暖かいとかいうのではなく、寒くはないかどうか、という分かれ目。
ちっとも暖かくはない。これは朝の気温からわかる。少しは春らしいというものが気温からは、感じられない。風はというと、おさまった。おさまったが、多少の風も必要、これで、散歩の必要十分条件のどちらも満たされないまま、このままだと、眠りこける感じもあって、出かけた。
重いものはもう止めて、軽いほうのどっちだという感じだが、何も悩むこともない。時間はあるようでない。でも時間の使い方は変わらないだろうな。時間を気にしない時代があった。もっとも有効に時間が使えた時代。もう過ぎ去って、久しい。これはしかし考えると、貴重でありがたかった。独りよがりでも何でもよく、しかし今は自分もその時代には戻れない。
風が少しあって、木々が、また細めの植物はよく揺れる。一昨日もそうゆう時間があったが、このときはどうだったか、今それが思い出せない、暖かではあったが。でも、その時間というのも、歩いているとよみがえってくる。
田舎というと、変わらないというイメージだが、どうだろうか。大いに変わったところがあって、昔と変わらないところがある。道の広さは変わった。信号が付いた。その程度だろうか、建物もずいぶんと変わって、これは都会で言うと少しだけ時間のたち方が遅いだけでもあって、それと大して変わらないのではと思う。
しかし、ここの昔のことも、ものすごく断片的だし、また都会というものも、まったくの空想ではないが、TVで見るくらいだから、その乖離は大きいだろう。きっと今頃都会に行ってみると大いに驚く。で、都会から田舎に来ると、さほど感じるものはないのではないか。いってみれば少し昔の都会がある。時間差のある、それ以外は変わらない、と思われる風景が少なくとも、今頃の田舎にはある。
散歩の話しだった。かったるいが、この感じはしかし予想していない。どうしたのかわからないが、ここは歩くしかなかった。カメさんも電池が切れそうで、それでよかった。あまりに長居も出来ないな、カメさんしだいでさっさと歩いて帰ったほうがいい。調子というと、大体よくないが、それにもましてよくないような、どうにもならない感じがある。いつどうなるか、わかったものではない。
いつもの道である。ときどき、ここの花はと、公園であったり、道端に出ている、置かれている、花を見る。ときに、看板も見る。新しい家が建つときもあれば、その反対もあるのは想像に難くない。悲喜こもごもだが、そのことと自分とは直接には関係ない。あまりにいろいろ考えないほうがいい。
一昨日と変わらない道を歩いていて、変化は少しだけ。暖かかったというのと寒かったというのを足せば、これは結果は、変化はなしにつながりそうで、そのとおりの結果があった。もう少し、遠回りもしたかったが、元気が出ないこともあるから、やはりこの辺りというところを歩いた。それでよかったと思う。
途中でやはりカメさんの電池はなくなった。バッテリ、充電池の持ちようはメーカによってもまた機種によっても違うが、もうないですよ、というサインが出ても、100とか200枚はいけるものもある。大体、液晶を見る時間、光る時間を最小にしている。これで見るとどんなものもきれいに見えるので、使うことは少ない。この電池も完全に使い切った記憶がないでの、まだまだ大丈夫だと思った。切れてしばらくすればまた使える。
しかし、ついに何も出来なくなる状態になってしまったので、もうカバンにカメさんもしまって、後は歩くのと目を大きく開いて帰ってきた。そうゆうときにこそ、何か新しいものが見えるものだが、そのとおりだった。ばっちりだなー。こうすれば、こうゆう機会を作ればもっと何かに出会えそう。そうゆう教訓は成り立ちそうにないが、ただ無心で歩いていたり、単純にあちこちを気楽に見るという歩き方は、もしかしたら新しいものの発見の近道かも知れない。似たようなものもありそうだが、そう思うのも一理あるかな。
梅がこんなたくさん咲いたときは初めて見る、そう思ったものの、影。梅の影か、影の梅。
上のものとこれで、大体一枚の構図になる。今日も見てきたが、花もかなり散っていた。
照れ屋さんか、人見知りか。気が付かなかった、匂いはというと、しそうな感じがある。
知っているただ一つのサンシュユ。これに出会うことのむつかしさ。
すっかり、咲きあがったチューリップ。ここ以外に知らない。
チューリップ公園というのもあるが、そこでは早く咲きすぎると困るから、「カンレイシャ」とかもかけて、その他チューリップの開花をいかに遅らせるかに苦労されているようだ。まだ、3月、でも、咲いていた。
ちっとも暖かくはない。これは朝の気温からわかる。少しは春らしいというものが気温からは、感じられない。風はというと、おさまった。おさまったが、多少の風も必要、これで、散歩の必要十分条件のどちらも満たされないまま、このままだと、眠りこける感じもあって、出かけた。
重いものはもう止めて、軽いほうのどっちだという感じだが、何も悩むこともない。時間はあるようでない。でも時間の使い方は変わらないだろうな。時間を気にしない時代があった。もっとも有効に時間が使えた時代。もう過ぎ去って、久しい。これはしかし考えると、貴重でありがたかった。独りよがりでも何でもよく、しかし今は自分もその時代には戻れない。
風が少しあって、木々が、また細めの植物はよく揺れる。一昨日もそうゆう時間があったが、このときはどうだったか、今それが思い出せない、暖かではあったが。でも、その時間というのも、歩いているとよみがえってくる。
田舎というと、変わらないというイメージだが、どうだろうか。大いに変わったところがあって、昔と変わらないところがある。道の広さは変わった。信号が付いた。その程度だろうか、建物もずいぶんと変わって、これは都会で言うと少しだけ時間のたち方が遅いだけでもあって、それと大して変わらないのではと思う。
しかし、ここの昔のことも、ものすごく断片的だし、また都会というものも、まったくの空想ではないが、TVで見るくらいだから、その乖離は大きいだろう。きっと今頃都会に行ってみると大いに驚く。で、都会から田舎に来ると、さほど感じるものはないのではないか。いってみれば少し昔の都会がある。時間差のある、それ以外は変わらない、と思われる風景が少なくとも、今頃の田舎にはある。
散歩の話しだった。かったるいが、この感じはしかし予想していない。どうしたのかわからないが、ここは歩くしかなかった。カメさんも電池が切れそうで、それでよかった。あまりに長居も出来ないな、カメさんしだいでさっさと歩いて帰ったほうがいい。調子というと、大体よくないが、それにもましてよくないような、どうにもならない感じがある。いつどうなるか、わかったものではない。
いつもの道である。ときどき、ここの花はと、公園であったり、道端に出ている、置かれている、花を見る。ときに、看板も見る。新しい家が建つときもあれば、その反対もあるのは想像に難くない。悲喜こもごもだが、そのことと自分とは直接には関係ない。あまりにいろいろ考えないほうがいい。
一昨日と変わらない道を歩いていて、変化は少しだけ。暖かかったというのと寒かったというのを足せば、これは結果は、変化はなしにつながりそうで、そのとおりの結果があった。もう少し、遠回りもしたかったが、元気が出ないこともあるから、やはりこの辺りというところを歩いた。それでよかったと思う。
途中でやはりカメさんの電池はなくなった。バッテリ、充電池の持ちようはメーカによってもまた機種によっても違うが、もうないですよ、というサインが出ても、100とか200枚はいけるものもある。大体、液晶を見る時間、光る時間を最小にしている。これで見るとどんなものもきれいに見えるので、使うことは少ない。この電池も完全に使い切った記憶がないでの、まだまだ大丈夫だと思った。切れてしばらくすればまた使える。
しかし、ついに何も出来なくなる状態になってしまったので、もうカバンにカメさんもしまって、後は歩くのと目を大きく開いて帰ってきた。そうゆうときにこそ、何か新しいものが見えるものだが、そのとおりだった。ばっちりだなー。こうすれば、こうゆう機会を作ればもっと何かに出会えそう。そうゆう教訓は成り立ちそうにないが、ただ無心で歩いていたり、単純にあちこちを気楽に見るという歩き方は、もしかしたら新しいものの発見の近道かも知れない。似たようなものもありそうだが、そう思うのも一理あるかな。
梅がこんなたくさん咲いたときは初めて見る、そう思ったものの、影。梅の影か、影の梅。
上のものとこれで、大体一枚の構図になる。今日も見てきたが、花もかなり散っていた。
照れ屋さんか、人見知りか。気が付かなかった、匂いはというと、しそうな感じがある。
知っているただ一つのサンシュユ。これに出会うことのむつかしさ。
すっかり、咲きあがったチューリップ。ここ以外に知らない。
チューリップ公園というのもあるが、そこでは早く咲きすぎると困るから、「カンレイシャ」とかもかけて、その他チューリップの開花をいかに遅らせるかに苦労されているようだ。まだ、3月、でも、咲いていた。
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