尾木ママと大空小学校元校長の木村さんの対談本。
主に道徳の観点から。
道徳ねぇ。。。
儂的に思うのは、
押し付け道徳がダメだなんてもう大昔から言っている事なのに、未だにその呪縛から逃れられずに教科化とかまでされちゃうナゾ。
いい加減、子ども一人一人を大切にする教育を当たり前にしてほしいと思うわけですよ。
学校がなんでこうなのか?
結論的には教員の働き方とそれを強要している社会の問題、というか教育に金をかけろ、教員を増やせ、仕事の中身を吟味しろ、学校の在り方から見直せ、国民みんな教育に関心を持て!って事になるんだろうな、と思っている。
↑これ、一気に言っちゃったけれど、もちろん簡単じゃない事は百も承知よ。
当然ながら単に金を増やして教員の負担感を減らせば済むって話でもない。
本当は個々の先生はもちろん、学校現場も(そして保護者や地域も)もっと教育の事についてじっくり考えなくちゃいけないのに、現状はその余裕がないから、まずは考えることができるくらいの余裕は持てるようにしてくださいよ、話はそれからだっ!!!って、そう言いたいのだ。
話が大きすぎて眩暈がしそうなくらいなんだけれど、教育についての認識という前提から変えていかなくちゃいけないんじゃないのかな。
例えば、第一章で語られているように学校で使われている言葉、「当たり前」やら「普通」やら「〇〇運動」やら「見せる学校」やらが子どもたちを苦しめているという現実がある。
でも、コレをおかしいと思う事さえもおかしいと思っているようなのが今の日本の大多数なんじゃない?
こういうのは、みんな子どもたちの心を押し込めてしまう呪縛の言葉だ。みんなが良かれと思って使っている言葉なのにね。
いや、冷静に考えたらこの言葉のどこが子どもたちにとって良いのか?って思うよ。
子どものためのフリをしながら、実際には全部大人の都合に合わせた言葉やないかーい!
たとえば、
世の親に問うとしましょう。
「子どもにはのびのびと育って欲しいと思っていますか?」
ここでNOと答える親が一体どれだけいるでしょうか?
学校は子どものびのびとできる環境ですか?
答は否ではないですか?
大人の都合がいいように、子どもののびのびを抑え込むことばかりしているのが学校というやつですよ!(←ぱたくん調べ。学校によって多少の違いがあります、多分。。。)
でも、それにモノを言うべき保護者は無関心という鎧を武器に根拠のない「学校を信頼している」とか「学校がそんな事をするはずがない」という思い込みによって現実を見るという自分の責任を回避する術を発揮する事だけに汲々としているのだ。本来PTAとかが。。。
(以下、この話は長くなるので略)
道徳については、「正解がない」が正解でしょう?
それを学校でやる意義は正に「正解のない問いを問い続ける大切さ」にあると思っている。つまり、いろんな意見が出るにしてもそれが正しいとか間違っているという判断はできないし、みんなでたどり着ける結論(終わり)もないという事。便宜的に時間の制約は設けたとしても、議論や思考は永遠に続くという事だ。
最近流行りの哲学対話ってやつだよね。
これはね。
厳しいと思うよ、学校の先生には。
だって学校の勉強ってのはさ、特定の答えに辿り着く方法を教える事に慣れすぎてしまっていて、それに社会もそれを求めてしまっているのだもの。道徳はそれと全く相容れないのだ。残念だけど、先生の多くは正解を伝える事に慣れすぎて、答えを出さず尻切れトンボで終わる指導なんて耐えられないんじゃないのかな。そもそもそんな訓練してないし。
(だから、道徳を教科化する、っていった時に多くの人は反対したし今でも反対なのだよ。評価できないモノを評価する事になるし、指導できない人に指導させる事になるのだから)
先生が正解を持ってしまったら道徳は教えられない、という逆説。
映画「ブタがいた教室」の中で、先生はついに最後の最後まで自分の意見を言う事はなかった。すごいと思った。
教師の多くがあのプレッシャーに耐えられるとは思えない(それは先生だから、というよりは人として、って感じかな。でも逆にそのプレッシャーに耐えられてこそプロの教師なんだと思うね)。
だいたいにして、いじめをなくすために導入した道徳の教科化でいじめが増えるなんてナンセンスですやん。いじめ無くそうと本気で考えたら、道徳の教科化なんて悪手だと思うでしょうが?
でも勘違いしちゃいけないのは、だからと言って「道徳」が不要だと言っているわけじゃないんだよね。
考える事や話をする事でお互いを認め合う事、自尊心を高めたりとか正義や公正の価値とか、その徳目自体を否定する気はない(勿論多少の注釈をつける必要はあるかもだけど)。
じゃぁそれを学校現場でどう取り入れるかという実践の例が大空小学校の「全校道徳」だったりするわけで。あぁ、これやりたいなーってめっちゃ思う♪
全校道徳が本当にいいなと思うのは、そこに地域の大人たちも参加するところ。大人も参加するんだけれど、子どもも大人も対等なんだよね。そういう感覚がいい。
タイトルにもあるように、実は大事なのは学校を学校だけのものにしちゃいけない事だと思うのだ。
木村さんが言う「みんなでつくる、みんなの学校」。先生や子どもだけじゃなく、保護者も地域住民も主体的に自分たちで自分たちの学校を作る。学校ってのはそういう場所なんだ、っていう事。
それが「みんなでつくる、みんなの社会」に繋がると思っている。
オプティミスト、、、ですか?
主に道徳の観点から。
道徳ねぇ。。。
儂的に思うのは、
押し付け道徳がダメだなんてもう大昔から言っている事なのに、未だにその呪縛から逃れられずに教科化とかまでされちゃうナゾ。
いい加減、子ども一人一人を大切にする教育を当たり前にしてほしいと思うわけですよ。
学校がなんでこうなのか?
結論的には教員の働き方とそれを強要している社会の問題、というか教育に金をかけろ、教員を増やせ、仕事の中身を吟味しろ、学校の在り方から見直せ、国民みんな教育に関心を持て!って事になるんだろうな、と思っている。
↑これ、一気に言っちゃったけれど、もちろん簡単じゃない事は百も承知よ。
当然ながら単に金を増やして教員の負担感を減らせば済むって話でもない。
本当は個々の先生はもちろん、学校現場も(そして保護者や地域も)もっと教育の事についてじっくり考えなくちゃいけないのに、現状はその余裕がないから、まずは考えることができるくらいの余裕は持てるようにしてくださいよ、話はそれからだっ!!!って、そう言いたいのだ。
話が大きすぎて眩暈がしそうなくらいなんだけれど、教育についての認識という前提から変えていかなくちゃいけないんじゃないのかな。
例えば、第一章で語られているように学校で使われている言葉、「当たり前」やら「普通」やら「〇〇運動」やら「見せる学校」やらが子どもたちを苦しめているという現実がある。
でも、コレをおかしいと思う事さえもおかしいと思っているようなのが今の日本の大多数なんじゃない?
こういうのは、みんな子どもたちの心を押し込めてしまう呪縛の言葉だ。みんなが良かれと思って使っている言葉なのにね。
いや、冷静に考えたらこの言葉のどこが子どもたちにとって良いのか?って思うよ。
子どものためのフリをしながら、実際には全部大人の都合に合わせた言葉やないかーい!
たとえば、
世の親に問うとしましょう。
「子どもにはのびのびと育って欲しいと思っていますか?」
ここでNOと答える親が一体どれだけいるでしょうか?
学校は子どものびのびとできる環境ですか?
答は否ではないですか?
大人の都合がいいように、子どもののびのびを抑え込むことばかりしているのが学校というやつですよ!(←ぱたくん調べ。学校によって多少の違いがあります、多分。。。)
でも、それにモノを言うべき保護者は無関心という鎧を武器に根拠のない「学校を信頼している」とか「学校がそんな事をするはずがない」という思い込みによって現実を見るという自分の責任を回避する術を発揮する事だけに汲々としているのだ。本来PTAとかが。。。
(以下、この話は長くなるので略)
道徳については、「正解がない」が正解でしょう?
それを学校でやる意義は正に「正解のない問いを問い続ける大切さ」にあると思っている。つまり、いろんな意見が出るにしてもそれが正しいとか間違っているという判断はできないし、みんなでたどり着ける結論(終わり)もないという事。便宜的に時間の制約は設けたとしても、議論や思考は永遠に続くという事だ。
最近流行りの哲学対話ってやつだよね。
これはね。
厳しいと思うよ、学校の先生には。
だって学校の勉強ってのはさ、特定の答えに辿り着く方法を教える事に慣れすぎてしまっていて、それに社会もそれを求めてしまっているのだもの。道徳はそれと全く相容れないのだ。残念だけど、先生の多くは正解を伝える事に慣れすぎて、答えを出さず尻切れトンボで終わる指導なんて耐えられないんじゃないのかな。そもそもそんな訓練してないし。
(だから、道徳を教科化する、っていった時に多くの人は反対したし今でも反対なのだよ。評価できないモノを評価する事になるし、指導できない人に指導させる事になるのだから)
先生が正解を持ってしまったら道徳は教えられない、という逆説。
映画「ブタがいた教室」の中で、先生はついに最後の最後まで自分の意見を言う事はなかった。すごいと思った。
教師の多くがあのプレッシャーに耐えられるとは思えない(それは先生だから、というよりは人として、って感じかな。でも逆にそのプレッシャーに耐えられてこそプロの教師なんだと思うね)。
だいたいにして、いじめをなくすために導入した道徳の教科化でいじめが増えるなんてナンセンスですやん。いじめ無くそうと本気で考えたら、道徳の教科化なんて悪手だと思うでしょうが?
でも勘違いしちゃいけないのは、だからと言って「道徳」が不要だと言っているわけじゃないんだよね。
考える事や話をする事でお互いを認め合う事、自尊心を高めたりとか正義や公正の価値とか、その徳目自体を否定する気はない(勿論多少の注釈をつける必要はあるかもだけど)。
じゃぁそれを学校現場でどう取り入れるかという実践の例が大空小学校の「全校道徳」だったりするわけで。あぁ、これやりたいなーってめっちゃ思う♪
全校道徳が本当にいいなと思うのは、そこに地域の大人たちも参加するところ。大人も参加するんだけれど、子どもも大人も対等なんだよね。そういう感覚がいい。
タイトルにもあるように、実は大事なのは学校を学校だけのものにしちゃいけない事だと思うのだ。
木村さんが言う「みんなでつくる、みんなの学校」。先生や子どもだけじゃなく、保護者も地域住民も主体的に自分たちで自分たちの学校を作る。学校ってのはそういう場所なんだ、っていう事。
それが「みんなでつくる、みんなの社会」に繋がると思っている。
オプティミスト、、、ですか?
