白石町の稲佐神社をあとにして、急いでやはり同じ白石にある妻山神社に向かった。稲佐神社と同じ10月19日に、妻山神社も流鏑馬が行われるのだ。流鏑馬は、午後3時からだと聞いているが、既に3時30分だ。もう始まっているかもしれない。
わが愛車、マウンテンバイク「グラスホッパー」で15分ほどの距離である。田んぼに囲まれた道を懸命に走る。ここ佐賀平野は平坦な土地だから、自転車でも苦にならない。稲刈りあとの、丸めて転がっている稲小積み(ワラ積み)が秋の叙情を漂わせている。
僕に絵心があったなら、ゴッホのように、ワラ積みをせっせと描くことだろう。
妻山神社の創建も、戦国の争乱で古文書が消失して定かではない。はっきりしているのは、この地の初代須古領主が、この神社を復建したのが慶長12年(1607年)とある。
しかし、文献には、稲佐と同じく、かなり古くから妻山の文字は散見している。
平安期、この地方には杵島庄、太田庄などの荘園があったとされる。平安末期、京都、鎌倉から離れたこの地でも、平氏と源氏の勢力争いの波は押し寄せていて、荘園の規模、支配者は移り変わっている。
この頃、この地の地頭だった綾部氏が白石名に改めたとある。現在の地名の起こりであろう。このとき、高岳城(高城)、稲佐城、妻山城などが築かれている。いずれも、杵島山の麓に位置する。
この頃城が築かれたということは、守護、地頭から武士に変成したということだろう。この杵島の地方にも、何人かの豪族、武士が発生している。
16世紀になって戦国時代、佐嘉(佐賀)に竜造寺隆信が出現する。のちの肥前国(佐賀・長崎)の基を造った豪族(武士)である。
竜造寺隆信は、九州を呑合しようとした豊後(大分)の大豪、大友宗麟を、織田信長の桶狭間の戦いばりの奇襲で打ち破り、一躍強豪の仲間入りをする。その勢いで、西肥前の、現在の白石の須古(高城)に勢力を持っていた平井氏を攻める。平井氏には、島原の有馬氏の後押しがあったが、結局、隆信に攻め落とされる。
織田信長が安土城を築いた頃、竜造寺隆信は白石の須古に高城を築き、肥前の足場を固めることになる。そして、島原の有馬氏を討った隆信は、勢いに乗って北九州一帯に勢力を伸ばす。さらに、南に勢力を拡大しようとして、有馬・島津(薩摩)の連合軍に再度島原で戦いを挑むが、油断したのか討ち死にして、その野望は崩れる。
竜造寺隆信は、九州の織田信長になることなく終わり、のちに、肥前は鍋島氏に取って代わられることになる。
妻山神社の入り口には、「妻山城址」の石碑がある。
大きな肥前鳥居から続く、ここの石段はそう高くなく、登るとすぐに参道に行きつく。そして、参道がまっすぐに長く社殿に向かっている。
この長い参道で、流鏑馬は行われるのだ。
僕がたどり着くと、参道には人が集まっていた。マイクを持った解説の人が、これから馬が走りますというアナウンスをした。流鏑馬の始まりの儀礼が終わり、幸運にも流鏑馬放射にちょうど間に合ったのだ。
この流鏑馬は、葉隠れ神正流ですと解説がある。射手の名前の紹介があるや否や、きらびやかな衣装をまとった射手を乗せた馬が走り出した。射手はすぐさま背から弓を抜き、参道の途中に掲げてある的に向かって弓を放った。パシッと音がして的を射る。休む間もなく射手はすぐさま背から再び弓を抜き、また放った。的は、そう長くない間隔で3つ並んでいた。
4人の射手が、参道を走り抜けた。最後の4人目は、まだ幼い顔をした少年であった。眼鏡をかけていたのが微笑ましい。
4人全員の馬駆けが終わると、ゆっくり参道を戻ってきた。そして、2度目の馬駆けが行われた。的に当たるたびに拍手が起こる。
射手は、ほとんどが錦絵の若武者のような優男で、戻るときは颯爽としていて、時に拍手する見物客に微笑んだ。この瞬間、射手はスターだった。
僕は、一瞬、スペイン闘牛のマタドール(闘牛士)を想い出した。マタドールもスターだった。
最後は、鎧兜の武将姿の武者が馬に乗って参道を走る「だんぎりの儀」で、流鏑馬の儀は終わった。
<追記>
くんちの当日、偶然に妻山神社で会った白石町に住む若者が、稲佐神社と妻山神社は兄妹だというのを知っていますかと言った。驚ろく僕に、彼は次のような説明をした。
稲佐神社と妻山神社の祭神は、兄妹だといいます。
稲佐の方が兄の五十猛命(イタケルノミコト)で、妻山が妹の抓津姫命(ツマツヒメノミコ)です。ちなみに、父は、素盞鳴命(スサノオノミコト)。天皇家の祖神である天照大神(アマテラスオオミカミ)の弟です。
この兄妹は、日本全国に樹木を植えていったそうです。
確かに、稲佐神社の社史に五十猛命の記載はある。しかし、妻山神社の抓津姫命は、どこからの出典だろうと思い、改めて社務所でもらった資料を見た。そこには、確かに、御祭神の項に抓津姫命の名が記載されていた。
両社とも、古い文書は戦国時代に焼失してないという。だとすると、これらの話は、単なる長い間続いた伝聞、伝説なのだろうか。
確かに、白石町は、人知れない謎を孕んでいるようだ。
わが愛車、マウンテンバイク「グラスホッパー」で15分ほどの距離である。田んぼに囲まれた道を懸命に走る。ここ佐賀平野は平坦な土地だから、自転車でも苦にならない。稲刈りあとの、丸めて転がっている稲小積み(ワラ積み)が秋の叙情を漂わせている。
僕に絵心があったなら、ゴッホのように、ワラ積みをせっせと描くことだろう。
妻山神社の創建も、戦国の争乱で古文書が消失して定かではない。はっきりしているのは、この地の初代須古領主が、この神社を復建したのが慶長12年(1607年)とある。
しかし、文献には、稲佐と同じく、かなり古くから妻山の文字は散見している。
平安期、この地方には杵島庄、太田庄などの荘園があったとされる。平安末期、京都、鎌倉から離れたこの地でも、平氏と源氏の勢力争いの波は押し寄せていて、荘園の規模、支配者は移り変わっている。
この頃、この地の地頭だった綾部氏が白石名に改めたとある。現在の地名の起こりであろう。このとき、高岳城(高城)、稲佐城、妻山城などが築かれている。いずれも、杵島山の麓に位置する。
この頃城が築かれたということは、守護、地頭から武士に変成したということだろう。この杵島の地方にも、何人かの豪族、武士が発生している。
16世紀になって戦国時代、佐嘉(佐賀)に竜造寺隆信が出現する。のちの肥前国(佐賀・長崎)の基を造った豪族(武士)である。
竜造寺隆信は、九州を呑合しようとした豊後(大分)の大豪、大友宗麟を、織田信長の桶狭間の戦いばりの奇襲で打ち破り、一躍強豪の仲間入りをする。その勢いで、西肥前の、現在の白石の須古(高城)に勢力を持っていた平井氏を攻める。平井氏には、島原の有馬氏の後押しがあったが、結局、隆信に攻め落とされる。
織田信長が安土城を築いた頃、竜造寺隆信は白石の須古に高城を築き、肥前の足場を固めることになる。そして、島原の有馬氏を討った隆信は、勢いに乗って北九州一帯に勢力を伸ばす。さらに、南に勢力を拡大しようとして、有馬・島津(薩摩)の連合軍に再度島原で戦いを挑むが、油断したのか討ち死にして、その野望は崩れる。
竜造寺隆信は、九州の織田信長になることなく終わり、のちに、肥前は鍋島氏に取って代わられることになる。
妻山神社の入り口には、「妻山城址」の石碑がある。
大きな肥前鳥居から続く、ここの石段はそう高くなく、登るとすぐに参道に行きつく。そして、参道がまっすぐに長く社殿に向かっている。
この長い参道で、流鏑馬は行われるのだ。
僕がたどり着くと、参道には人が集まっていた。マイクを持った解説の人が、これから馬が走りますというアナウンスをした。流鏑馬の始まりの儀礼が終わり、幸運にも流鏑馬放射にちょうど間に合ったのだ。
この流鏑馬は、葉隠れ神正流ですと解説がある。射手の名前の紹介があるや否や、きらびやかな衣装をまとった射手を乗せた馬が走り出した。射手はすぐさま背から弓を抜き、参道の途中に掲げてある的に向かって弓を放った。パシッと音がして的を射る。休む間もなく射手はすぐさま背から再び弓を抜き、また放った。的は、そう長くない間隔で3つ並んでいた。
4人の射手が、参道を走り抜けた。最後の4人目は、まだ幼い顔をした少年であった。眼鏡をかけていたのが微笑ましい。
4人全員の馬駆けが終わると、ゆっくり参道を戻ってきた。そして、2度目の馬駆けが行われた。的に当たるたびに拍手が起こる。
射手は、ほとんどが錦絵の若武者のような優男で、戻るときは颯爽としていて、時に拍手する見物客に微笑んだ。この瞬間、射手はスターだった。
僕は、一瞬、スペイン闘牛のマタドール(闘牛士)を想い出した。マタドールもスターだった。
最後は、鎧兜の武将姿の武者が馬に乗って参道を走る「だんぎりの儀」で、流鏑馬の儀は終わった。
<追記>
くんちの当日、偶然に妻山神社で会った白石町に住む若者が、稲佐神社と妻山神社は兄妹だというのを知っていますかと言った。驚ろく僕に、彼は次のような説明をした。
稲佐神社と妻山神社の祭神は、兄妹だといいます。
稲佐の方が兄の五十猛命(イタケルノミコト)で、妻山が妹の抓津姫命(ツマツヒメノミコ)です。ちなみに、父は、素盞鳴命(スサノオノミコト)。天皇家の祖神である天照大神(アマテラスオオミカミ)の弟です。
この兄妹は、日本全国に樹木を植えていったそうです。
確かに、稲佐神社の社史に五十猛命の記載はある。しかし、妻山神社の抓津姫命は、どこからの出典だろうと思い、改めて社務所でもらった資料を見た。そこには、確かに、御祭神の項に抓津姫命の名が記載されていた。
両社とも、古い文書は戦国時代に焼失してないという。だとすると、これらの話は、単なる長い間続いた伝聞、伝説なのだろうか。
確かに、白石町は、人知れない謎を孕んでいるようだ。