光年・千年

纏わりつくが、纏まらないおはなし、日記ふう。

シトシト雨のあとの散歩道

2008-03-29 18:56:32 | 散策
  この2、3日、夜に雨が降り出して、お昼ころから、その雨も上がるという、いいような悪いような、そうゆうお天気が続いている。桜が、満開である。それで、早くもお花見。早くもではなく、ちょうどいいお花見になったようで、ここには人はたくさんおられたが、まだ、お昼の清楚感があったようだ。この時間から宴会を始めるのは、もしかしたら正しい、あるいは妥当な判断かも知れない。夕刻となると、少し冷えるし、あたりも暗くなる。
  暗くなった、そうゆう時刻の花見しか、花見の宴の話しだと、そうゆうものしか知らないが、夕刻から、それから夜になると、すでにかなり皆さん、盛り上がっていて、ここに始めて参加する人は、ちょっと驚くはずで、さんざん学生のときにも飲んでいた、という方も、会社社会のあり方に、戸惑う。お山の花見のことも、思い出としては面白いし、また、花見だなという気もするが、その実態はなかなかシビアで、もうそれに付いて書くこともなさそうである。

  この辺りの花、桜はどうか、先に書いておくと、これはファイルを見てという、寂しいものであるけれど、少し、赤いものが写っていて、これはたぶん桜の花の蕾だと確信した。したがって、雨も降り、それで気温が上がると、1週間はしないうちに、この辺りの桜も咲く気がして来た。
  もう少し前に戻ると、雨がときどき降っていた。そのときの、モズ(百舌鳥)はやはり、ぬれていて、その木の枝もしずくを蓄えていた。しばらくしてから、モズは、また同じ木の同じ位置あたりに止まった。モズの羽は乾いているようで、木の枝ももう雨にぬれてはいなかった。窓から見ていると、何度か同じ位置に、モズは止まり、ほんのわずかで、またどこかに飛んでいった。

  雨が止んでいるようで、これは気が楽である。遅れたスタートとなったが、いつもの道を歩く。歩く目的もあるが、今どきの風景もおさめておきたい。これには、雨があってもいい。何ともいい条件になった。寒いか、というと、これは冬の格好をすれば、ゆっくり歩いていても、寒さはもうひどくはない。
  キカラスウリという植物も、その名前はもうその実の状態を表わしていない。梅の木の枝に、その植物は纏い付き、クルクル巻き付き、今もその実はぶらさがっている。その梅の木の花が散り始めているが、ある時期からいくぶんそのぶら下がっている実の数は減った。だが、まだまだ、茶色の、茶色の色も変色して、灰色になっているものもあるが、その実はまだぶら下がっている。こんなに、長くキカラスウリは、ぶら下がっているものなのか、私は知らない。去年は、2月の終わりか、3月の初めに、観察していた、特定のものは落ちて、残っているものも、3月中には無くなったような気がするが、ここははっきりしない。ただ、3月もおしまいの今も、今年はキカラスウリはぶら下がっていて、観察しているものとしては、記録を更新している。もう、その実から出たような感じに見える梅の花も散ったというのに。

  シトシト降った雨は、いくらかは花に葉っぱに残っていて、これがときに有効に作用するときもあるようだ。花によっては、機械のほうがだまされるときがある。それで妙なものが出来上がる。むつかしいものである。きょうは、どちらかというと、その雨の水滴は、お化粧として、有効に作用したように思える。水分そのものがうまくはじけて、水滴として存在するのがよさそうである。

  ここのツバキは、なかなか美しい。花は押しなべて美しいものだけど、なかなかという形容を付けるなら、ここのツバキかも知れない。そのツバキのそばに寄って見ると、どうにか手の届きそうなところにその花はあった。




  何とも、うまく咲いている。特に、なにか書かないといけない、と言うこともない。少し、右側を向いていたので、そこのところだけ、ちょっと手探りであった。




  借景であって、道のほうから見るとこうゆう角度になっている。蕾も見えていて、この花がたくさん開くと、豪華絢爛な感じもする。

  花に加えて、きのうの夕刻の空気も澄んでいて、これを撮っていた。




  雲の形も、春と冬が同居している感じである。透明感があって、それだけからいうと、これは、真冬の空気の感じがする。そういえば、きのうから今日にかけて、花粉症の症状は、ほどほどであって、クシャミも鼻水も特にない。  

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