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ぱたの関心空間

関心空間と徒然なるままに。

「『みんなの学校』から『みんなの社会』へ」(尾木直樹、木村泰子著)

2025-04-23 22:04:43 | 読後感想など
尾木ママと大空小学校元校長の木村さんの対談本。
主に道徳の観点から。

道徳ねぇ。。。
儂的に思うのは、
押し付け道徳がダメだなんてもう大昔から言っている事なのに、未だにその呪縛から逃れられずに教科化とかまでされちゃうナゾ。
いい加減、子ども一人一人を大切にする教育を当たり前にしてほしいと思うわけですよ。

学校がなんでこうなのか?
結論的には教員の働き方とそれを強要している社会の問題、というか教育に金をかけろ、教員を増やせ、仕事の中身を吟味しろ、学校の在り方から見直せ、国民みんな教育に関心を持て!って事になるんだろうな、と思っている。
↑これ、一気に言っちゃったけれど、もちろん簡単じゃない事は百も承知よ。

当然ながら単に金を増やして教員の負担感を減らせば済むって話でもない。
本当は個々の先生はもちろん、学校現場も(そして保護者や地域も)もっと教育の事についてじっくり考えなくちゃいけないのに、現状はその余裕がないから、まずは考えることができるくらいの余裕は持てるようにしてくださいよ、話はそれからだっ!!!って、そう言いたいのだ。

話が大きすぎて眩暈がしそうなくらいなんだけれど、教育についての認識という前提から変えていかなくちゃいけないんじゃないのかな。
例えば、第一章で語られているように学校で使われている言葉、「当たり前」やら「普通」やら「〇〇運動」やら「見せる学校」やらが子どもたちを苦しめているという現実がある。
でも、コレをおかしいと思う事さえもおかしいと思っているようなのが今の日本の大多数なんじゃない?
こういうのは、みんな子どもたちの心を押し込めてしまう呪縛の言葉だ。みんなが良かれと思って使っている言葉なのにね。
いや、冷静に考えたらこの言葉のどこが子どもたちにとって良いのか?って思うよ。
子どものためのフリをしながら、実際には全部大人の都合に合わせた言葉やないかーい!

たとえば、
世の親に問うとしましょう。
「子どもにはのびのびと育って欲しいと思っていますか?」
ここでNOと答える親が一体どれだけいるでしょうか?

学校は子どものびのびとできる環境ですか?
答は否ではないですか?
大人の都合がいいように、子どもののびのびを抑え込むことばかりしているのが学校というやつですよ!(←ぱたくん調べ。学校によって多少の違いがあります、多分。。。)

でも、それにモノを言うべき保護者は無関心という鎧を武器に根拠のない「学校を信頼している」とか「学校がそんな事をするはずがない」という思い込みによって現実を見るという自分の責任を回避する術を発揮する事だけに汲々としているのだ。本来PTAとかが。。。
(以下、この話は長くなるので略)

道徳については、「正解がない」が正解でしょう?
それを学校でやる意義は正に「正解のない問いを問い続ける大切さ」にあると思っている。つまり、いろんな意見が出るにしてもそれが正しいとか間違っているという判断はできないし、みんなでたどり着ける結論(終わり)もないという事。便宜的に時間の制約は設けたとしても、議論や思考は永遠に続くという事だ。
最近流行りの哲学対話ってやつだよね。

これはね。
厳しいと思うよ、学校の先生には。
だって学校の勉強ってのはさ、特定の答えに辿り着く方法を教える事に慣れすぎてしまっていて、それに社会もそれを求めてしまっているのだもの。道徳はそれと全く相容れないのだ。残念だけど、先生の多くは正解を伝える事に慣れすぎて、答えを出さず尻切れトンボで終わる指導なんて耐えられないんじゃないのかな。そもそもそんな訓練してないし。
(だから、道徳を教科化する、っていった時に多くの人は反対したし今でも反対なのだよ。評価できないモノを評価する事になるし、指導できない人に指導させる事になるのだから)

先生が正解を持ってしまったら道徳は教えられない、という逆説。
映画「ブタがいた教室」の中で、先生はついに最後の最後まで自分の意見を言う事はなかった。すごいと思った。
教師の多くがあのプレッシャーに耐えられるとは思えない(それは先生だから、というよりは人として、って感じかな。でも逆にそのプレッシャーに耐えられてこそプロの教師なんだと思うね)。

だいたいにして、いじめをなくすために導入した道徳の教科化でいじめが増えるなんてナンセンスですやん。いじめ無くそうと本気で考えたら、道徳の教科化なんて悪手だと思うでしょうが?

でも勘違いしちゃいけないのは、だからと言って「道徳」が不要だと言っているわけじゃないんだよね。
考える事や話をする事でお互いを認め合う事、自尊心を高めたりとか正義や公正の価値とか、その徳目自体を否定する気はない(勿論多少の注釈をつける必要はあるかもだけど)。
じゃぁそれを学校現場でどう取り入れるかという実践の例が大空小学校の「全校道徳」だったりするわけで。あぁ、これやりたいなーってめっちゃ思う♪

全校道徳が本当にいいなと思うのは、そこに地域の大人たちも参加するところ。大人も参加するんだけれど、子どもも大人も対等なんだよね。そういう感覚がいい。

タイトルにもあるように、実は大事なのは学校を学校だけのものにしちゃいけない事だと思うのだ。
木村さんが言う「みんなでつくる、みんなの学校」。先生や子どもだけじゃなく、保護者も地域住民も主体的に自分たちで自分たちの学校を作る。学校ってのはそういう場所なんだ、っていう事。

それが「みんなでつくる、みんなの社会」に繋がると思っている。

オプティミスト、、、ですか?


「学校の『当たり前』をやめた。-生徒も教師も変わる!公立名門中学校長の改革」(工藤勇一)

2025-04-13 11:35:19 | 読後感想など
こないだ苫野一徳さんとの共著も読んだけれど、こちらは工藤さんが麹町中学校で改革した事の具体的な話。

いやいやいや、こういうのしてほしい、こういうのしたいと思っているんだ儂。
強くそう思う。

子どもたちの主体性を認めた教育なんて、できたとしても私立の特別な学校に限られる、そんな思い込みがまだ多くの人にはあるだろうけれども、本気になればちゃんと公立でもできるんだよ、という事がここできちんと示されている事がありがたい。
麹町中学校だけが特別なんじゃない。「夢見る小学校」に出てきた桜丘中学校や伊那小学校、「みんなの学校」の大空小学校でだってちゃんと実践されているんだから。
何が特別かって言えばさ、本気の校長(教員)がいるかどうかってところだよね。そこにかかっているところが、全国の公立校で実現しない事の妨げになっているのだろうな。

(だからこそ逆に、先日報じられた麹町中学校の揺り戻しのニュースについての詳細が知りたいところ)

帯に書いてある、宿題をなくしたとか、クラス担任制をやめたとか、中間・期末テスト廃止っていったところがどうしても注目されがちだけど、それ以上に色んなことが考えられて実行されているし、そもそも実はそこは本質じゃない。いわゆる当たり前と思われている事の廃止は、単に目的のために必要じゃないからやめただけの話。
大事なのは上位目標を定めてぶれずに考える事。常に原則に立ち戻ってそこから考えるという事だ。
いや、実は当たり前すぎるくらい当たり前のことなんだけれど、いかに儂らの日常的な学校や教育の中でその当たり前をサボっていることか!

そう、ここでも繰り返し言っているのは上位目標から考えるということ。
上位目標の妨げになるのなら「当たり前」なんていうものに何の意味もないのだ。
当たり前という思い込みや、子どもたちのため、とは違う大人の都合に合わせた理屈で正当化される理不尽を指摘する。
子どもたちの成績は絶対評価なんだから、当然学年の全員が「5」だってありうる。でも、それを教育委員会は不適切だと言う。明らかにおかしいよね?高校受験の内申で差がつかないから、だなんて、そんな大人の都合になんで子どもの人生が理不尽に左右されなくちゃいけないのさ!
ウソ、誤魔化し、屁理屈、強要、押し付け。学校現場に溢れかえるこういった事象がおおよそ教育に相応しいものであると、一体誰が思うのだろう?

工藤さんは
「学校が変われば、社会は必ず変わる」
と説く。

大袈裟に聞こえるかもしれないけれど、儂もそう思っている。
儂が教育にこだわっているのは、子どもたち自身のためでもあるけれど、今のこの社会のどうしようもない閉塞感を打ち壊すためにはもう教育を変えるしかない、と思っているからだ。
身も蓋もない言い方をあえてするならば、今の大人たち(工藤さんの言葉を借りれば自分の頭で考えずに何でも人のせいにする大人たち)にはもう期待できない。でも、今の教育のままではまた同じ「何でも人のせいにする大人」を再生産してしまうから、だから教育を(学校を)変えなくちゃいけない、ということを痛切に感じているのだ。

ぶっちゃけ、これ以上待ったなしの話はないと思っている。

でも、儂が教育の話をしたりする時には同じような壁にいつもぶつかる。
子供たちのためにどうするのがいいのか?基本的な考え方のゴールはそこにあるのだけれど、どうにもまず「何かを変えること」への抵抗がとにかく出てくる。こないだ教育委員会に要望書を出した時だって理屈にならない理屈でとにかく受け取りたくないオーラ全開だった。(去年議会で問題を指摘してもらったから、一年前のように「受け取れません」とは言わなかったけれど)
何でだろう?なんでよくして欲しいという意見を聞いてもらえないの?そこから先の話ができないの?という疑問をいつも持ってしまうが、そうだあれって、結局自分達の都合(余計な仕事はしたくないという気持ち?)を優先しているんだろうな、という結論に落ち着く。
仕事しろよ!コームイン!

優先順位は
1、子ども
2、保護者
3、区民
4、学校教職員
5、教育委員会
だったという工藤さんを見習え!
あんたら、自分たちが優先順位一番やないかーい!

帯には書いていない麹町中学校の取り組みで儂の意を得たりと一番思ったのはノートの取り方と手帳の付け方を教えている、という事。特にノートの使い方。
本当にひどいと思うのは学校っていうのは勉強させるところだと思われているのに、勉強の仕方を教えてくれないということなのだ。いや、勉強という言葉はここから学習という言葉に置き換えようかな。(勉強は「勉めて強いる」強制的に押し付けてくるものだからね)
学習とは本来自発的な行為であって、自分の中で学んでいかなくてはいけない。とは言っても、じゃぁどうすれば自分で学んでいけばいいのか?なんのレクチャーもなく、学校の授業は始まってしまう。先生が授業を主導し、黒板に板書しはじめる、子どもたちは教科書とノートを用意するから必然的に黒板の文字をノートに書く。誰も何も言わなければそうなる。必然授業は一方通行になり、やったことを暗記するのが教育であるかと勘違いしたまま成長する。
違うよね?
学習というのは常に自分の中で展開していくものだ。そのための強力なツールとなるのが自分で作り上げることができるノートなのだと思っている。だから、学校に入った最初にヒントとしてノートの使い方をレクチャーするのは絶対に必要だと思っていた。

麹町中学。。。やってるやん!
しかも、それを入学して間も無く二泊三日のオリエンテーション合宿があってそこでやっているだとー!!!
しかも、その場ではKJ法やマインドマップとかを使う実践もしているだとー!!!
しかも、そこでは信頼の醸成やグループでの対話コミュニケーションで合意形成を図る過程を学ぶだとー!!!
まじかー!!!

宿泊学習の意義な。
特にさ、修学旅行って何の意味があるの?とか思うわけさ。
遊びに行くだけじゃん。娯楽ちゃうの?しかも昔大流行りだったスキー修学旅行とか、全く意味がわからん、とか思っていた儂。
子どもの村学園がやっていたように、旅行の計画から手配まで全部自分たちでやる、とかならまだ意義があると思っていたけれど。。。
取材旅行という位置付けでやる修学旅行というのは。。。ちょっと思い付かないアイディアでした。
何にしろ、せっかくの学校を離れて泊まりで行く機会を無下に観光旅行で終わらせるのは勿体無いと思うよね。

あと、もう一つ、
あまり意味ないんじゃね?と儂が思い続けている職場体験。
やらないのとやるのではやったほうが経験としては意味があるんだろうけれど、そのための準備や労力と、それによって得られる成果と、一体どれだけのコストパフォーマンスが上がるというのか?超疑問です。
が、
「クエストエデュケーション」?
初めて聞きましたよ。
これ、超絶いいな!!!
絶対に面白いと思う。

麹中アフタースクールの取り組みも、学校が地域のHUBになるのがいいと思っている儂的にはええ感じの仕組み。

儂はかつてはPTAでそれを実現できないかと考えてPTA役員やっていて(まぁ校長と教頭のパワハラで挫折したわけだけれど)今は学校運営協議会(いわゆるコミュニティースクール)と地域学校協働活動を活性化させて、保護者に加えて地域の人たちも有機的に学校につながる形を夢想しているわけだ。
必要なのは地域の人たちと保護者の主体性であると思っている。
イメージとして学校の主役は?と考えた時に、もちろん最初に子どもなんだけど、次に教師だと思っちゃう人多くない?でも、教師はその時にいる子どもたちに対しての責任感は持っていても、赴任している学校に対しての帰属意識(というか、愛着のようなもの)は意外と持っていないよ。いつか転任するんだもの、当然といえば当然。実際儂に「ここは私たち(教員)の学校じゃないから。そのうちいなくなるわけだし」と言った先生いるけど、実感だと思う。
じゃぁ、学校は誰のもの?ってなったら、その学校にずーっとい続けられる可能性があるのはその地域の人しかいないの。あぁ、そうか、学校は地域の人たちのものなのだ。だって、地域の子どもたちが通う学校なのだから当然だよね、と合点がいった。

ところが、その保護者を含めた地域の多くの人にそんな意識はほとんどない。
コレは、本気でマズイ事だと思っている。
だからコミュニティースクールなのだ。
多分、工藤さんもそこらへんの事はわかっていると思う。

前に読んだ苫野一徳さんとの共著「子どもたちに民主主義を教えよう」では序文から
「学校は民主主義の土台を作る場」
とあった。
この本では最後の最後にやっぱり
「真の民主主義社会を創る」
ときた。
マジそれ。
儂らはまだ真の民主主義を諦めない。

一方で麹町中学校が掲げた最上位目標は
「すべての子どもたちが『世の中ってまんざらでもない! 大人って結構素敵だ!』と思える学校」
だってさ!ええやん!
その最上位目標自体が素敵すぎるわ!

儂も素敵ステキsteakゆーてるばかりじゃ何も変えられない。
「変革を阻んでいるのは『人』」
まずはそこだよね。本当にそう思う。
人が持っている、こうじゃなきゃいけない、なんて思い込みを全部取っ払わないといけない。まぁのっけからあるその壁がいきなり超絶分厚いわけだけれど。。。

前途多難だけど。。。やっぱり諦めるわけにはいかん。


「日本辺境論」(内田樹著)

2025-03-30 17:35:25 | 読後感想など
なんとも身も蓋も無い。
日本人は辺境人である事から逃れられないと!?
それは儂らの思考自体を規定してしまっているのだと!?

ショックであると同時に今まで日本人について感じてた大きな謎が氷解してゆく。
あぁ、あの謎の答えはこれだったのか、と。

実感としてとてもよくわかる。
いつもキョロキョロして自分が自分であることに自信がもてない日本人。
それがナショナルアイデンティティであると!?
いや、実のところそうなんだ。決定の価値基準が自分の中になくって、外のどこかにある(と思い込んでいる)それをいつも気にして忖度して判断しようとしている感じがするのだ。

なんだろう、これは悪夢かしらん?

いつだって違和感があった。
外国ではこうだ(なのに日本はまだだ)、外国と違って日本はこうだ(だからすごい)という語りの多さ。
もちろん、比較されるべき事はあるし、それによって正されることもあると思う。でも、その語り方が地に足がついていない感じがしたりして、何だか素直に聞けない気がするのだ。

正しいもの、というか権威や権力主導権を持つもの、というのは常に外側にありそれを感じ取って早々に恭順するのが賢いのだ、という感覚。そこには残念乍ら主体性がないんだよね。

「長い物には巻かれろ」という言葉もある。「勝ち馬に乗る」という言葉もある。
そこに自分はいない。

「親しさへの固執」と話もあったけれど、これもそう。
相手の意見が違ってたり間違っていたりしていても、異議を唱えたり反論したりすればそれは親しさの否定になる。従順に従う事は親しさの表明であると。そこにもやはり主体性はない。
敵?意見の合わない人という烙印を押されて排除される事を安易に想像し、それを回避することを優先するという感覚。っていうか、ここもそういう空気感が支配的になる日本人特有の感覚ということか。また出たな、山本七平の言う「空気」の問題だ。

もちろん自覚的にそれが使えるならば、それは戦略的に功を奏する場合もある事についても、内田さんの指摘には頷ける。
個人的に思い出すのはThe Boom の「ひのもとのうた」だな
♪ひのもと喧嘩は弱いけど、負けりゃひとまず土下座する、40年後に舌を出し、ちゃっかり主人を噛み殺す
まぁ、今となっては妥当だとは言えない気がするけれど、そういう感覚が儂ら日本人の一部にないわけではないだろう。

あと、外交交渉の中では有効なこともわかる。主張がぶつかって打開出来ない事が予想できることについてはとりあえずすっとぼけて先延ばしとかね。一緒くたにはできないけれど尖閣の事とか核持ち込みの事なんて、そういう事でしょう?逆にすっとぼける為に無理矢理理屈をこねくり出して変になるなんて事もある。自衛隊の違憲合法論なんてのはそうだよね。
儂的には狡知にたけた戦略を求められる外交でのそれは有効だと思うけれど、内政的には不誠実だと映ってしまうな。高度に政治的な問題だと言うのか?

きっと儂らはもっと賢くならなくちゃいけないんだけれど、悔しいけれど頷いてしまうのは次の指摘だ
「人々が無知であるのは、自ら進んで情報に耳を塞ぎ、無知のままでいることを欲望する場合だけ」
儂はこう言い換える。
無知であるという事を言い訳にして、責任ある行動をしなかった事を免責してもらう為に進んで無知でいようとしている。
自覚的にそれをしている人は少ないかもしれないけれど、感覚的にその選択をしている気がする。
例えば戦争への責任なんてそんなものだろう。国民は何も知らずに戦争に加担させられていたのだ、なんて言説が説得力を持っていた時代は実際に長かったではないか。

儂らは何もわかっていないのに、自明であるという根拠のなさだけを根拠にすることができてしまうのだ。国旗国歌がなぜそれなのか?何のためにそれなのか?何が望ましいのか?問う事はない。。。あ、確かにそうかも。
儂自身は日の丸でも君が代でもいいと思っている(まぁ、君が代は代えても良いと思っているけれど)、でも、その表象の象徴性を説明しろと言われると。。。困るな。儂が主張できる事は、それが国民全員にコンセンサスを取ったものではないから強制するな、という事だけだ。

その根拠というものに無自覚な儂らは、根拠をもとにした議論はできない。当然だよね。よく言われる事だけれど、明確な歴史認識を持てない日本人は、やはりきちんとした歴史教育によって認識を持った人と同じ土俵では話ができないのだ。

後半には学びについての論考。
内田樹さんは
「私たちはこれから学ぶことの意味や有用性を、学び始める時点で言い表すことができない」(中略)「その『まだ知らない』」ということがそれを学ばなければならない当の理由」
と言う。
これね。
今でこそわかるけれど、これを理解してもらうのはなかなか難しいだろうな。

こうこうこういう有用性があるのだ、だから勉強するのだ。
学ぶことにはこういう意味があるのだ、だから勉強するのだ。
儂らはそう言いがちで、そう言わないと勉強させることができないと思っている。
まぁ、実際に勉強させる、となったらそうなのだろう。
本質的に「させる」と言ってしまう時点で学ぶという事とは違う事象なのかもしれない。
でも、その違いさえも多くの人は認識していない。

儂がいつも感じるのは不確実性だ。
何かのためにする、と言って目的のためにやって、思った通りにできる人など一体どれだけいるのだろう?人生など万事塞翁が馬。少なくとも儂の人生で思う通りになったことなどほとんどないのだけれど。もちろん人によって程度は違うだろうが、予定通りにならないのが人生なんじゃないの?そんな中で学ぶことの意義や有用性を決めつけて縛るなどナンセンスでしかない。

それでも何のために学ぶのか?と問うのならば可能性を広げるため、と答えればいいんじゃないないかな?そう考えると逆に可能性を狭めようとしている今の日本の教育を否定することにもなるんだけどね。まぁ、それさえも、内田樹さんは否定するだろうか?

学びの話で驚くのはこの件だ
学びの「コンテンツが『ゼロ』でも」「受信側の読み込みさえあれば、学びは起動する」と。
これはスゴイよね。
装置としての学びの仕組みはあって良いけれど、そこ自体に意味があるんじゃなくて学ぶ側の姿勢が全てを決めてしまう、みたいな話。

教育の現場のジレンマとしていくらコンテンツが充実しても、学ぶ側に学ぶ気がなければ有効なものにはならない、みたいなのはある。子どもたちの学ぶ意欲は教師の努力に呼応しないって話に取られちゃうかもしれないな。
もちろん、提供されるコンテンツが面白ければ子どもたちの学ぶ意欲を引き出す可能性も高まるわけで、そういう意味では教師の専門職として腕を見せる余地はあるので先生をクサすものではないですのよ。

そもそも、学校というものは何を目的としているのか?という問いに儂ら日本人が全員で取り組まないといけないところだろう。

並行して読んでいた工藤勇一さんの本の内容と相まって、そんな事を考えちゃうね。


「日本を変える『知』~『21世紀の教養』を身に付ける~」(飯田泰之、鈴木謙介、橋本努、本田由紀、吉田徹 著、芹沢一也、荻上チキ 編)

2025-03-15 06:56:08 | 読後感想など
どあー、難しい。

SYNODOSというコンテンツがある。
https://synodos.jp
この本はそこであったセミナーを再録加筆したもの。
芹沢さんの前書きによると
「現在もっとも必要な五つのジャンル、経済、政治、教育、社会、思想をセレクトした」との事。



ふむ。
まぁ、正直に言って儂の苦手な経済の話が最初で、いきなりチンプンカンプンですよ(苦笑)。

とは言ってもチンプンカンプンはチンプンカンプンなりに、儂の(儂らの)日常的な理解はどうやら間違っている(間違っていないにしても少なくともそれで済む話ではない)事はよくわかる。どうにもここにも大きく深い思考が必要で、それをもってしてようやく何かの理屈の一つがわかるのであろう、と。
あぁ、深いよ、この森は深すぎるー!と足を一本踏み出しただけなのに突然迷い始める儂(笑)。

でも、何が驚くって、指摘される問題点やその所在はとてもよくわかって、本当に15年前の本なの?と思うわけですわ。

そう。
初版が2009年。
この本を読んで全然今でも通じるという事は、15年間この国は何一つ変わっていない(おそらく悪化はしている)という事なんじゃね?
そう考えたらなんと情けない事か。
(その前に、知力と理解力のない己を恥じろ!ええ、ごもっとも)

難しいと言う以前に儂が議論の入り口にも立てていない事がわかるのは、たとえばど頭からこう言うわけですよ。
「経済学とは問題解決の手段だ」
と。
そんな事考えた事もなかった。
でも、どうやらそう考えた事がないのは儂だけではないらしい。なるほど、そう考えるだけでもう経済学への見方が変わりそうだ。

経済学といえば、社会科学の中でも最も論理的に時には数学的に、決まった答えの出る揺るぎのない分野だと大学時代には思っていた。
とは言っても今思い返してみれば、先生によって言うことが違ったり同じ経済学でもミクロとマクロでは内容が全然違うだとか、どうも色々あるらしいぞ、ってのは薄々感じていた。まぁ、大学出てからン十年、理屈だけでわかるような単純な社会じゃない事も身をもって知っている。

見方が変わるというのは本当に大事なことだ。
人口に膾炙した話だけれどそもそも経済とは経世済民(民を救うために世の中をよく治める)の事である(←最近某自民党のポスターにコレが書いてあってモヤモヤするけれど)とか知ってれば、金の事ばっかじゃねぇってのもわかるし、だからそれが問題解決の手段だってのも頷けるところ。

驚いたのはこのくだり。
「『人類の幸せは自身の幸福でもある。だから人類みんなに幸せになってほしい』という人がいたとしましょう。経済学者はその人のことを利己的だと言います」
それ、儂!
半分はネタみたいに言ってた事だけど、「人類みんなが幸せにならないと自分はイヤだ。自分がイヤじゃないようにするために世界平和を願っている儂は自己中だ」と。まさかそれがこんなところで肯定されるとは!
なんだってそうなんだろうけれど、突き詰めて考えていけば経済学への誤解だって晴れるかもしれない。

政治学だってそうだ。

いや、そもそも政治学ってなんだ!?
(そこからか!!!)

経済はなんかまだイメージができる。お金にまつわるエトセトラ?(まぁ、厳密にいえばそうじゃない、ってのは今学んだばかりの筈なのですが。。。)
政治を学問するとは?政治家がやっている事を云々カンヌンか?
まぁそれも長い目で見れば間違ってはいないのだろうけれど、どうにもニュース報道的なイメージになりがちだった儂はおおいに恥じるわけさ。

政治工学的に何がどうなのだという話も、ちゃんと勉強してみたら面白いのかもしれない。
でも儂が興味があるのはやっぱりその議論(討議or闘技)の形だな。まず、この議論の場に人々を招き出すにはどうしたら良いのだろう?ということを考えてしまう。
討議にしろ闘技にしろ、儂らの多くはその入り口にも立てていないのだから。

本田由紀さんの項はデータが色々出て来ておもしろい。母の学歴の違いによる意識の差なんて、さらに進んでいる現状を知っている。
「ヴォイス」と「エグジット」の話など、儂がPTAの事考える時に常に前に立ちはだかる問題だ。中で「ヴォイス」し続ける事のしんどさは身に染みている。だから儂は安易に「ヴォイス」しろ、とはやはり言えない。
儂もまた結果的には「エグジット」したわけだから。

最後の項も然り。
儂、ネオリベの事なんかこれっぽっちもわかってなかった。。。

いちいち難しいのだけれど深めていけば面白い世界なのだろう。
うむ、勉強しなくちゃだわ。。。

「子どもたちに民主主義を教えよう-対立から合意を導く力を育む」(苫野一徳、工藤勇一著)

2025-01-29 02:14:28 | 読後感想など
「みんなこの本読め。先生はみんな読め。保護者もみんな読め。子どもたちも読んだらいい。とにかく教育に関わる人はみんな読め!」
読み終わった直後にツイッターにこう書き込んだ。
なぜなら、この本を読めば教育についての意識を根底から覆せる。
と、
声を大にして言いたいところ。

根底から覆すとは言っても決してラジカルなわけではなく、理論的に冷静に客観的にそれを掘り起こす。
間違いなく、教育の根本を問う書。

ではあるのだけれど、、、、
間違いなく実践書でもあるのだな。
苫野さんのあとがきの言葉を借りれば、実証部門〜実践部門の本か。
実現する為に何が必要か、何に注意すべきか、目指すところはどう設定するか、話の仕方、ヒントだらけじゃん!
そして、その実践の過程そのものが民主主義のあり方であって、教育というのはそれをする営みであり、それを身につけさせるのが教育の役割である、とも言えるわけでしょう?

儂ももう、ずーっと民主主義の事を考えている。
PTAの事をあれやこれや考えていた、たどり着いた先は民主主義だ。
地域の活性化の話とかもしていたけれど、それはまんま民主主義。
今、市の水道行政について市に向かってやいのやいの言っているけれど、水道の事だって行き着く先は民主主義なんだ。
大事な事は常に民主主義の先にあると思っている。なんでその感覚が共有できないのだろう?と

そんな儂に序文の1ページ目から
「学校は民主主義の土台を作る場」と。
儂、泣いちゃいそうだよ。(/ _ ; )

でも実際の教育現場はどうだ?未だに全体主義に支配されている。
ウチの子が学校からもらってくるプリント見たってそうだ「みんなで」「一致団結」「同じ目標に」etc.cte….。 当たり前に書いてある。
美辞麗句、では済まない。これが正しいと言わんばかりに一方的に押し付けられるそれる。多様性どこ行った?



帯には「多数決の問題点、わかりますか」と。
そう、未だに「民主主義なんだから多数決で決めるんでしょ」とか素で言う人だらけなのだ。でも多数決は民主主義なんかじゃない。工藤さんが言う「ただのファシズムです」。
マジそれ。

また、帯には「待望の1冊」「必読の書」ってある。ただの売り文句じゃない。
マジそれ。

苫野さんは熊本大学の教育学、哲学の先生。
この人の授業を受けてみたい、とぱたくんが今一番思っている人。
工藤さんは公立の麹町中学校で宿題や定期テストやめたり制服見直したりして有名になった先生。
その過程の実践はやっぱり参考になる。

ポイントの一つは、苫野さんの本で出てきた、哲学的に考える時に大事だという本質観取。最初読んだ時は難しいと思ったけれど(まず、その単語が難しいよね(笑))、実践に即して考えれば当たり前のことなんだよなぁ。腑に落ちる。
本質は何か?
最上位目標は何か?
ファーストプライオリティは何か?
一番大事なこと、揺るがせにできないことを対話の中から確認していく。
初心に帰る、みたいな言い方もあるかな。

情けないかな儂らはどうしてもすぐに答えを求めてしまう。
話をするなんてめんどくさい、答えは何?教えてくれたらいいよ、と。
答えの文字面を見て、わかったように思っちゃうけれどそれは本当に納得して理解しているのか?
そこにすっぽり抜けている過程。本当はそこの方が大事だったりするんだよね。

儂も結構長いこと塾講師をしていた。
子どもたちの多くは(いや、大人もそうなんだけどね)とにかく正解して丸がつけばいいと思っている。
極端な話、「1」って書いて間違ってても次に「2」って書いて丸がもらえればそれで満足してしまったりする。
大事なのはなぜ1ではなくて2なのか?どうして2という答えが出るのか?その過程がわからなくちゃ全く意味がないのに、多くの子どもたちは「これ間違ってるの?じゃ、答えは何?」と答えだけ聞いてくる。
そこで答えを教えないのが先生の腕の見せ所だよね(笑)

工藤さんの改革で世間から注目されがちなのは、その結果の部分だ。宿題廃止、定期テスト廃止、固定担任制廃止、制服強制廃止とかね。
ところが、本当に注目して欲しいのはその過程なのだ。そういった改革は別に校長がトップダウンで押し付けたわけではないって事。当事者である先生、生徒、保護者が対話を重ね合意形成するというプロセスの結果でしかあり得ない。その時間をかけた合意形成のプロセスこそが民主主義であり、それを日常的に学べるのが学校だ、という話。

最近ニュースであった麹町中学校の改革の揺り戻し。あの揺り戻しの理由にはその過程の重要性の意味がすっぽり抜け落ちていると思った(いや、本当のところはどうなんか知らんけど)。

もちろん簡単な話じゃないよ。面倒くさいんだよ民主主義ってのは。時間もかかるしいろんな能力も必要だしめちゃめちゃ考えなあかんし。
でも、そもそも生きていく、って事自体が簡単な事じゃないじゃない?おんなじやんか。
だいたいにしてさ、学校っていうのは生きていくスキルを学ぶ場所なんだ。民主主義ってのがまさに生きる儂らの時代のスキルだって事。
今までの学校はそれをちゃんと学べなかったから、だから今の日本社会がこんなにガタガタなんじゃないか!(え、言い過ぎですか?)

ま、でもそもそも簡単なんだったら学校なんかいらないよね(笑)。

この本がスバラシイのは、その簡単じゃない事をじゃぁどうやったらできるのか?って事を具体的に教えてくれているところ。

内容は1章から3章までの3部構成になっていて、1章で概要、2章で具体的な課題の提示、3章で課題解決のための過程についての説明、みたいな感じ。
もう、もろ実践書。わかりやすい。

学校教育の課題について挙げている第2章の部分なんかもう頷きまくりながら読む。
いろいろと目から鱗。長くなるからもうここには書かないけれど。
なんかね、教育の問題と云いながら日本人のメンタリティへのダメ出しをされているってのもあるな。権威主義とか空気に流されるとか周りの目を気にするとか。もう全部うっちゃりたいよ、儂は。何一つ子どもたちの未来のためにならん。いい加減に気づけ、大人よ。

「学校改革ってできるんだよ」
工藤さんが1人でも多くの人に知ってほしい事、だという。

そうそう、そうなんだよ。
学校改革だけじゃない。
PTAって改革ってできるんだよ。行政って変えられるんだよ。政治って変えられるんだよ。社会って変えられるんだよ。
なんだか知らんけどみんな思っている、学校を変えるなんて無理、PTA変えるなんて無理、行政を政治を社会を変えるなんて無理。
なんや?その呪縛は。なんや?その根拠のない思い込みは。なんや?その自分で自分を諦めさせる言葉は。
みんな解放されればいいのにさ。
無理なものにしているのはその無理だという思い込みなのに。

色んな場面でこの本のアイディアは使える気がする。
汎用性高いじゃろ?
もちろん、まず広く全国の教育現場で実践されて欲しいところ。
麹町中学校の揺り戻しのニュースでもわかるように、改革するのもなかなか大変だけれど、それを持続させるのもまた大変だ。だって、そもそもこの日本社会に民主主義はまだまだ浸透していないのだもの。残念乍ら。

もう儂がPTA役員やる前に読んでたらもうちょっと上手いことできたんちゃうかな?
どうやろ?わからんけど。
少なくとも、PTA の改革の道筋を暗中模索、1人で考えながら試行錯誤していたあの時間の幾分かは省略できた筈、間違いなく。

色々考えようとしている、考えなくちゃいけない多くの人の指針になると思います。