たくさんものがあって、どうにもこうにもならない。そう思うようになって、かなり時間がたった。かなりというと、10年かも知れないし、あるいは、15年かも知れない。その昔は、ものはそこそこあったが、引越しでドカンとものを捨てたから、それを思い出すとあー、惜しいことをしたものだ、と思う。
遠い昔、学校から離れるときには、これはもういらない、と思ってゴミ置き場に置いてきたノートとか、買った本。そうゆうものがあれば、と思うが、それもほんのひとときで、やはりなくて、あるいは捨ててよかった。それから引越しのときに、あげたものというと、例えばTVとかがある。
逆に、TVはいりませんか、とかいわれたこともあるし、また机はどうですか、という話もあった。これは太っ腹ではなく、どうしようもないが、しかし、捨てるのにしのび惜しいという感情が昔はあった。だから、お金と関係なく、どうですかとなるわけで、今はありがたいと思う人もいれば、いやーそれは結構ですとなるわけだが、このPCはもういらないで、もらってもらえませんかと、いうものもありそうで、しかし、そうゆうものも今はいらない。
いい感情というのは今も残っていそうで、そうでもない。
山はといっても、丘陵のようだし、さらには学校の遠足にゆくような山であるが、これも最初の登りはきついが、慣れると安定した状態になって、不思議と足は上がる。どんどん急な坂を登ることが出来るようになる。こうゆう状態になると怖いもの知らずのようでしかし、その先に待っているものがある。下り坂。帰るとなると、坂を下る。これが結構にきつい。先ほどまでのハイなペースはもう戻らない。膝が笑うというが、そうゆうものでもない。体はふらつくし足は思うように前に下に降りない。人の体というと、登るのは楽なようで、下りはそうではないように出来ている。二足歩行の仕組みからいうと、使う筋肉も違うようだが、
これが球体だと、これを押し上げるのはしんどい。歩く以上にしんどいし、背に背負うのが一番楽だ。もっとも、その玉は何かものにもよるが、下りだからといって手放しで喜んでいるわけにもいかない。そのものは加速して転がってゆく。ものすごいスピードになって、これもよろしくはない。結果は、丸くても、また人でも、高いところに登るのは疲れるし、また逆に坂を下るのも大変である。なにか変な気もするが、そのようであるようだ。
人もまた歳を重ねる。若いときだと、もうご飯を何杯食べても太ることはない。それ以外におやつと称して、いろいろなもの、駄菓子をぱくつく。それでも、体重は変わらない。今はどうか、ご飯はほんの少しという状態でも、痩せることはない。もっとも、液体性のカロリのあるものは、噛まなくても入ってゆく。これがいけない。わかってはいるが、これをいただく。どうしようもない感じがあるが、いただいてしまう。これでは痩せるわけがない。
天井を見上げると、そこそこ広いことがわかる。昔はあのくらいの広さがあったわけだ。そうゆう経験は何度もした。もの持ちでもなかったが荷物は増えた。今は、2階にいる。ということは、ここにあるもんは山道を歩くようにエネルギを使い、かつものを持って上がったということになる。もちろん、重いものは手伝ってもらったり、すべて任せたりした。そのあげくがこの状態だ。これだけ、よく持ち上げたものだ。そのエネルギを他のものに使っていたならー、どうなっただろうか。
ものが増えて、それで窮する第一のものは、捨てるところもないし、あるいは置いておく場所がないということだが、それ以外にもうここからは運べませんというものがある。よくこんな重いものを持ち上げたものだ。昔は多少は元気だったが、それを下におろす気になれない。一度くらいは出来そうで、しかしもう一度となると、また山登りをしないといけないからだ。こうして、ものは溜まったわけだが、だが減るわけがない。
なるほど、よくわかった。それにしてもこの先はどうなるか、簡単な方法というのは、ものを細かくして、軽くして、それから移動するというもの。
ものは、なるべく持ち上げないほうがいいような気がするが、これもそのときにならないとわからないもの。後悔は必ずするようで、箴言が生まれる。
ガタガタ、移動中である。でも、まだものを分解したところで、今日は終わって、青息吐息である。いくつかの白梅。
なかなか、咲かないと思っていたある場所の梅の花。これもチラホラになった。チラチラでもチラホラでもいい。
紅白の梅でいうと、この白梅は、木自身がかなりの古木で、途中に倒れないように支えがしてあるし、また幹に穴も開いている。
だから中心部は、かなり密に花はあるが、周辺部はというと少し寂しくなる。しかしこの梅のよさはこちら側にあるようだ。
枝の様子が見えるものを選んで、それもだんだんと遠くから見る感じで、この梅の木の状態をうかがう。
どのくらいの年月を生き抜いてきたのか、梅の木の寿命というのも知らないが、100年くらいはたっているのではないか、と思ってみたりもする。
遠い昔、学校から離れるときには、これはもういらない、と思ってゴミ置き場に置いてきたノートとか、買った本。そうゆうものがあれば、と思うが、それもほんのひとときで、やはりなくて、あるいは捨ててよかった。それから引越しのときに、あげたものというと、例えばTVとかがある。
逆に、TVはいりませんか、とかいわれたこともあるし、また机はどうですか、という話もあった。これは太っ腹ではなく、どうしようもないが、しかし、捨てるのにしのび惜しいという感情が昔はあった。だから、お金と関係なく、どうですかとなるわけで、今はありがたいと思う人もいれば、いやーそれは結構ですとなるわけだが、このPCはもういらないで、もらってもらえませんかと、いうものもありそうで、しかし、そうゆうものも今はいらない。
いい感情というのは今も残っていそうで、そうでもない。
山はといっても、丘陵のようだし、さらには学校の遠足にゆくような山であるが、これも最初の登りはきついが、慣れると安定した状態になって、不思議と足は上がる。どんどん急な坂を登ることが出来るようになる。こうゆう状態になると怖いもの知らずのようでしかし、その先に待っているものがある。下り坂。帰るとなると、坂を下る。これが結構にきつい。先ほどまでのハイなペースはもう戻らない。膝が笑うというが、そうゆうものでもない。体はふらつくし足は思うように前に下に降りない。人の体というと、登るのは楽なようで、下りはそうではないように出来ている。二足歩行の仕組みからいうと、使う筋肉も違うようだが、
これが球体だと、これを押し上げるのはしんどい。歩く以上にしんどいし、背に背負うのが一番楽だ。もっとも、その玉は何かものにもよるが、下りだからといって手放しで喜んでいるわけにもいかない。そのものは加速して転がってゆく。ものすごいスピードになって、これもよろしくはない。結果は、丸くても、また人でも、高いところに登るのは疲れるし、また逆に坂を下るのも大変である。なにか変な気もするが、そのようであるようだ。
人もまた歳を重ねる。若いときだと、もうご飯を何杯食べても太ることはない。それ以外におやつと称して、いろいろなもの、駄菓子をぱくつく。それでも、体重は変わらない。今はどうか、ご飯はほんの少しという状態でも、痩せることはない。もっとも、液体性のカロリのあるものは、噛まなくても入ってゆく。これがいけない。わかってはいるが、これをいただく。どうしようもない感じがあるが、いただいてしまう。これでは痩せるわけがない。
天井を見上げると、そこそこ広いことがわかる。昔はあのくらいの広さがあったわけだ。そうゆう経験は何度もした。もの持ちでもなかったが荷物は増えた。今は、2階にいる。ということは、ここにあるもんは山道を歩くようにエネルギを使い、かつものを持って上がったということになる。もちろん、重いものは手伝ってもらったり、すべて任せたりした。そのあげくがこの状態だ。これだけ、よく持ち上げたものだ。そのエネルギを他のものに使っていたならー、どうなっただろうか。
ものが増えて、それで窮する第一のものは、捨てるところもないし、あるいは置いておく場所がないということだが、それ以外にもうここからは運べませんというものがある。よくこんな重いものを持ち上げたものだ。昔は多少は元気だったが、それを下におろす気になれない。一度くらいは出来そうで、しかしもう一度となると、また山登りをしないといけないからだ。こうして、ものは溜まったわけだが、だが減るわけがない。
なるほど、よくわかった。それにしてもこの先はどうなるか、簡単な方法というのは、ものを細かくして、軽くして、それから移動するというもの。
ものは、なるべく持ち上げないほうがいいような気がするが、これもそのときにならないとわからないもの。後悔は必ずするようで、箴言が生まれる。
ガタガタ、移動中である。でも、まだものを分解したところで、今日は終わって、青息吐息である。いくつかの白梅。
なかなか、咲かないと思っていたある場所の梅の花。これもチラホラになった。チラチラでもチラホラでもいい。
紅白の梅でいうと、この白梅は、木自身がかなりの古木で、途中に倒れないように支えがしてあるし、また幹に穴も開いている。
だから中心部は、かなり密に花はあるが、周辺部はというと少し寂しくなる。しかしこの梅のよさはこちら側にあるようだ。
枝の様子が見えるものを選んで、それもだんだんと遠くから見る感じで、この梅の木の状態をうかがう。
どのくらいの年月を生き抜いてきたのか、梅の木の寿命というのも知らないが、100年くらいはたっているのではないか、と思ってみたりもする。
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