かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

◇ 裸でご免なさい

2005-11-29 02:05:00 | 映画:フランス映画
 マルク・アレグレ監督  ブリジット・バルドー ダニエル・ジラン 1956年作品

 アメリカ・ハリウッドのM・M(マリリン・モンロー)に対して、フランスにはB・B(ベベ)ことブリジット・バルドーが存在した。このあと、イタリアではC・Cこと、クラウディア・カルディナーレが出てくる。そして、イタリアではソフィア・ローレンも。
 こうやってみると、アメリカとヨーロッパのセクシーを売り物にしたスターの違いが何となく浮かんでくる。モンローに比べて、バルドーやカルディナーレの方が人間くさいのである。映画の内容も、ヨーロッパ映画が繊細で人生の哀歓を滲ませているのに比し、セクシーさを売り物にするアメリカ映画は、どうしてもラブ・コメディーになる。
 実際に、アメリカ人だとラブ・アフェアーのお遊びで終わるが、ヨーロッパ人だと恋に落ち、尾を引きそうである。
 
 B・Bの『裸でご免なさい』は、彼女と結婚したロジェー・バディムが監督として彼女を一躍大スターに押し上げた『素直な悪女』の前作である。スタッフの字幕の中に、バディムの名前が見られる。おそらく助監督だったと思われる。
 内容は、作家志望のお嬢さんが頑固な父親と喧嘩をしてパリに家出をし、そこで出会ったプレイボーイの新聞記者と恋をするという話である。彼女の肉体を売り物にした他愛ないドタバタ喜劇で、モンローのラブ・コメディーと違いはない。とりあえず、売り出し中の彼女の主演で、肉体を魅力的に見せる映画を撮ったといった二流作品である。
 それにしても、この「裸でご免なさい」というタイトルは何だろうと思っていた。原題は、やはり違っていた。「En effeuillant la Marguerite」、つまり「(ヒナギクの花弁での)恋占いで…」である。日本の映画会社は、よくこんな露骨なタイトルをつけたものである。

 奔放な肉体を持っているB・Bは、私生活でも恋と別れを繰り返した。その相手は、ロジェー・バディムを皮切りに、メキシコの闘牛士、歌手のジルベル・ベコー、俳優のジャック・シャリエ、サミー・フレー、実業家と枚挙にいとまがないほどだ。あのクールそうなサミー・フレーが自殺未遂をしたほどだから、彼女の魅力が測りしれよう。彼女自身も自殺を図ったこともあるから、一途な人でもある。
 
 しかし、僕は若い時、どうしてもB・Bが好きにはなれなかった。あのゴムまりのような乳房を見ていると、弾んでどこかへ行ってしまい、それを押しとどめることが僕にはできないと勝手に思ったからだ。それに比べて、C・Cの方が、人間的で、好きになったら一途のような気がした。これは、彼女の主演した『ブーベの恋人』の影響が大きい。

 バルドーの作品で最も好きな映画は、J・R・ゴダール監督の作品『軽蔑』(1964年公開)である。これは、アルベルト・モラビアの作で、小説としても素晴らしい。ここでは、B・Bが、珍しく無口でアンニュイな女を演じているのである。
 この映画の原題は『Le Mepris』で、僕は、この原語だけは忘れられなかった。大学で第二外国語はフランス語をとったのだが、その時はまったく勉強せず、卒業した時に覚えていたフランス語は3つに過ぎなかった。
 一つは、誰もが使う「Je t’aime.」(愛している)で、その後に続く「Moi non plus.」(俺はそうでもないさ)はまだ使えなかった。もう一つの「amitie」(アミチエ、友情)は、学生時代に友人とよく行った喫茶店の名前である。そして、この「le mepris」(ル・メプリ、軽蔑)である。

 卒業後、フランスに魅され(惑わされ)フランス語学校に通うことになるのなら、学生時代に勉強しておくべきだった。と悔やんで思うのは、あらゆることが過ぎてからである。
 大切なことは、後で気づくものだ。
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