安本末子著 西日本新聞社刊(復刻版)、初版本は光文社刊。
あれは、去年(08年)の冬だった。
友人の車で唐津の呼子へ行く途中、肥前町に来たとき、ここに「にあんちゃん」の記念碑があると友人が言った。
この「にあんちゃん」という言葉は、昭和30年代が持っているある種の懐かしさでもって響いてくる。
「にあんちゃん」とは、二番目のあんちゃん、つまり次兄のことである。
「にあんちゃん」と題した本が出版され、話題になったのは1958(昭和33)年である。著者は、安本末子という小学生。炭鉱住宅に住む貧しい在日韓国人であった。
この本は、今村昌平によって映画化され、さらに大きな話題となった。演じたのは、若き日の長門裕之、吉行和子など。
*
4人きょうだい(兄妹)の末っ子だった著者の安本末子が、本となる日記を書き始めた当時(昭和28年)は、小学3年生。早くに両親をなくし、20歳の長兄と5年生の次兄であるにあんちゃん、それにすぐに子守奉公に出る姉と暮らしていた。
一家を背負う長兄東石は、佐賀県東松浦郡入野村(のち肥前町、現在は唐津市)の杵島炭鉱大鶴鉱業所に炭坑夫として働くが、朝鮮人ということもあって臨時雇いで給料も安かった。
長兄は残業して懸命に働くがたいした額にはならず、安本一家はその日暮らしの貧しさを余儀なくされていた。
「朝の五時ごろ、サイレンがなって、一ばん方から、とつぜん、ストにとつにゅうしました。(略)今日のストは、ちんぎんがあがるのではなく、ボーナスがあがるストだったので、私の家にはなんのききめもありません。ただのストだったら、こまるだけです。
私は、いつもストがないようにと、心の中で、おがみます。それは、ストをされたら、はたかられないので、お金がなくなります。そして、いくらなくなっても、せき(籍)がないから、ろうどう組合から、かりることもできません。
ストは、私の大かたきといっていいでしょう。」
昭和28年、すでに炭鉱は斜陽の兆しを見せていた。ここ大鶴鉱業所でも人員整理が始まる。そして首切り(人員解雇)が行われる。
いつの時代でも、真っ先に犠牲になるのは、臨時雇いからだ。
「とうとう、兄さんは、あしたから仕事に行かれないことになりました。首を切られたのです。会社は、りんじ(臨時)から、まっさきに首を切ったのです。
これからさき、どうして生きていくかと思うと、私は、むねが早がねをうって、どうしていいかわかりません。ごはんものどにつかえて、生きていくたのしみもありません。
だいいちばんに、ねるところがなくなります。会社の家だから、首を切られたら、出て行かなければなりません。
学校にも行けないようになるでしょう。いくら人間がおおいといっても、首を切ってしまうとは、あんまりではないでしょうか。
人間は、一どは、だれでも死にます。
私は、ためいきで、一日をおくりました。」
「学校へ行きたくて、気が気ではありません。
お金がないのがかなしくってたまりません。けれども、どうすることもできません。
学校へいけないなやみが、はりさけるように、たまっています。(略)
考えても、どうにもならないので、わすれようとしても、わすれることができません。
夜もねむれません。学校へ行かれない、ただ一つのなやみのために。
うけせん(受け銭)が、うそもかくしもしない、でんぴょう(伝票)をみせてもいい、たった二千四百円。どうやって生きていくのでしょう」
「うけせん」とは、給料のことである。炭鉱ではこう言っていた。「でんぴょう」は、給料明細書のことである。長兄の給料がいくらかを、末子は把握し、一家の生活状態を知っているのだ。
「朝おきてみると、兄さんのすがたが見えません。仕事を見つけに行かれたのです。
だんだん、学校へ行きたい心も、しだいにきえていきます。考えていても、行かれないので、考えないようにしたのです。
一年生の時は一かいか三かい休んだだけで、行きましたが、二年生の時も、三年生の時も、やく三分の一は、休んでしまいました。それもみんな、お金がないためです。びんぼうのためです。
ああ、びんぼうって、かなしいことばかり。ためいきばかり。」
「かなしい月日が、ゆめのように、すぎていきます。
米がなくなり、夜は、しゃげ麦を、四ごうたきました。みんな、いろいろな思いをして、それを食べました。はしですくうと、はしのあいだから、ぽろぽろと、麦がこぼれおちました。
麦だけのご飯でも、あちがたいことです。七がつなどは、朝から夜まで、一日中なんにも口にいれず、すわることも、立つこともできず、かみをふりみだして、青白くなって、ねていたこともあります。
はらとせなかと、ひっつくほどにひもじい時もありました。それを思えば、麦だけでも、ありがたいことです。
こんなぼろぼろの麦ごはんでも、
「ごはん」ときくと、みんなよろこんで、はんだい(飯台)につきます。」
こんな貧乏でも、末子は乞食に同情を寄せる心を持っている。いつも、弱いものの見方で、味方だ。
しかし、仕事が見つからない長兄は県外に仕事を求め、きょうだいは別れ別れに暮らさざるを得なくなる。末子もにあんちゃんと一緒に、知り合いの家に預けられる。そことて、裕福な家ではないので、居心地はよいはずはない。
*
この本には、その時の次兄のにあんちゃんの文も挿入されている。
本のタイトルにもなっているにあんちゃんは、勉強は学校でもトップクラスでスポーツも万能の、末子の自慢の兄だ。末子とともに知人の家にいたにあんちゃんは、仕事の手伝いもしていた。
「ぼくは、もうこの家から立ちのかなければならない。僕は働きに来たのであって、仕事がなくなれば、当然出なければならない。といって、どこへ行く。(略)
東京がぼくを呼んでいる。ぼくはいま、東京へ行こうと決心しているのだ。
日本の首都、東京。一度行ってみたい。行ってみようと思う。行けばどうにかなるであろう。死にはすまい。いや、死ぬのをおそれてはいけない。まあ、行けよだ。こじきしてでも、東京でする方がましだ。」
貧乏からの行き場のない脱出と都会への憧れが少年の心に滲んでいる。こうして、にあんちゃんは一人東京へ行く。このとき、にあんちゃんまだ中学1年である。
当時、地方の少年たちは都会に憧れた。そこには、夢があった。特に東京は、眩しい存在だった。僕が高校卒業する頃に持った感慨を、にあんちゃんはすでに中学1年で持っていた。
結局、にあんちゃんは東京で警察に保護され程なく帰ってくるのだが、一家の困窮は解決されないまま、きょうだい(兄妹)はさらに苦難の道を歩くことになる。
*
貧乏の話といっても、この日記文は、同情のお涙頂戴の話ではない。貧しい話が続くのだが、彼らはぎりぎりのところでもいつも前向きである。決して卑屈にもならないし、妬みや社会批判もない。ましてや、感動の押し売りでもない。
読んでいて、悲しいまでも清々しい。
朝鮮人だという差別は、長兄の雇用関係であったのだが、学校や近所の話では一度も出てこない。末子の日記にも、朝鮮人としての被差別意識は出てこないし、コンプレックスもない。おそらく、社会生活のうえでは人種差別はなかったと思われる。
解説で杉浦明平も、「坑夫のあいだには、一般に、そういう差別はきわめて少ない。特に、佐賀の鉱山には差別がなかったらしい」と書いている。
佐賀の田舎町の小さな図書館で、ひっそりと置かれていたこの「にあんちゃん」を見つけて、すぐに読んでみた。おそらく少年時代に読んだであろう本である。
この少女の日記には、戦後の炭鉱町の一断面が描かれている。いや、もっと戦後の少年少女の瑞々しい感性が滲んでいる。貧しいけれども、究極は明るく決して夢を失わない。今読んでも新鮮だ。
あえて言えば、時代は違えども、現在も似たような状況にはある。
読み進むうちに、土門拳の写真集「筑豊の子どもたち」が脳裏を掠めたのだった。
*
現在は町村合併で唐津市になった肥前町の田んぼの片隅に、その「にあんちゃん」の碑はあった。
周りを見渡せば、静かな何の変哲もない田舎の農村風景である。そこが、かつては4千人が暮らしていたという炭鉱の跡地だとは、誰も気づかないだろう。それほど、杵島炭鉱大鶴鉱業所の面影はなかった。
道を隔てた田んぼの中に、やっとコンクリートで埋められた坑口跡を見つけた。それは、廃墟といえないほどうち捨てられた栄華の断片だった。
黒澤明の「乱」のロケ地となった豊臣秀吉築城の名護屋城跡が、このすぐ近くの鎮西町にある。ここも「つわものどもの夢のあと」で、城の形は残っていないが、歴史を忍ばせる城の石垣がある。
しかし、ここは活気をおびた一つの産業町が神隠しにあったように消え、なんの名残りもなく、匂いすらしない。一つの産業があっという間になくなり、風景までも変えてしまったのを見ると、時代の流れとはあまりにも無残で冷徹だと思わせる。
今わずかながらに残っているこれら鉱工業のあとや名残りを、日本の近代化の産業遺跡といって一部注目を集めるようになったが、遺跡は、かくも短い時間(年月)に出来上がるようになったのだ。
帝国と同じく、繁栄を誇ったどのような産業もいつかは衰退する。いつまでも続くものなんてないのである。
あれは、去年(08年)の冬だった。
友人の車で唐津の呼子へ行く途中、肥前町に来たとき、ここに「にあんちゃん」の記念碑があると友人が言った。
この「にあんちゃん」という言葉は、昭和30年代が持っているある種の懐かしさでもって響いてくる。
「にあんちゃん」とは、二番目のあんちゃん、つまり次兄のことである。
「にあんちゃん」と題した本が出版され、話題になったのは1958(昭和33)年である。著者は、安本末子という小学生。炭鉱住宅に住む貧しい在日韓国人であった。
この本は、今村昌平によって映画化され、さらに大きな話題となった。演じたのは、若き日の長門裕之、吉行和子など。
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4人きょうだい(兄妹)の末っ子だった著者の安本末子が、本となる日記を書き始めた当時(昭和28年)は、小学3年生。早くに両親をなくし、20歳の長兄と5年生の次兄であるにあんちゃん、それにすぐに子守奉公に出る姉と暮らしていた。
一家を背負う長兄東石は、佐賀県東松浦郡入野村(のち肥前町、現在は唐津市)の杵島炭鉱大鶴鉱業所に炭坑夫として働くが、朝鮮人ということもあって臨時雇いで給料も安かった。
長兄は残業して懸命に働くがたいした額にはならず、安本一家はその日暮らしの貧しさを余儀なくされていた。
「朝の五時ごろ、サイレンがなって、一ばん方から、とつぜん、ストにとつにゅうしました。(略)今日のストは、ちんぎんがあがるのではなく、ボーナスがあがるストだったので、私の家にはなんのききめもありません。ただのストだったら、こまるだけです。
私は、いつもストがないようにと、心の中で、おがみます。それは、ストをされたら、はたかられないので、お金がなくなります。そして、いくらなくなっても、せき(籍)がないから、ろうどう組合から、かりることもできません。
ストは、私の大かたきといっていいでしょう。」
昭和28年、すでに炭鉱は斜陽の兆しを見せていた。ここ大鶴鉱業所でも人員整理が始まる。そして首切り(人員解雇)が行われる。
いつの時代でも、真っ先に犠牲になるのは、臨時雇いからだ。
「とうとう、兄さんは、あしたから仕事に行かれないことになりました。首を切られたのです。会社は、りんじ(臨時)から、まっさきに首を切ったのです。
これからさき、どうして生きていくかと思うと、私は、むねが早がねをうって、どうしていいかわかりません。ごはんものどにつかえて、生きていくたのしみもありません。
だいいちばんに、ねるところがなくなります。会社の家だから、首を切られたら、出て行かなければなりません。
学校にも行けないようになるでしょう。いくら人間がおおいといっても、首を切ってしまうとは、あんまりではないでしょうか。
人間は、一どは、だれでも死にます。
私は、ためいきで、一日をおくりました。」
「学校へ行きたくて、気が気ではありません。
お金がないのがかなしくってたまりません。けれども、どうすることもできません。
学校へいけないなやみが、はりさけるように、たまっています。(略)
考えても、どうにもならないので、わすれようとしても、わすれることができません。
夜もねむれません。学校へ行かれない、ただ一つのなやみのために。
うけせん(受け銭)が、うそもかくしもしない、でんぴょう(伝票)をみせてもいい、たった二千四百円。どうやって生きていくのでしょう」
「うけせん」とは、給料のことである。炭鉱ではこう言っていた。「でんぴょう」は、給料明細書のことである。長兄の給料がいくらかを、末子は把握し、一家の生活状態を知っているのだ。
「朝おきてみると、兄さんのすがたが見えません。仕事を見つけに行かれたのです。
だんだん、学校へ行きたい心も、しだいにきえていきます。考えていても、行かれないので、考えないようにしたのです。
一年生の時は一かいか三かい休んだだけで、行きましたが、二年生の時も、三年生の時も、やく三分の一は、休んでしまいました。それもみんな、お金がないためです。びんぼうのためです。
ああ、びんぼうって、かなしいことばかり。ためいきばかり。」
「かなしい月日が、ゆめのように、すぎていきます。
米がなくなり、夜は、しゃげ麦を、四ごうたきました。みんな、いろいろな思いをして、それを食べました。はしですくうと、はしのあいだから、ぽろぽろと、麦がこぼれおちました。
麦だけのご飯でも、あちがたいことです。七がつなどは、朝から夜まで、一日中なんにも口にいれず、すわることも、立つこともできず、かみをふりみだして、青白くなって、ねていたこともあります。
はらとせなかと、ひっつくほどにひもじい時もありました。それを思えば、麦だけでも、ありがたいことです。
こんなぼろぼろの麦ごはんでも、
「ごはん」ときくと、みんなよろこんで、はんだい(飯台)につきます。」
こんな貧乏でも、末子は乞食に同情を寄せる心を持っている。いつも、弱いものの見方で、味方だ。
しかし、仕事が見つからない長兄は県外に仕事を求め、きょうだいは別れ別れに暮らさざるを得なくなる。末子もにあんちゃんと一緒に、知り合いの家に預けられる。そことて、裕福な家ではないので、居心地はよいはずはない。
*
この本には、その時の次兄のにあんちゃんの文も挿入されている。
本のタイトルにもなっているにあんちゃんは、勉強は学校でもトップクラスでスポーツも万能の、末子の自慢の兄だ。末子とともに知人の家にいたにあんちゃんは、仕事の手伝いもしていた。
「ぼくは、もうこの家から立ちのかなければならない。僕は働きに来たのであって、仕事がなくなれば、当然出なければならない。といって、どこへ行く。(略)
東京がぼくを呼んでいる。ぼくはいま、東京へ行こうと決心しているのだ。
日本の首都、東京。一度行ってみたい。行ってみようと思う。行けばどうにかなるであろう。死にはすまい。いや、死ぬのをおそれてはいけない。まあ、行けよだ。こじきしてでも、東京でする方がましだ。」
貧乏からの行き場のない脱出と都会への憧れが少年の心に滲んでいる。こうして、にあんちゃんは一人東京へ行く。このとき、にあんちゃんまだ中学1年である。
当時、地方の少年たちは都会に憧れた。そこには、夢があった。特に東京は、眩しい存在だった。僕が高校卒業する頃に持った感慨を、にあんちゃんはすでに中学1年で持っていた。
結局、にあんちゃんは東京で警察に保護され程なく帰ってくるのだが、一家の困窮は解決されないまま、きょうだい(兄妹)はさらに苦難の道を歩くことになる。
*
貧乏の話といっても、この日記文は、同情のお涙頂戴の話ではない。貧しい話が続くのだが、彼らはぎりぎりのところでもいつも前向きである。決して卑屈にもならないし、妬みや社会批判もない。ましてや、感動の押し売りでもない。
読んでいて、悲しいまでも清々しい。
朝鮮人だという差別は、長兄の雇用関係であったのだが、学校や近所の話では一度も出てこない。末子の日記にも、朝鮮人としての被差別意識は出てこないし、コンプレックスもない。おそらく、社会生活のうえでは人種差別はなかったと思われる。
解説で杉浦明平も、「坑夫のあいだには、一般に、そういう差別はきわめて少ない。特に、佐賀の鉱山には差別がなかったらしい」と書いている。
佐賀の田舎町の小さな図書館で、ひっそりと置かれていたこの「にあんちゃん」を見つけて、すぐに読んでみた。おそらく少年時代に読んだであろう本である。
この少女の日記には、戦後の炭鉱町の一断面が描かれている。いや、もっと戦後の少年少女の瑞々しい感性が滲んでいる。貧しいけれども、究極は明るく決して夢を失わない。今読んでも新鮮だ。
あえて言えば、時代は違えども、現在も似たような状況にはある。
読み進むうちに、土門拳の写真集「筑豊の子どもたち」が脳裏を掠めたのだった。
*
現在は町村合併で唐津市になった肥前町の田んぼの片隅に、その「にあんちゃん」の碑はあった。
周りを見渡せば、静かな何の変哲もない田舎の農村風景である。そこが、かつては4千人が暮らしていたという炭鉱の跡地だとは、誰も気づかないだろう。それほど、杵島炭鉱大鶴鉱業所の面影はなかった。
道を隔てた田んぼの中に、やっとコンクリートで埋められた坑口跡を見つけた。それは、廃墟といえないほどうち捨てられた栄華の断片だった。
黒澤明の「乱」のロケ地となった豊臣秀吉築城の名護屋城跡が、このすぐ近くの鎮西町にある。ここも「つわものどもの夢のあと」で、城の形は残っていないが、歴史を忍ばせる城の石垣がある。
しかし、ここは活気をおびた一つの産業町が神隠しにあったように消え、なんの名残りもなく、匂いすらしない。一つの産業があっという間になくなり、風景までも変えてしまったのを見ると、時代の流れとはあまりにも無残で冷徹だと思わせる。
今わずかながらに残っているこれら鉱工業のあとや名残りを、日本の近代化の産業遺跡といって一部注目を集めるようになったが、遺跡は、かくも短い時間(年月)に出来上がるようになったのだ。
帝国と同じく、繁栄を誇ったどのような産業もいつかは衰退する。いつまでも続くものなんてないのである。