ぱたの関心空間

関心空間と徒然なるままに。

闇の子どもたち@京都シネマ

2008-08-31 12:54:07 | 映画感想
うわー。

重い。 うん、めちゃめちゃ重い映画やった。
後味の悪さもくっつけて。。。

#あー、この「後味の悪さ」は評価されるべき「後味の悪さ」ね。この後味の悪さは必要やと思う。

まぁ、予想してたけど実際に見てこんなに重くのしかかるというのは。
うむ、予想以上です。

ドキュメンタリーではないけど、ドキュメンタリーかと思わせるほどに容赦がない。
いや、それ以上に現実を突きつけるのだ。この映画をみてへらへら笑えるやつなんていないだろうな、きっと。

取り扱っているのは児童買春と臓器売買。
まぁそれだけで十分重いテーマで、その問題性をあげつらう映画だったらまだいいのだ。
(言い方変かしら?)

この映画の本質は、この問題を通して日本人の姿を映し出している所にあるのだと思う。
さらには、巧い言い方が見つからないのでストレートに言うと、日本人の罪を暗に晒しながら、でもその罪は実は人間が普遍的に背負わされている問題だっつーことだ。おまけにこの問題には出口がみえないという閉塞感が重なる。見た後に残るのはどうしようもないやり切れなさ。みんなが普段ごまかしたり目を背けたりして、なんとなくやり過ごしてきたものを否応無しに見せ付けられたら、フツーはへこみますな。映画館では逃げ場が無いからね、すっとぼけるには狸寝入りぐらいしますか。

んとー、何言ってるかわかんないですね?儂もわからん(をい)
ダメだな。投げちゃ。(汗)

以下、内容を追いますけどね。
まだ見て無い人はゴチューイくださいな。

ベースにあるのは幼児の人身売買。
売られた子供たちは客を取らされる事になる。つまり外国から来た小児性愛者の性的欲望の対象になるわけだ。そこでは人権もなにもなく、虐待され病気(エイズ)になれば生きたままゴミ袋にいれられてゴミ回収車に放り込まれる。さらには心臓移植が必要だという外国の(日本の)子供が現れれば、本人に知らされずに麻酔を掛けられ生きたまま心臓を取られるのだ。

それを追う日本人新聞記者となんとか阻止しようと考えるタイの児童福祉施設で働く日本人ボランティア。
日本で心臓移植を受ける子供の親を訪ねる、が、そこで宮崎あおい扮するボランティアは正義感を振りかざし、「移植を止めて下さい、何の罪も無いタイの子どもの命を奪うのですか!」と詰め寄る。あぁ、なんと自己中な。後先考えないそれが正義なのだと信じる事で大局で見ることを放棄し何も生み出さない自己陶酔。それはもう偽善と言ってしまっても良い。そんな偽善にしょっちゅう陥っていることにこんなところで気付かされるなんて。恥ずかしい。
また、私たちは日本人の親の言い分にも耳を傾けてしまう。どっちもどっちなのに。たとえ鬼となろうとも、それをしなければ自分の子どもが死んでしまうのだ。目の前の死に行く我が子と、どこか知らない遠い国の貧しい家の子。「あんた子供はいるのか?」子供がいなくったって、その心境は容易に想像がつく。
「だからといって、何の罪もない他の子を殺してその心臓を移植してもいいのか!?」
おかしなもの言いになるけど、彼らをそう責める権利は我々にはあるのだ。それが倫理だから。
だけど、じゃぁ自分の子どもがそうなったらどうする?と、心情的に、彼らを責めることが出来ないだけなのですよ、私たちは。
映画はそれをはっきり見せる、それが日本人の驕りなのだと!

別の新聞記者が言う「ここで仮に一人の命を救えても、システムが残る限り次の子が用意されるだけだ。だから僕ら(新聞記者)はそのシステムを暴くのだ」と。それは正しい。が、それに対してこの映画はきちんと目の前にいる一人の女の子を助けることさえも出来ない無力さを描き出す。そして自己弁護でもするかのように言う「今はこれで十分だ」と。
歯がゆい。歯がゆいけれども実際そうなのだ。

果たして悪いのは誰なのだ?
人身売買をして、幼児に性の玩具となる事を強要する現地のチンピラか?それとも生きたままの臓器移植をコーディネートするブローカーか?
あぁ、そんなに単純だったらどんなに有難いことか。残念ながら、彼らにそれをさせているのは「汚い(自覚の無い)日本人」じゃないか!もちろん売春宿で子供たちを買うのは日本人ばかりではない、他の西洋人も汚い先進国の大人として登場しているのは、でもそんな事は日本人としてはほんのちびっとの慰めにしかならない。

どうやら、原作を読んでいる人に言わせれば、映画はだいぶんと表現が生易しいらしい。
それでも、子供たちにセックスを強要する大人達のおぞましさはリアルだし、虐待のシーンも目を背けたくなる。
病気になり、ゴミ袋に入れられ捨てられた子供は、ゴミ袋を中から破き這いつくばり乍ら親の元へとたどり着く、感動のシーン!。。。ではなく、親は寧ろ狼狽しその命からがら親の元にたどり着いた子供を檻に入れてしまう。そのまま力尽きた子は無残にも蟻に食われ最後には焼かれてしまう。泣いたって仕方が無い。

さらに衝撃的な事に、事件を追いかけていた江口洋介が演じる新聞記者は自殺を遂げる。
なんと、彼自身が小児性愛者であったという事が最後に明かされて。
あぁ、確かに彼が子供の手を引くシーンが途中にあった。児童福祉施設で子供と相撲を取り、「子供、お好きなんですね」と言われてはにかむシーンを最後に思い出して背筋が凍りつくような思いをした人も多いだろう(子供を持つ親ならば)。

ここにある問題はまた映画のテーマとは異質だけどとてつもなく重いのだ。
主人公である新聞記者は、おそらくとてもまともで正義感もあり、物事のわかる人間として描かれており、全く普通なわけだ、ただ小児性愛者である事を除けば。
異常性愛者はしばしばバッシングの対象となる。性欲を満たすために他の人に危害を加えれば当然それは犯罪であるが、危害を加えなければ単に非社会的な存在なだけであって犯罪者とはならない。が、異常性愛者とわかればあたかももう犯罪者であるかのような扱いを受ける事になるのだ。ほら、宗教的な問題はあるにしろ、いまだに同性愛者というだけで犯罪者になってしまう国はあるでしょ、現実に。

映画の中では彼はどうやら過去に買春をしているので、罪の意識に苛まれ自殺したように見えるのだけれど、そうでなければどうしたのだろう。
性癖?の事については良く分からないけれど、性的な嗜好と言うのが持って生まれたものであるとするならば、嗜好を持っているだけでそれを差別するわけにはいかない。それはそれで人権問題だ。人間の持って生まれた性質が尊重されるべきだと、正義面して言ってもいいのだけど、どうやらそうも言っていられない風潮のようだし。。。

本当は小児性愛者である新聞記者も、正義を振りかざすボランティアも、親の愛情と言う言い訳で心臓移植を頼む親も全て同罪なのでは無いだろうか。それは時として「エゴ」と呼ばれる類のものであって、制動が利かなくなれば途端に他者を傷つけるものになるのだ。だからといってどうしようもない、人間はみんなが持っているものだからね。せいぜい、他の人の立場で考えることが出来るように訓練する事で、周りに危害や迷惑を掛けることを回避していかなくてはいけない。それが社会っていうものだからなぁ。
それが「俺は汚い日本人と一緒じゃない」っていう意識なのか。
#残念ながら良心の呵責から逃れる事は出来なかったのかもしれないけれど

「闇の子供たち」が映し出した闇は、きっと私たちの心に巣くう闇だ。
それを指摘され否定できない私たちは暗い面持ちで映画館を後にするしかなかった。
私たちにできるのは、きっと自分の国の驕りに気づく事。そして、自分の中にある闇にも気づく事。
#言葉の上だけの表現じゃダメだよ。

こんなに難しい事を易々と気づかせてくれる映画。貴重だと思います。

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