楊逸著 文藝春秋刊
青雲の志を抱いて大学に行く若者が、今の日本でどの程度いるのだろうか。
大学は偏差値で格付けされ、就職が有利な大学が人気のある大学となっている。ということは、多くの学生は、就職のために、つまり大企業で安定のある会社へ就職することが、大学へ行くことの大きな目的となっているのだろう。
1988年、大学受験から、この物語は始まる。
中国が舞台である。物語の主人公の二人の若者は、国を思い、国のために何者かになろうと大志を持って、大学に入る。
朝靄の中、二人は大きな声で叫ぶ。心から湧き出る熱情を、叫ばずにはいられなかったのだ。
詩が謳われる。
寂しい秋の清愁だろうか
遥か遠い海への思いだろうか
もし僕の憂いを訊かれたら
きっと貴女の名を口にできないのだろう
(戴望舒)
このような詩を口ずさんだ時があった。
失われた、若き日の瑞々しい時の流れが甦ってくる。国は違えど、思いは違わないと感じさせる。
中国の大学で、志を燃やす学生が、国を思うがゆえに民主化に目覚めていく。そして、デモに参加する。
しかし、1989年天安門事件が起こる。
1997年、香港が中国に返還される。
小説は、こうした史実を交えながら、若者の清冽な心の移ろいを描いていく。
そして、時は流れる。すべてが、過去になっていく。舞台は日本に移り、大人になり、結婚し、子供が生まれる。その分、失ってしまうものがある。仕方ないことだ。
この物語の学生の志は、今の日本の学生には失われたもののように、懐かしくも尊いもののように思える。いや、今の中国の学生は、どういう気持ちで学生生活を送っているのだろうか、という考えがわきあがった。
著者の楊逸は、前作「ワンちゃん」で芥川賞候補になったが、その独特の感性は瑞々しかったものの、日本語が少しおぼつかないところがあった。しかし、この作品では外国人が書いたとは、漢詩が出てこなければ分からないほど上手くなっていた。
いや、この著者は文章の上手い下手を超えた、日本人が失った清廉な感性があるのがいい。2008年139回芥川賞受賞作。
青雲の志を抱いて大学に行く若者が、今の日本でどの程度いるのだろうか。
大学は偏差値で格付けされ、就職が有利な大学が人気のある大学となっている。ということは、多くの学生は、就職のために、つまり大企業で安定のある会社へ就職することが、大学へ行くことの大きな目的となっているのだろう。
1988年、大学受験から、この物語は始まる。
中国が舞台である。物語の主人公の二人の若者は、国を思い、国のために何者かになろうと大志を持って、大学に入る。
朝靄の中、二人は大きな声で叫ぶ。心から湧き出る熱情を、叫ばずにはいられなかったのだ。
詩が謳われる。
寂しい秋の清愁だろうか
遥か遠い海への思いだろうか
もし僕の憂いを訊かれたら
きっと貴女の名を口にできないのだろう
(戴望舒)
このような詩を口ずさんだ時があった。
失われた、若き日の瑞々しい時の流れが甦ってくる。国は違えど、思いは違わないと感じさせる。
中国の大学で、志を燃やす学生が、国を思うがゆえに民主化に目覚めていく。そして、デモに参加する。
しかし、1989年天安門事件が起こる。
1997年、香港が中国に返還される。
小説は、こうした史実を交えながら、若者の清冽な心の移ろいを描いていく。
そして、時は流れる。すべてが、過去になっていく。舞台は日本に移り、大人になり、結婚し、子供が生まれる。その分、失ってしまうものがある。仕方ないことだ。
この物語の学生の志は、今の日本の学生には失われたもののように、懐かしくも尊いもののように思える。いや、今の中国の学生は、どういう気持ちで学生生活を送っているのだろうか、という考えがわきあがった。
著者の楊逸は、前作「ワンちゃん」で芥川賞候補になったが、その独特の感性は瑞々しかったものの、日本語が少しおぼつかないところがあった。しかし、この作品では外国人が書いたとは、漢詩が出てこなければ分からないほど上手くなっていた。
いや、この著者は文章の上手い下手を超えた、日本人が失った清廉な感性があるのがいい。2008年139回芥川賞受賞作。