光年・千年

纏わりつくが、纏まらないおはなし、日記ふう。

お腹の具合から、花の色まで

2008-06-15 18:58:59 | 散策
  何の関係もないというか脈絡もないようなことを、やはり考えるもので、今日はいい天気だから、こんなに頭が痛いなど、極、普通なことになっている。

  一体にいつごろから、そのようなことを考え出したのか定かではないが、今日は右足から靴を履いたのがいけなかった、だから一本遅い電車にのってしまって、それで、最後は駆け足でえっちらおっちら。これで遅刻になって大目玉というのは、何ともさえないものだ。
  今日は、左足から、靴を履いた。すると、いつもの電車に間に合ったが、しかしそれが途中で混んでまったくに降りるのに一苦労した。だから、その後が大変で。どっちにしろ、ろくなことがないというように世の中は出来ている。
  今日は絶好の行楽日和、しかし何でか知らないが、お腹が痛い。これは困った、どうしよう、約束もした、何時何分に、なになに駅の何番ホームで待ち合わせで、さてどうしたものだ。こうゆうときに携帯電話は便利だろうが、しかし時代は20世紀だ。そのようなものはあったかも知れないが、しかし普通の人はそのようなものは持ってなかった。でも、不思議と、そのお腹が痛いのが相手にもわかって、それから、不思議なことに腹痛もおさまって気分は爽快。なぜお腹が痛かったのか、それもわからないが、当時は、30分くらいは誰でも、待っていた。1時間でも待っていて、それで互いに元気な顔を見ると、なんだかしばらくは険悪なムードになるが、その後はまるで何事もなかったかのように、ことは順調に進む。

  それにしても、今の時代の時間の単位というか、そのせせこましい感触は、一昔前に比べると、途方もない気がする。なんで、こんな分単位で、秒単位でことは動いているのか、ややこしいを通り越して、気が遠くなる。「なんだか」というとかなりに無責任というか、大雑把な感じになるが、それにしてももう少しゆったりしたものがあっていいと思う。
  時間に休みはない。しかし今は人にも休みはないようで、

  しかしどうだろうか。昔はというとダラーンとしているというか流暢にものごとを考えていた。何か体の調子がおかしい。でも、今日は土曜日、お医者さんはやっていた、っと思う。まずは、お昼までは、大体がやっていた。それから、学校もお昼まで、今はどうなっているのだろうか。それから、お役所は、どうだったか。
  さらにもう少し昔に戻ると、記憶にあるのでは、郵便局は、朝の7時にはやっていたようで、本局となると、もう少し長く早くからやっていた、と思う。例えば、速達を出す。でも、それもなるべく早くというわけで、朝の一番に郵便局へ、まだ7時ころだった、土曜日でもやっていたような気がする。これは、考えてみると大変にありがたかった。それから、病院というものも、なにかがおかしいとなるのは、まー週末で、だるいが今行かないと、そうゆう感じで、土曜の午後まで待って診てもらった。ありがたいような、今は考えられないような時間の流れがあった。特に慌てることもなかったのである。

  新幹線があったが、在来線の普通電車にも乗ってかなりに遠くまで、時間は多少はかかるが行くことが出来た。こうゆうことをおさらいしてみると、かなりに昔の話しになってしまうが、PCもなくネットもなく、ケイタイもない時代だったが、特に不便も感じない、そうゆう時間に生きていた。さらに、時間にそう追われることもなく、むしろ今よりも便利なこともたくさんあったようだ。いいこと、悪いこと、プラスのもの、マイナスものも、都合のいいもの、悪いもの、この並べ方に問題がありそうだが、さて今の時代は、その一昔、二昔前は、想像だに出来なかった。それで、これも愚問だが、さて、どっちがいいかこれを選ぶとするとどうだろうか。高々これだけのことでは、何とも判断のしようがない。なんとなく、今日はお腹が痛いから、きっと西から天気はくずれる、そうゆう範疇の問題でおさまっているかも知れないが、 
  理屈か、あるいは直観か、判断の仕方も連続的のようで、そこからどれを選ぶか、これにも無理があるが、そうゆう選択もしなければ、より大変な時代になってしまうと、しきりにそうゆう感じがして、しかしどうゆうものがいいか、そこまで考えは及ばない。


  今はアジサイというか、それ以上のものがなかなか見つからない。




  この植物は、実がトマトのようになる、小さな黄色い花が咲くと思ったが、見事に違った。




  アジサイの青と、空の青。もう少しぼけるといいが。




  おなじアジサイの別の花。花の向こうの青は、何だったか自分でもわからなくなってしまった。   

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