かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

石坂敬一の「出世の流儀」

2011-12-09 02:39:54 | 本/小説:日本
 彼に初めて会ったのは1974年の秋だった。
 2人ともまだ20代で、若かった。
 僕はその年の冬創刊されるメンズマガジンの編集者として、どのような雑誌にするか五里霧中のなかアンテナを張り巡らして奔走していた。映画や音楽も僕の担当であった。
 そんなとき、市ヶ谷にあった会社に彼が現れた。
 ロビーで会った彼は、裾の広がったパンタロンのベルボトムに、高いヒールのロンドンブーツをはいていて、ロックシンガーのようであった。
 髪は、僕もその当時そうであったが、少しウェーブをかけた風になびくような長髪であった。
 「東芝EMIの石坂です」と、彼は静かに丁寧に名乗った。
 そのとき彼は東芝EMIの洋楽のディレクターで、ビートルズなど有名なアーティストを担当していて、すでに業界では名が知れていた。僕がやろうとしている雑誌はまだ発刊されていなかったが、新しいアルバムを持ってきていた。僕は、情報も早く行動も早いと、内心さすがだと思った。

 彼は、僕に1枚のレコード・アルバムを差し出した。それは、ロッカーが狂気のような目で宙を見上げている、まるで宗教画のようなジャケット表紙のコック二ー・レベルのアルバムだった。
 彼はアルバムを見ながら、「いいタイトルでしょう」と、少し嬉しさを抑えるような人懐こい声で言った。タイトルは、「さかしま」だった。
 僕は小さな驚きを覚えた。
 というのは、僕はその新雑誌を担当する前は書籍の編集部にいた。そのとき、早稲田大でフランス語を教えていた田辺貞之助先生のところに原稿を受け取りに行った際、先生の訳したユイスマンスの本を頂き、それによって「さかしま」という本を知った。
 彼はさりげなく「ユイスマンスだよね」と、ユイスマンスに由来したタイトルだよねといったニュアンスで言って、何だか愛おしそうにそのタイトルの入ったアルバムを見た。このロックシンガーとフランスの耽美派作家の結びつきに僕は驚いたのだ。
 僕はレコード会社の人間でユイスマンスの話をする人間に初めて出会った。
 彼と僕の話は、それで充分だった。
 それ以来、同学年ということもあってか、僕たちは旧知の間柄のような、仕事とプライベートのミックスした友人関係となった。六本木のパブ・カーディナルなどでしばしば会って、ビールを飲みながら語った。ときには、業界の人間も一緒の時もあった。
 仕事の関係がなくなった後も、最近どうしている? と言って、時々酒を酌み交わした。

 彼はエネルギッシュだったし、いつも業界の同世代というより同時代のといってもいいが、先頭を走っていた。しかし、会うときは、そんなところはおくびにも出さず、いつも穏やかでにこやかだった。息を切らしながら一生懸命というのとは無縁でやってのけるというのが、彼の彼らしい流儀だった。
 彼は仕事でもプライベートでも次々にスケジュールを決め、手帳の日程を埋めていったが、やりたいこと、やらねばならないことで、「忙しい」を理由にそれらを躊躇、断念することはなかった。
 「今度会おう」という誘いでも、彼はどこからか時間を捻出した。忙しい人間なのに、「忙しい」というセリフは吐かなかった。
 これはビジネスでもプライベートでもいえることだが、すぐに「忙しい」「時間がない」を言い訳の材料に使う人がいるが、そういう人はいつも忙しがり屋の人で、そんな人に限って大したことはしていないものだ。
 時間は自分で作り出すものなのだ。

 大胆な行動力の端に、細かい気配りも見せた。石坂流スタイルで、彼は仕事をし続けた。
 彼の後ろ姿を見て追いかける若い音楽ディレクターは多かったが、多くが途中で息切れしていったように見えた。彼はビジネスマンとして出世の階段を確実に、それもかなりのスピードで登って行ったが、誰でも彼の流儀はまねできるものではなかった。

 その後彼は、東芝EMIの経営幹部からヘッドハンティングでポリグラム(のちのユニバーサル ミュージック)に移籍、代表取締役に就任。さらに社団法人日本レコード協会会長を務めた後、今年(2011年)11月にワーナーミュージック・ジャパンの代表取締役会長に就任した。
 そんな彼の経験を披露し、業界の若い人間にサジェスチョンした本が「出世の流儀 究極のビジネスマンになる方法」(日本文芸社刊)である。
 ビートルズのメンバーのことや、彼の意外な本音が聞ける興味深い本である。

コメント (1)
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