私小説は、ある意味では小説より面白い。
自分の体験をもとに物語を書くというのは多くの小説にみられることであるし、想像が広がる創作・物語の世界は面白いが、その人となりの個人的体験談も違った好奇心を刺激させる。
作家(筆者)の体験を事実に基づいて語る自伝的色彩をもつ私小説は、純粋な小説とは同じ描かれ方にしても受け取る側の感情や読む印象がかなり違ってくる。何しろ、主人公は書き手本人だからだ。
小説の「そういうこともありうるよなあ」から、「そういうことがあったのだ」と私小説の受け取り方は変わってしまう。
自分の体験を書くのに、粉飾、創作の誘惑をぎりぎりまで抑え込み、それまで蔽い隠していた生身の自分を思いきり晒した作品は、その人の思わぬ実像が浮かびあがり、ときに驚きの発見があり、さらに作者への感情移入が重なることになる。
つまるところ上質の私小説は、その人の本質を帯びた人生を覗き見、伺い知ることで、物語を上回る皮膚感覚でその作中人物、つまり作者に浸透できるということだ。
うまくいけば、主人公(作者)と同じ視線でそこに立ち、一緒に歩くことができる。
*作家の生身を見る、私小説の快楽
私小説は、人生のある程度の域に入った人の作品が面白い。
というのも、ある程度年を重ねると、若いときの気負いも衒いも取り去ることができ、もうそろそろ人生の締め切りが見えてきたので、覆い被せていた真実を語ろうという気になるからだろう。
もはや職人芸とも名人芸ともいえる川崎長太郎をあげるでもなく、檀一雄の戦後の出世作ともいえる「リツ子・その愛、その死」は私小説だし、彼の代表作で遺作となった「火宅の人」は、私小説の最たる傑作といえる。
なかにし礼の、兄のことを書いた私小説、「兄弟」や、満州体験を基に書いた「赤い月」、癌を患ったあと人生の集大成として書いた「夜の歌」等は、積年の告白にも似て、直木賞受賞作の「長崎ぶらぶら節」より、はるかにコクがあるし読みごたえがある。
伊集院静も自伝的小説が面白い。色川武大との交流を描いた「いねむり先生」や「愚者よ、お前がいなくなって淋しくてたまらない」なども私小説といっていいだろう。
告白といえば、三島由紀夫の「仮面の告白」も自伝的小説と捉えられているし、永井荷風の初期の海外滞在を描いた「あめりか物語」や「ふらんす物語」、向島・玉の井を舞台にした「濹東綺譚」や、谷崎潤一郎の「痴人の愛」なども、私小説として読むと作家への距離が縮まった感じがする。
伊藤整の自伝的小説「若い詩人の肖像」は、瑞々しい「雪明りの路」を思い浮かべさせた。
情愛もの作家として有名な渡辺淳一であるが、初期の名作「阿寒に果つ」は、儚い青春を描いた優れた私小説といえる。
私はSFや推理小説等のエンターテイメント系の小説はほとんど読まないが、作家がある時期からそれまでの作品群とはまったく異なった作品、自己の内面を吐露した小説を発表することがある。晩年に発表した告白ともいえる、彼らの体験を基にした私小説を読むと、イメージでしか知らなかったその作家の生身に触れたようで興味深い。
SMものなどの官能小説の第一人者であった団鬼六は、晩年にしみじみと「最後の愛人」を書いたし、バイオレンス官能作家だった勝目梓は、70代で「小説家」、「老醜の記」と私小説を発表し、違った素顔を見せた。
これを書いているとき、先の3月3日に勝目梓が亡くなったと報道された。享年87。
思うに、私小説が面白いのは、文豪、無頼派、異端といった、生き方そのものが個性的な作家だ。
作家ではないがサルトル研究家でフランス文学者の海老坂武には、同じ「シングル・ライフ」のなし崩し独身者として、世代は違うが共感を抱いていた。
彼の自伝である「〈戦後〉が若かった頃」、「かくも激しき希望の歳月」、「祖国より一人の友を」の3部作は、フランス、女性、映画への思いと愛、それに政治へのアンガージュマン・スタンスなど、共鳴と同時に羨望を持って読んだ。
・「海老坂武の世界」①~④―→ブログ(2012.6.13~7.20)
そうなのだ。私小説の魅力は、作家への感情移入と同時に共感、共鳴であろう。
私小説を書かない作家もいるが、それとて彼もしくは彼女のイマジネーション・創作の源はそれまでの体験、経験である。それまでの人生といってもいい。
そういう意味では、あらゆる小説にその書き手の個人的体験が内包されていると言える。それをあからさまに表したのが私小説ではないだろうか。
極言すれば、あらゆる小説に私小説の痕跡がある。
そして、島田雅彦がこのたび私小説「君が異端だった頃」を書いた。
自分の体験をもとに物語を書くというのは多くの小説にみられることであるし、想像が広がる創作・物語の世界は面白いが、その人となりの個人的体験談も違った好奇心を刺激させる。
作家(筆者)の体験を事実に基づいて語る自伝的色彩をもつ私小説は、純粋な小説とは同じ描かれ方にしても受け取る側の感情や読む印象がかなり違ってくる。何しろ、主人公は書き手本人だからだ。
小説の「そういうこともありうるよなあ」から、「そういうことがあったのだ」と私小説の受け取り方は変わってしまう。
自分の体験を書くのに、粉飾、創作の誘惑をぎりぎりまで抑え込み、それまで蔽い隠していた生身の自分を思いきり晒した作品は、その人の思わぬ実像が浮かびあがり、ときに驚きの発見があり、さらに作者への感情移入が重なることになる。
つまるところ上質の私小説は、その人の本質を帯びた人生を覗き見、伺い知ることで、物語を上回る皮膚感覚でその作中人物、つまり作者に浸透できるということだ。
うまくいけば、主人公(作者)と同じ視線でそこに立ち、一緒に歩くことができる。
*作家の生身を見る、私小説の快楽
私小説は、人生のある程度の域に入った人の作品が面白い。
というのも、ある程度年を重ねると、若いときの気負いも衒いも取り去ることができ、もうそろそろ人生の締め切りが見えてきたので、覆い被せていた真実を語ろうという気になるからだろう。
もはや職人芸とも名人芸ともいえる川崎長太郎をあげるでもなく、檀一雄の戦後の出世作ともいえる「リツ子・その愛、その死」は私小説だし、彼の代表作で遺作となった「火宅の人」は、私小説の最たる傑作といえる。
なかにし礼の、兄のことを書いた私小説、「兄弟」や、満州体験を基に書いた「赤い月」、癌を患ったあと人生の集大成として書いた「夜の歌」等は、積年の告白にも似て、直木賞受賞作の「長崎ぶらぶら節」より、はるかにコクがあるし読みごたえがある。
伊集院静も自伝的小説が面白い。色川武大との交流を描いた「いねむり先生」や「愚者よ、お前がいなくなって淋しくてたまらない」なども私小説といっていいだろう。
告白といえば、三島由紀夫の「仮面の告白」も自伝的小説と捉えられているし、永井荷風の初期の海外滞在を描いた「あめりか物語」や「ふらんす物語」、向島・玉の井を舞台にした「濹東綺譚」や、谷崎潤一郎の「痴人の愛」なども、私小説として読むと作家への距離が縮まった感じがする。
伊藤整の自伝的小説「若い詩人の肖像」は、瑞々しい「雪明りの路」を思い浮かべさせた。
情愛もの作家として有名な渡辺淳一であるが、初期の名作「阿寒に果つ」は、儚い青春を描いた優れた私小説といえる。
私はSFや推理小説等のエンターテイメント系の小説はほとんど読まないが、作家がある時期からそれまでの作品群とはまったく異なった作品、自己の内面を吐露した小説を発表することがある。晩年に発表した告白ともいえる、彼らの体験を基にした私小説を読むと、イメージでしか知らなかったその作家の生身に触れたようで興味深い。
SMものなどの官能小説の第一人者であった団鬼六は、晩年にしみじみと「最後の愛人」を書いたし、バイオレンス官能作家だった勝目梓は、70代で「小説家」、「老醜の記」と私小説を発表し、違った素顔を見せた。
これを書いているとき、先の3月3日に勝目梓が亡くなったと報道された。享年87。
思うに、私小説が面白いのは、文豪、無頼派、異端といった、生き方そのものが個性的な作家だ。
作家ではないがサルトル研究家でフランス文学者の海老坂武には、同じ「シングル・ライフ」のなし崩し独身者として、世代は違うが共感を抱いていた。
彼の自伝である「〈戦後〉が若かった頃」、「かくも激しき希望の歳月」、「祖国より一人の友を」の3部作は、フランス、女性、映画への思いと愛、それに政治へのアンガージュマン・スタンスなど、共鳴と同時に羨望を持って読んだ。
・「海老坂武の世界」①~④―→ブログ(2012.6.13~7.20)
そうなのだ。私小説の魅力は、作家への感情移入と同時に共感、共鳴であろう。
私小説を書かない作家もいるが、それとて彼もしくは彼女のイマジネーション・創作の源はそれまでの体験、経験である。それまでの人生といってもいい。
そういう意味では、あらゆる小説にその書き手の個人的体験が内包されていると言える。それをあからさまに表したのが私小説ではないだろうか。
極言すれば、あらゆる小説に私小説の痕跡がある。
そして、島田雅彦がこのたび私小説「君が異端だった頃」を書いた。