ぱたの関心空間

関心空間と徒然なるままに。

だいじょうぶであるように -Cocco終わらない旅-@京都シネマ

2009-01-22 09:32:53 | 映画感想
Cocco。

一昨年の音泉魂のレポでも書いたけど、儂は以前Coccoが苦手やった。
苦手と言うよりも、なんだろう。中途半端に触れてしまってはいけないような気がしていたのだ。

今回の映画でCoccoという人を畏れていた理由が分かった気がする。

あぁ、なんとまぁ、
とてつもなくストレート。
もう生半可じゃなくね、その素直さのなんと生々しいことか。

テーマは恐ろしく根源的である。
「言いたい事は一つだけ。生きろ。  生きろ。   生きろ!!。」
映画の終盤近く、広島のコンサートのMCの中での言葉だ。

六ヶ所村で見た姿も、ジュゴンの見える丘も、辺野古の浜も、ひめゆりの乙女達も、ヒロシマも神戸も、全てが生に繋がる問題だけど、あまりに問題は広くそれに向き合い繋げるにはとてつもない時間が必要だ。

ほんでもってそれをストレートに受け止めようとするCocco。
でも彼女は繰り返し言う
「あっちゃん、また何も出来なかった。」と

まだそんな事を言い続けるのかなぁ。

本当は言ってあげたいのだ。
あなたはやろうとしていた以上の事をやってのけているのだと、だからそんなに苦しまなくっていいのだと。
でもきっとその声はとどかない。儂なんかより彼女に近い何人もの人が、既に彼女に言っているであろうその言葉で、それでもまだ彼女は自分自身を楽にする事を許していないのだ。

びっくりした。
彼女へのファンレターには「助けて」と書いてあるものが多いと言う。わからなくはない。でもきびしいよなぁ。
だって、なんていうプレッシャーだろう。彼女は歌い手であり表現者ではあっても、教祖様や哲学者ではないのだ。
悩みをかかえたり苦しんでいる人達が、彼女の歌に救いを求めるのは構わないし自然なことかもしれない。だけれど彼女がそういった人達に応える責任を感じる必要は全く無い。それなのに、彼女はその素直さのゆえに対峙してしまうのだ。

映画はツアーバス(?)の中で黒砂糖をかじるCoccoの姿で始まる。テロップが言う
「この度の中でCoccoが黒砂糖以外のものを口にするのを見る事は出来なかった」と。

エンディングロールで伝えられる。
「5月 Cocco拒食症の治療のために入院」と。

タイトルに反して大丈夫そうに見えないCoccoが辛い。

彼女が今どういう状況なのか儂は知らないけれど、願わくばまた生で聞きたいと思うね、あっちゃんの声を。自由に楽に息をしてのびのびと表現をするCoccoを。

だいじょうぶであるように -Cocco終わらない旅-@京都シネマの画像

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