況下に、行政頼みであり続ける事は、果たして地域の復興の為にどれだけの意味があるであろうか?

気に障ったのなら、被災地から遠く離れた所に住んで映画だけ見てあーだこーだ言うだけの無責任男の戯言と許していただきたい。しかし、言い訳するなら儂はこれを自分自身への戒めとして強く意識するのだ。明日はわが身、南海トラフ大地震が起き、西日本が壊滅するような事態になった時、果たして儂は生きる力を発揮できるのだろうか?

けんか七夕は陸前高田の有名な祭だ。
開催が危ぶまれながら、山車一台で何とか震災の年にも行われたけんか七夕。喧嘩はできないものの、そこには、わの町を誇りに思う若い人たちの熱い想いが集まる。

喧嘩七夕で表出する若者の気持ち
「町をあきらめるな!」と叫ぶ彼らの心が77歳の老人と繋がる。

命は次の世代へと繋がっていく。
どんな大きな災厄に見舞われたって、人間はその先の未来への希望を見いだそうとする。

今を生きる私たち「先祖」が未来を見据えて頑張らなくては「子孫」達に申し訳が立たない。
未来の希望の為に、地に足をつけてできる事をしていこう。見本となる先達はここにいる。

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