goo blog サービス終了のお知らせ 

かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

長崎くんち ②

2006-10-13 01:48:17 | * 九州の祭りを追って
 **** 出島の不思議空間

 長崎くんちは、初の体験だった。出しものを求めて、街を歩いた。路地や商店街の通りで、踊りや山車の出し物に出くわした。終日のメイン行事、諏訪神社の「もりこみ」も見た。
 時計を見ると、夕刻4時である。まだ出し物は、6つのうちの2つを見ていないが、今年の目玉、「鯨の潮ふき」を見たことだし、よしとすることにして、少し早いが、中華街へ夕食を食べに行こうと思って路面電車に乗った。
 路面電車はいい。料金は、どこまで行っても均一100円だ。まるで、アムステルダムの路面電車のようだ。
 電車を降りる段になって財布を見たら、100円硬貨がなかったので、両替しようと思って一番前の運転席の方へ行った。しかし、両替機が置かれていない。運転手に、両替お願いしますと千円札を渡すと、薬袋のような四角いセロハンの袋を2つ手渡された。袋をあけると、中に100円硬貨が5枚入っていた。
 う~ん、こんな優しい街はほかに知らないなあ。
 
 電停の築町から、中華街の反対側の港の方に行くと出島の跡である。以前行ったことがあるが、夕食にはまだ早いので、出島の方に歩いてみた。人通りは少なく、ひっそりとしている。通りの右側が出島商館跡で、左側には古い建物が並んでいる。
 年代を少し巻き戻したような雰囲気が漂っている。
 
 なぜかモノクロのような通りを歩いていると、灰色のコンクリートの建物に、「出島診療所」という表示が貼ってあるのが目に入った。いったんは通り過ぎたのだが、少し気になって、また戻ってよくその建物を見た。
 シンプルだが、謂れのあるような3階建ての建物で、「出島診療所」の表示の横に、小さく「精神相談受け付けます」とある。それに、表示の横に、道からいきなりコンクリートの階段が上に続いている。何だか意味ありげな診療所だ。階段の上を見上げると薄暗く、廃墟のようだが、つい誘われるように登ってしまった。
 2階は、外の明かりも途絶えて薄暗い。着いた階段の先に、いきなり蛇口が2つ並んだ洗面所があった。暗い洗面所は不気味だということを、初めて知った。
 それにしても、何という造りだろう。横を見ると、戸口がある。中は明るいので、おそるおそる戸を開いた。
 すると、「いらっしゃい」と、受付らしい若い女性が笑顔を見せた。僕は患者ではないので、「ちょっと」と会釈しながら、中を見渡した。単に好奇心で、覗きに来たまでなのだ。
 中は、病院のようでいて、何だかそうではなさそうでもある。奥には机があり、向かい合って椅子が置かれてあるが、誰もいない。医者は不在なのかもしれない。
 いや、窓辺にはフラスコなどが置かれているが、机の上に陶器やガラス瓶などが並んでいて、どう見ても普通の病院ではなさそうだ。狐につままれたような顔をしている僕の表情を見て、受付の女性は微笑んでいる。
 横溝正史の小説か、つげ義春の漫画の世界に入り込んだようだ。
 「ここは?」という僕の質問に、女性は「お店です」と言った。お店ということは、入っていいのだ。僕は、何のお店か分からないまま、入って部屋の中を見回した。机のある奥には、古い婦人雑誌が積んである。お店ということは、ここに置いてあるものが売り物なのだ。
 「出島診療所ではないのですか?」と言う僕の質問に、女性は、「それは1階です」とやはりうっすらと笑って答えた。
 やはり、診療所は営業しているのだ。しかし、どう見ても診療所、病院には見えない。どんな医者が、どんな診療をやっているのか想像できないでいた。
 「上の3階もあるのですか?」と訊くと、女性は、「ええ、上はギャラリーです」と、変わらず微笑みながら答えた。
 
 3階に上っていくと、やはり暗い洗面所にぶつかった。人の気配がするので振り向くと、戸を半分開いて中に入ろうとしている女性と目が合った。中はトイレのようだった。女性は、「入りますか?」と、鼻をかみながら僕に訊いた。僕は、「いいえ」と言いながら、トイレではない、奥にある別の戸口の方へ行って、中を開いた。
 そこは、確かにギャラリーだった。工芸の作品が並んでいて、その作家の女性もいた。ここで制作もし、作品を販売もしているとのことだった。
 ギャラリーの作家は、この空間が気に入っているようだった。僕も決して嫌いではなかった。惹かれると言うのではなく、誘い込まれるといった雰囲気があった。
 僕が、この建物は不思議な雰囲気を持っていることを告げると、その場にいた作家の友人たちも、同じような印象を持っていると告白した。この建物の醸し出す異次元の雰囲気、つまり奇妙な存在感について、結論のない話は熱く続いたのであった。
 
 ギャラリーを出て帰るとき、階段の踊り場に当たる洗面所のところに来ると、来るときは気づかなかったが、僕が上ってきた反対側からも、対のように階段が下りていた。それに、建物の真ん中に吹き抜けの空間があるようだった。
 あとで想像するに、外観は平坦な箱型のビルだが、中は相似形の2つのビルが寄り添っているように思えた。いや、コの字型になっているようにも思えてきた。どうして、このような造りにしたのだろう。設計図を描けば、どのような構造になっているのだろう。

 何気ない静かな出島通りに、つい見逃してしまいそうな不思議な建物があり、中に入ると、足を止めてみたい不思議な店があった。
 きっとあなたも、その建物の前を通ったら、違った空気が流れているのを感じるだろう。それを感じて、誘われて建物の中に入ると、そこはもう異空間である。
 今度そこへ行ってみたら、そんな建物はどこにもなくなっているのではないかと思えてきた。
 
 出島通りを出て、新地中華街に向かった。まだ、夕刻5時だった。

 <この項続く>
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

長崎くんち ①

2006-10-12 04:36:41 | * 九州の祭りを追って
 * 長崎へ

 長崎は、わが国では珍しく、開放的でありながら屈折した歴史を持つ。だから、 街は単色ではなく多彩だ。街には、寺社、教会、中華街、オランダ屋敷、原爆碑跡と、その歴史を彩り、また刻んできた様々な足跡が散在している。
 長崎は、戦国時代、キリスト教領地(イエジス会領)となった。それゆえ、寺社はすべて焼き払われなくなった。その後、江戸時代の寛永2(1625)年に、佐賀・唐津の修権者が、今日の諏訪神社を再建した。人々はキリシタン禁教令で、元の宗教に戻っていった。もともと諏訪神社は、長野諏訪大社の流れを汲むものである。
 長崎くんちは、この諏訪神社の祭礼である。旧暦9月9日に行われたから、この名がある。くんちは、全国の寺社で行われているが、この長崎諏訪神社のくんちが最も有名であろう。

 10月8日の夜、新聞で長崎くんちが行われていることを知った。10月7日から9日までの3日間行われていて、翌日9日が最終日だ。僕は、長崎には何回も行っているのに、くんちは見たことがなかった。前から、この長崎くんちと唐津くんちは見てみたいと思っていた。両方とも山車が見ものである。

 10月9日、肥前山口からL特急「かもめ7号」に乗ると、長崎には朝10時半過ぎに着いた。
 長崎駅構内の案内所で、地図のついたくんちの案内書をもらう。
 くんちは、市内の6町が7年毎の持ち回りで、山車を町内に繰り出す。だから、毎年出しものは違ったものになる。山車が、町内の家々を回る。これを庭先回りという。
 今年の出しものは、桶屋町と円山町が本踊り、栄町が阿蘭陀万才、船大工町が川船、元石灰町が御朱印船、万屋町が鯨の潮吹きとある。
 聞くところによると、毎年どこかの町の蛇(龍)踊りが加わるが、今年は鯨の潮吹きがあるので、蛇踊りは休みということらしい。鯨の潮吹きは万屋町のみで、7年ぶりの出しものということで、これが今年の目玉のようだ。しかも、蛇踊りは、くんち以外でも他の催し物で披露されるが、この鯨の潮吹きは、今回を過ぎたら7年後のくんちを待たなければならないということだった。
 この6つの出しもの(山車)が、諏訪神社を朝出発して、各々違ったルートで街中を練り歩くのである。案内書を見ると、各々の出しものの大体の行動先のスケジュールが書いてある。
 このくんちの面白いところは、決められたそこへ行けば見られるというものではなく、山車が流動的に街中を動き回っているというところにある。だから、大まかなスケジュールが書いてはあるものの、どこへ行っていいか分からず、戸惑った。

 とりあえず、諏訪神社の近くまで行くことにした。地図を見ると、今の時間に山車が回遊しているのは、その近辺であることには間違いない。
 市内のメインとなる交通手段は、東京では滅多にお目にかかれない路面電車である。駅前から、すぐに路面電車に乗って、公会堂前で降りた。ここから諏訪神社まではそう遠くない。しかし、見渡したところ、その気配はない。
 路面電車の通る通りから脇へ入ってみた。すると、そこは、古い町並みであった。川が流れていて、石橋がいくつも重なるように架けられている。地図を見ると、今年の出しものの町の一つである桶屋町だ。

 ** 6つの出しものを求めて

 長崎は、路地の街だと思った。
 しとしととやって来た色っぽいお姉さんに、くんちはどこでやっているのか訊いてみた。すると、あっちの方で笛が鳴ってたわよ、と教えてくれた。なるほど、音で分かるのかと納得した。
 八幡町辺りに来たとき、笛と三味線とざわざわとした人の声が聞こえてきた。その方へ近づいてみると、頭に飾りがついた竹竿を持った先導係に連れられた、江戸時代の衣装姿で踊っている一団に出くわした。
 幟を見ると、「円山町の本踊り」である。
 前と後ろに多くの見物人が遠巻きにして、カメラを向けている。踊りの一団が動くたびに、周りを囲んだ人も一緒に動いていく。

 円山町の本踊りと一緒に歩いていると、川の向こう側の出来大工町辺りで音が聞こえてきた。新しい山車だと思って僕は川を渡った。その人込みに近づいてみると、これも踊りの出しものだったが、衣装が違った。踊っている和服の人の中央には、尖がり帽子に髭を生やしたバテレンのような人がいる。
 「栄町の阿蘭陀万才」であった。

 栄町の阿蘭陀万才から離れて、歩き回っているうちに、人に囲まれた大きな塊に出くわした。中にあるのは、今までと違って大きな建造物のようだ。
 近づいたそれは、赤く塗られた船、「本石灰町の御朱印船」だった。旗印に、江戸期、国際的な貿易で栄えたオランダ東インド会社のマーク(VOC)が描かれている。

 もう昼の12時を過ぎていた。路地を歩いていると、賑やかな通りに出た。新大工商店街とある。アーチ型の案内ボードには、別名シーボルト通りと書いてある。
 出しものも来ていないのに、道の両側に人が群れている。何かを待っているようだ。その中でスケッチブックを片手に絵を描いていた人がいたので、どうして人が集まっているのですかと訊いてみた。すると、もうすぐ鯨の塩吹きがこの通りにやって来ると言った。僕も、人込みと一緒に鯨を待った。
 どこからともなく、おっ、来たぞーという声がした。竹竿を持った先導係の人が道の両側に立った。しかし、焦らしているのかと思うくらい、なかなかやってこない。先導係の人が、この鯨はもともと、佐賀の呼子(唐津)から来たものだと教えてくれた。長崎の鯨は聞いたことがないが、玄界灘だったら納得がいく。
 そのうち、笛と太鼓に操られ、黒い丸々とした鯨がやって来た。「万屋町の鯨の潮吹き」である。
 若い男衆が「よっしり、よいさ」と声を上げる。鯨の背中から、水が一直線に吹き上がる。5、6メートル以上は飛び上がっている。鯨の潮吹きだ。
 さすが、今年の目玉だけあって、人気は抜群だ。鯨の動くところに人込みもぞろぞろと集団になって動いていく。僕も、前に後ろに、ついていった。
 町並みから離れて、伊勢神社の境内で鯨は休憩をし、腹の中に水を補給した。そこで、僕も鯨から離れた。

 *** 諏訪神社の「もりこみ」

 もう、6つの出しもののうち運良く4つに矢継ぎ早に出くわし、とりわけ鯨の潮吹きも見られたので、満足だった。
 とりあえず、総本山、諏訪神社に参拝に行こうと思い、神社に向かった。神社は、路面電車の走る大通りから、なだらかな石段が本殿に向かって断続的に続いていた。石段には、人が何人もこちらを向いて座っている。ここで若いカップルがアイスクリームでもほおばっていたら、ローマのスペイン広場を思い出していただろう。
 長い参道を本殿に向かって歩いたが、少しも人が途切れない。それどころか、本殿近くに行くと逆に人が多くなって、たむろしている。別に屋台が出ているのでもないので、どうしてこんなに人が集まっているのか、やはり集まっている人に訊いてみると、これからここへ神輿がやって来るというのである。
 神輿を見るのに、こんなに多くの人が待っているのか、長崎の人は信心深いのかなと少し訝しく思った。しかし、単に神輿がやって来るのではなかった。その神輿は、本殿前の石段を駆け上がるのだという。

 くんちの最初の日(10月7日)に、神輿が神社からしずしずと下りて行き、最後の日(10月9日)に本殿に一気に駆け上がる。これが、くんちの最後の日の一大イベントなのだ。
 本殿の下には、一気駆けが見られる桟敷席が作られ、そこの席は100円の入場料を払わなければならない。せっかくだから、それも見て帰ろうと列に並んだ。
 守子16人により、450から500キロの神輿を担いで、最後の石段73段を一気に駆けるのを「もりこみ」と言う、と場内アナウスンスの説明がある。神輿を担ぐ守子は、昔は農業や漁業を営んでいる屈強な若者だったが、最近は20代から50代までのサラリーマンが多い、という場内説明がおかしかった。
 夕3時過ぎに、宮司や神官、何だか知らないがお偉い人の仰々しい行列のあと、神輿がやって来た。歓声のあがる中、デジカメを撮っているうちに、3台の神輿はあっという間に駆け上がっていった。あっけない終幕だった。

 さて、これから中華街へ行って夕食をし、帰りに思案橋にでも足を延ばし、一杯飲んで帰ろうかな。

 <この項続く>
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

柳川、水天宮の祭りと檀一雄の面影

2006-05-07 01:14:53 | * 九州の祭りを追って
 ゴールデン・ウイークには、柳川に行く。柳川は、佐賀市からバスで約40分、筑後川を渡っていく。筑後川には、珍しい旧国鉄佐賀線(現在廃線)の昇降橋があり、それを眺めながらバスは佐賀から福岡県大川市に入っていく。
 昇降橋とは、高い船が通る時には真ん中の橋桁が持ち上がるのだ。現在も昇降橋は健在で、歩道橋として活躍している。
 柳川では、この時期、水天宮の祭りをやっているのだ。水天宮は、市内に張り巡らされた掘割の南西端、沖端川近くにある。川下りのほぼ終着点で、すぐそばには旧立花藩主の別邸「御花」、また北原白秋の生家がある。
 
 このお祭りは、日本の祭りの原点といえるものがある。
 水天宮の脇の掘割の周りには、ずらりと縁日の屋台が並ぶ。トウモロコシ、たこ焼き、金平糖、リンゴ飴、アイスクリームなどの食べ物。また、お面、子どものおもちゃなどの祭りの定番から、籠や包丁などの刃物を並べた店もある。金魚掬い、矢投げ、籤(くじ)屋もある。
 そして、掘割には、この祭りの主役ともいえる、6艘の舟に支えられた大きな屋形船が浮かべてある。その船は、甲板が舞台になっていて、夕暮れ時から、音が聴こえ始める。きちんと整列した子どもたちが、演奏するのだ。三味線に笛、それに太鼓で奏でられるメロディは、単調だがリズミカルで妙に哀歓がある。
 時折、旅芸人による歌と踊りが入る。子どもの演奏のあとは、大人の演奏になる。
 舞台に上って演奏する子どもは、小学3年から中学1年までとの決まりがあると、今日演奏する子どもが教えてくれた。まだあどけない顔の子どもでも、和服を着て三味線をひいていると何だか色っぽく見えてくる。
 この柳川の情景を、福永武彦が「廃市」という情緒深い小説にしている。

 しかし、柳川といって僕が一番深い思い入れを抱くのは、檀一雄だ。この柳川(檀の祖父母の実家がある)出身ともいえる放浪の作家の生き方に、僕は憧れてきた。檀は、父の仕事の関係であちこち引越ししながらも、子ども時代、正月は必ず柳川で過ごしている。
 
 柳川の掘割をなぞった遊歩コースの途中に、檀の文学記念碑が建っている。そこには、檀の次のような「有明海陸五郎の哥」という詩が刻まれている。
  ムツゴロ、ムツゴロ、なんじ
  佳(よ)き人の湯の畔(ほとり)の
  道をよぎる音、聴きたるべし。
  かそけく、寂しく、その果てしなき
  想いの消ゆる音
 
 僕は若い時、柳川を歩いていて、偶然に入った寺で檀一雄の墓を見つけた。それは、赤い石を四角に彫刻した、周りの墓石とはまったく違った形で、墓碑銘が刻んであった。最近、柳川に行くたびにその墓のことを思い出すのだが、それがどこだったか思い出せないでいた。
 今回、やっとその寺を見つけたのだ。その寺は、立花氏の菩提寺である福厳寺だった。
 墓石は、僕の記憶のままだった。墓碑銘には、次のように刻まれていた。
  石ノ上ニ雪ヲ
  雪ノ上ニ月ヲ
  ヤガテ我ガ
  殊モ無キ
  静寂ノ中ノ
  想ヒ哉
 
 僕は、檀の墓に敷きつめられていた小さな白い石を1個拾ってポケットに入れた。
 
 この墓碑銘を刻んだ墓石を見て、ポルトガルのサンタ・クルス村を思い出した。檀が、一時住んだ村で、海の見える広場に檀の石碑が建って、ここにも檀の一篇の詩が刻まれている。こちらも赤い石で、形は円い。
 1996年、僕が会社を辞めて1人ポルトガルを旅したときのことだ。ふと思い立って、海辺のこの村を訪ねた。
 その村で、檀が通ったという小さな居酒屋の戸を開いた。檀と親しかった居酒屋の主ジョアキンは、檀と同じ日本人で同じ名前(Kazuo)の僕を歓迎してくれた。彼は、ポルトガルの「ダン」という銘柄のワインを取り出して、僕のグラスに注いだ。
 夜が更けるとともに居酒屋に集まってきた地元の酔っ払いの男たちは、誰もが檀を知っていて親しみを持って彼のことを語った。僕は、言葉も分からないまま、夜が更けるまで彼らに紛れて飲んだのだった。

 2000年の暮れ、博多湾に浮かぶ能古の島に渡った。檀が晩年暮らしたところだ。その白い家は少しポルトガル風で、丘の上に博多湾を見下ろすように建っていた。すでに主のいない家の庭で、僕は実をつけているボンタン(ざぼん)を千切りながら、檀の気持ちを測った。
 檀は、能古の島で倒れ、福岡の九大病院に入った。『火宅の人』が最後の仕事だった。そして、それが檀の代表作ともなった。

 柳川の壇の墓石の裏の墓名には、真っ先に「律子」と刻んである。檀の作品『リツ子・その愛/その死』の、先妻の人である。その次は「次郎」である。『火宅の人』の冒頭に出てくる檀の次男である。
 そして、檀一雄は、1912年2月3日生まれで、1976年1月2日没とある。老いても豪快な姿しか記憶にないので、もっと長生きしたと思っていたら、何と64歳で彼は死んでいた。

 檀の『風浪の旅』の中の「小値賀島の女」ほど、面白い旅はない。深夜、東京で酔ってバーから出てきた檀の前にいた名前も知らない女(あとでバーの女と知る)と、その晩思いつきで、当時あった深夜飛行機「ムーン・ライト」で二人して福岡に行き、その足で彼女の故郷である長崎の小値賀島に行く話である。
 この話は壇も好きなようで、『火宅の人』にも登場させている。

 僕も、檀のような旅がしたいといつも思っていた。水天宮の祭りの音色に後ろ髪を引かれながら、早い時刻の終バスで佐賀に戻った僕は、佐賀の酒場で飲んだ。

  ゆきずりの まぼろしの 花のうたげ
  くるしくも たうとしや    壇一雄「恋歌」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

有田の陶器市

2006-05-06 02:20:48 | * 九州の祭りを追って
 佐賀のゴールデン・ウイークといえば、有田の陶器市である。この期間、九州各地からはもちろん、近年では全国から大勢の人がリュックサックやバッグを持って、この市にやってくる。
 しかし、この陶器市という表現は正しくない。有田といえば、陶器でなく磁器なのである。日本では、磁器も含めて焼き物をおしなべて陶器と言っていたので、こういう一般的な呼び方にしたのだろう。同じ佐賀でも唐津焼は、陶器である。
 かつて、なかなか磁器の作成方法がわからなかった日本で、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際、佐賀肥前藩が連れてきた李参平という朝鮮の陶工が、この有田で磁器の原料となる石山(泉山)を発見したのが有田焼の歴史の始まりである。以来、肥前鍋島藩は鎖国内鎖国のような厳重な秘密裏のうちに、磁器である有田焼を完成させ発展させた。それらは、伊万里港から積み荷発送されたので、伊万里とも呼ばれた。
 当時磁器は大変貴重なもので、各藩の大名はこぞって手に入れようとしたし、まだ磁器が作成されていなかったヨーロッパにも、オランダの東インド会社を通して輸出された。当時ヨーロッパでは、宝石と同じ価値で取引されたという。
 
 佐賀の田舎に帰っていた僕は、有田に出かけた。この時期、佐賀に帰っていた時はいつも陶器市に行って、何やら買って帰るので、家の中は焼き物がいっぱいである。もう、必要で買いたいものはない。今年は、ただ見物だけのつもりで出かけた。
 昼ごろ、有田駅を降りたら、もうすごい人込みである。延々と続く出店と人並み。見るだけでも大変な労力である。しかし、こうして一堂にあらゆる有田の品が見られるのは滅多にあるものではない。有田のほとんどの窯や問屋や小売の店が、有田駅から上有田駅までのほぼ3キロの道路の両側に出店を出すのだから、その量たるや圧巻である。1件ずつ丹念に見て回っていたら、1日で見終われない。
 何といっても、陶器市で楽しいのは、掘り出し物の発見である。20年ぐらい前までは、「ただ」とか「10円」などと書かれた品が、籠に入れられていた。傷物であるが、さすがに今日そんな品物は置いてない。
 いい物を高い料金で買うことは容易なことだ。金があれば、誰にでもできる。しかし、楽しいのは、いい買い物をした時である。ここで言ういい買い物とは、その価格にしては絶対買えない特別に安い物という意味と、自分がとても気に入った物、探していた物という両方の意味である。
 
 今回は、買うつもりはなかったが、いいコーヒーカップがあったら買おうと思っていた。有田駅から上有田駅に向かって、店をのぞきながら歩いた。3分の2ぐらいまで来たところで時刻を見ると、もう3時間を過ぎて夕方である。次の電車で帰ろうと決心した。
 あと30分しかないから、少し歩くのを速めようと思ったところで、ある店でコーヒーカップに目がとまった。ハーブの花が描かれたかわいい感じのもので、ジャスミンやラベンダー、カモミールなど何種類かある。カップの裏を見ると、底に「MADE IN JAPAN TOYO CERAMICS ARITA」と欧文で書かれている。こういうのも珍しい。
 店の人に、底を見ながら「輸出用なんですか」と聞いてみた。すると、年配のおばさんは、「いや、そういうのがここの社長が好きなんですよ」と笑いながら言った。そして、「ほれ、その人」とあごで示した。そのあごの先を見ると、苦笑いしている中年のおじさんがいた。夫婦のような印象を受けた。そうでなくとも、家内制手工業のような、この雰囲気は何だかほほえましい。
 そのカップを5種類(5客)買った。
 その店を出て、駅までの通りにある香蘭社で、足を止めた。ここと深川だけはいつものぞいている。しかし、今回は時間もないので、香蘭社だけ駆け足で見るだけのつもりで店内に入った。すると、すぐに、1つのコーヒーカップに釘付けになった。
 丈が高くスマートな見た目だが、容量が大きいのでマグカップといえるものだ。白磁に淡いブルーの丸みをおびた葉がいくつか、そこに小さな南天のような赤い実が数個。
 それも買わずにはいられなかった。
 
 小さな欲望であれ、人間の欲望は限(きり)がない。
 しばらくは、買ったコーヒーカップを眺めて楽しんでいる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする