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かりそめの旅

うるわしき 春をとどめるすべもなし 思えばかりそめの 旅と知るらむ――雲は流れ、季節は変わる。旅は過ぎゆく人生の一こま。

妻山神社のくんち

2006-10-23 02:46:17 | * 九州の祭りを追って
 白石町の稲佐神社をあとにして、急いでやはり同じ白石にある妻山神社に向かった。稲佐神社と同じ10月19日に、妻山神社も流鏑馬が行われるのだ。流鏑馬は、午後3時からだと聞いているが、既に3時30分だ。もう始まっているかもしれない。
 わが愛車、マウンテンバイク「グラスホッパー」で15分ほどの距離である。田んぼに囲まれた道を懸命に走る。ここ佐賀平野は平坦な土地だから、自転車でも苦にならない。稲刈りあとの、丸めて転がっている稲小積み(ワラ積み)が秋の叙情を漂わせている。
 僕に絵心があったなら、ゴッホのように、ワラ積みをせっせと描くことだろう。

 妻山神社の創建も、戦国の争乱で古文書が消失して定かではない。はっきりしているのは、この地の初代須古領主が、この神社を復建したのが慶長12年(1607年)とある。
 しかし、文献には、稲佐と同じく、かなり古くから妻山の文字は散見している。

 平安期、この地方には杵島庄、太田庄などの荘園があったとされる。平安末期、京都、鎌倉から離れたこの地でも、平氏と源氏の勢力争いの波は押し寄せていて、荘園の規模、支配者は移り変わっている。
 この頃、この地の地頭だった綾部氏が白石名に改めたとある。現在の地名の起こりであろう。このとき、高岳城(高城)、稲佐城、妻山城などが築かれている。いずれも、杵島山の麓に位置する。
 この頃城が築かれたということは、守護、地頭から武士に変成したということだろう。この杵島の地方にも、何人かの豪族、武士が発生している。
 16世紀になって戦国時代、佐嘉(佐賀)に竜造寺隆信が出現する。のちの肥前国(佐賀・長崎)の基を造った豪族(武士)である。
 竜造寺隆信は、九州を呑合しようとした豊後(大分)の大豪、大友宗麟を、織田信長の桶狭間の戦いばりの奇襲で打ち破り、一躍強豪の仲間入りをする。その勢いで、西肥前の、現在の白石の須古(高城)に勢力を持っていた平井氏を攻める。平井氏には、島原の有馬氏の後押しがあったが、結局、隆信に攻め落とされる。
 織田信長が安土城を築いた頃、竜造寺隆信は白石の須古に高城を築き、肥前の足場を固めることになる。そして、島原の有馬氏を討った隆信は、勢いに乗って北九州一帯に勢力を伸ばす。さらに、南に勢力を拡大しようとして、有馬・島津(薩摩)の連合軍に再度島原で戦いを挑むが、油断したのか討ち死にして、その野望は崩れる。
 竜造寺隆信は、九州の織田信長になることなく終わり、のちに、肥前は鍋島氏に取って代わられることになる。

 妻山神社の入り口には、「妻山城址」の石碑がある。
大きな肥前鳥居から続く、ここの石段はそう高くなく、登るとすぐに参道に行きつく。そして、参道がまっすぐに長く社殿に向かっている。
 この長い参道で、流鏑馬は行われるのだ。
 僕がたどり着くと、参道には人が集まっていた。マイクを持った解説の人が、これから馬が走りますというアナウンスをした。流鏑馬の始まりの儀礼が終わり、幸運にも流鏑馬放射にちょうど間に合ったのだ。
 この流鏑馬は、葉隠れ神正流ですと解説がある。射手の名前の紹介があるや否や、きらびやかな衣装をまとった射手を乗せた馬が走り出した。射手はすぐさま背から弓を抜き、参道の途中に掲げてある的に向かって弓を放った。パシッと音がして的を射る。休む間もなく射手はすぐさま背から再び弓を抜き、また放った。的は、そう長くない間隔で3つ並んでいた。
 4人の射手が、参道を走り抜けた。最後の4人目は、まだ幼い顔をした少年であった。眼鏡をかけていたのが微笑ましい。
 4人全員の馬駆けが終わると、ゆっくり参道を戻ってきた。そして、2度目の馬駆けが行われた。的に当たるたびに拍手が起こる。
 射手は、ほとんどが錦絵の若武者のような優男で、戻るときは颯爽としていて、時に拍手する見物客に微笑んだ。この瞬間、射手はスターだった。
 僕は、一瞬、スペイン闘牛のマタドール(闘牛士)を想い出した。マタドールもスターだった。
 最後は、鎧兜の武将姿の武者が馬に乗って参道を走る「だんぎりの儀」で、流鏑馬の儀は終わった。

 <追記>
 くんちの当日、偶然に妻山神社で会った白石町に住む若者が、稲佐神社と妻山神社は兄妹だというのを知っていますかと言った。驚ろく僕に、彼は次のような説明をした。
 稲佐神社と妻山神社の祭神は、兄妹だといいます。
 稲佐の方が兄の五十猛命(イタケルノミコト)で、妻山が妹の抓津姫命(ツマツヒメノミコ)です。ちなみに、父は、素盞鳴命(スサノオノミコト)。天皇家の祖神である天照大神(アマテラスオオミカミ)の弟です。
 この兄妹は、日本全国に樹木を植えていったそうです。

 確かに、稲佐神社の社史に五十猛命の記載はある。しかし、妻山神社の抓津姫命は、どこからの出典だろうと思い、改めて社務所でもらった資料を見た。そこには、確かに、御祭神の項に抓津姫命の名が記載されていた。
 両社とも、古い文書は戦国時代に焼失してないという。だとすると、これらの話は、単なる長い間続いた伝聞、伝説なのだろうか。

 確かに、白石町は、人知れない謎を孕んでいるようだ。
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稲佐神社のくんち ②

2006-10-22 02:21:56 | * 九州の祭りを追って
 ** くんちの由来

 この時期は、くんちの季節である。
 くんちの祭りは、主に九州で多く行われているようであるが、その謂れははっきりしない。一つは、陰暦九月九日から来たという説。つまり九は陽(奇数)の中で最も高い数字で、それが重なるので縁起がいいという重陽の節供の日である。それで、九のつく日の九日、一九日に祭り事をした。
 また、供日(くにち)がなまったという説もある。
 どちらにしろ、稲刈りの季節の五穀豊穣を祝った祭りであることには違いない。
 しかし、くんちが行われるのが神社やその町によってばらばらなのは、どうしてだろうか。しかも、九の日とは限らない。陰暦は、太陽暦に直すと、年毎に日が違ってくる。今年の陰暦9月9日は、太陽暦10月30日である。陰暦を使用していたときは、どこの町もくんちは同じ日に行われていたのだろうか。
 
 10月19日、この日佐賀県の多くの神社で、くんちが行われた。太陽暦で一月遅れの一九日(くんち)である。
 大町町の福母八幡神社、そして、その南の町にある白石町では、稲佐神社、妻山神社、福富神社で行われた(福富神社は、先の台風の影響で今年は中止になったと聞く)。

 *** 稲佐神社のくんち

 稲佐神社のくんちは古くから行われていた。
そもそも、稲佐神社そのものが古くからあり、平安初期には既に祀られていたとある。その頃は、この辺一帯を稲佐山泰平寺と呼んでいた。この泰平寺を開いたのが弘法大師(空海)といわれている。

 ここは、現在は白石町だが、先の町村合併前までは白石に隣接する有明町だった。
 母の実家が稲佐神社に近い白石町だったので、僕は子どもの頃、この稲佐神社のくんちに連れて行ってもらった。
 僕の稲佐くんちの記憶は、流鏑馬である。馬を走らせながら的を射る武者姿が、子供心に焼きついている。

 地方の神社は、不思議とどこの神社でも一般道から神社を分けるものとして、まずその入り口には階段がある。その階段は、おおむね石段である。その石段を上ったところに神殿がある。
 ということは、神社は山や森や見晴らしのいい高所に建てられていることが多いということである。それは、一般世俗と違った位置にいるということの象徴でもあるのだろう。また、戦国時代は僧侶も武装していた時代があるので、防御のための城壁の意味もあったに違いない。

 稲佐神社も鳥居があって、石段が登っている。まず着いて目を見張るのは、この石段である。何と自然石を敷き詰めてある石段なのだ。だから、石の大きさもまちまちで、当然並びも不揃いで、何段と数えられる階段ではない。それなのに、大きい石は平らに削ってあるので、何となく段の形は整っているのだ。
 上るときは、石を踏み外さないように巧みに右に左に千鳥足の風情で、下を注視しながら歩かなくてはいけない。もちろん、下るときも同様だ。
 この自然石の階段は、今では滅多に見ることができない貴重な史跡といってもいいものである。
 石段の途中に、大きな石が祀ってあるのが目につく。「仁王の足跡石」とある。
また、石段の途中に、ことさら古い鳥居がある。県内最古の「肥前鳥居」である。天正13年(1585年)建立と記されている。

 午後2時から、「おくだり」が始まった。神殿から参道の方に、神輿が下りてくるのだ。
 まず、「獅子舞」が舞った。赤と緑の2頭の獅子だ。この獅子の特徴は、頭が笠のように平坦なことだ。胴の部分の合羽のような布が、獅子の動きとともに翻る。この獅子舞は、昔はなかったので、新しい出しものだろう。
 さらに、長刀の立ち振る舞いが披露された。
鬼の面や幟に続いて、金色の神輿が石段を下りてきた。神官も古式豊かな服装で、厳かな雰囲気だ。神輿は間隔を置いて2台続いた。
 神輿が下ったあと、待望の流鏑馬が行われた。ここは、石段の参道を直角に横切る山道で行われるのだが、距離が長いので迫力がある。
 その道を、射手を乗せた馬が走り抜けた。しかし、この神社では、流鏑馬を行う射手が世襲なので、走りながら弓を射る人がいなくなって、最近は、的の前で一旦止まって弓を射るようになったとのことだ。こうなると、迫力不足だ。
 馬が走るのを見て、妻山神社のくんちに急いだ。妻山神社では、走りながら弓を射るそうだ。

 <追記>
 祭りが終わったあと、稲佐神社の社務所に行ったら、宮司の方が顔を出された。笠原先生である。先生と言ったのは、実は宮司は、かつて僕の母校である武雄高校で国語を教えておられて、僕は習ったことがあるからだ。当時は、ここの神官を兼ねておられるとは知らなかった。
 宮司の先生にしても、この稲佐神社の成りたちは、当時の文書が残っていないので、はっきりしないとのことだった。他の文献に散見しているのを、まとめた資料を頂くことにした。
 ここでもらった神社の資料によると、さらに不思議な記載がされていた。
 社史には、平安時代の稲佐山泰平寺以前のこととして、「天神、女神、五十猛命(いたけるのみこと)をまつり、百済の聖明王とその子、阿佐太子を合祀す」と記してあるのだ。
 これは、何を意味するのだろうか。
 正史に現れた最初の記載は、日本三代実録の貞観3年(861年)のところで、「肥前国正六位上稲佐神・堤雄神・丹上神ならびに従五位以下を授く」とある。
 そして、鎌倉時代の「肥前古跡縁起」には、「流鏑馬祓(やぶさめはらい)様々にして神慮を冷(しず)め奉る」とある。
 この時代から、ここでは流鏑馬は行われていたのである。
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稲佐神社のくんち ①

2006-10-20 23:16:06 | * 九州の祭りを追って
 * 白石町の再発見

 佐賀平野のほぼ中心にある白石町は不思議な町である。
 かつては、白石町の北の方には、大町町を中心に北方町、江北町に連なる県下最大規模の杵島炭鉱があり、石炭産業全盛期はこれらの町には活気と勢いがあった。西の武雄、嬉野には古くからの温泉があり、南の鹿島には日本三大稲荷神社の一つである祐徳稲荷神社がある。
 これらの少なからず特徴のある町に囲まれて、白石町は、平坦な田んぼが広がる、ことさら特徴を挙げるべくもない農業の町だと思っていた。しかし、時代は変わり、産業構造も変わった。エネルギー革命によって、石炭産業は衰退し、先の鉱業を基盤とした3町の特徴は消えうせ、町は衰退の一途をたどった。
 そんな中、白石町は我関せずとばかり、淡々と農業にいそしんできたという印象がある。過疎だ、老齢化だと悩める多くの町村を横目に、変わらないスタンスでいたのが白石町だ。
 しかし、じっくりとこの町を見渡してみると、単なる農業だけの町ではない、謂れ多き歴史が見え隠れしているではないか。

 この地にある杵島山には三神を祀ると、奈良時代の「肥前風土記」に記されている。つまり、昔から神聖な山として崇められていたようである。
 また、杵島山は、万葉の歌に詠まれた山でもあり、歌垣の跡が残っている。そこには、次の一首が刻まれている。
  あらふれる 杵島が岳を 峻(さか)しみと
  草とりかねて 妹(いも)が手をとる

 しかし、その地へ行ってみても、若い男女が愛の歌を交わしたという、いにしえの恋人たちを想像するのは難しい。それは、杵島山が、他と異なる絶景を持っているとも、ロマン溢れる想いを抱かせる風景とも言いがたい、言わば平凡な山だからかもしれない。
 以前から、人口密度の低い、農家しか散在していないこの地方に、なぜ謂れのある寺社がいくつもあるだろうと不思議に思っていた。これは、思うに、杵島山の持つ古い伝説の威力なのだ。
 
 なぜ平凡な杵島山に、伝説がもたらされたのか? 
 おそらく、それをもたらしたのは、その麓に広がる昔からの肥沃な土地、豊かな実りをもたらした農業の里があったからに違いない。白石には、面々と続いている、変わらない営みの風土があるのだ。
 ちなみに、この地方の米、特に「ヒノヒカリ」は、新潟米に劣らず最高級に美味しいと思う。
 ここに立ってみると、どこまでも平坦な田んぼが広がっている。南は有明海へ行きつき、東のその先には、邪馬台国の故里、吉野ヶ里へ続き、さらに大宰府に繋がっている。
 ここでは、いにしえから、豊かな土地の上に、密かに、控えめに、いにしえの営みが行われていたのだ。

 杵島山の麓には、流鏑馬で有名な妻山神社があり、南に下って平安期からあるという稲佐神社、福泉寺がある。
 
 稲佐神社の建立の時期は定かではない。神社案内の立て木には、弘法太子(空海)に由来するとの記がある。長い石段の上の社殿の脇には、樹齢600年を超える大きな楠の木が、あたかも賢老が白石平野を優しく眺めるように2本聳えている。

 稲佐神社の南、飯盛山の麓の福泉寺は、和泉式部の生誕の地という伝説がある。にわかに信じ難いが、それなりの話が伝えられている。
 略して説明すると、寺の小僧が、寺の裏で鹿に抱かれた赤ん坊を見つける。皆でどうしようかと思案しているとき、隣町の塩田町の子どものいない夫婦が、この寺に女の子がいるという神のお告げがあったと言って、子どもをもらいに来る。
 その女の子は、和泉式部と名前をつけて育てられ、やがて美しさと賢さを備えた才色兼備の女性に成長する。この噂が京に伝わり、宮仕えする身になったという話である。
 塩田町に、五町田という地名があり、それはそのときの御礼の地のことだというのである。
 式部は、美貌と教養のせいで、二度と京からこの地へ帰れない身となったが、望郷に駆られて、次の歌を詠んだとある。
  故郷へ帰る衣の色朽ちて 錦の色や杵島なるらん

 また、杵島山の中腹には、出水の地、「水堂さん」(みっどさん)がある。ここの水堂本尊は、奈良時代の高層行基が、諸国巡教中にこの地に足を止め、観世音像を彫ったと伝えられている。そして、平安期の高倉天皇が、平清盛の長男、重盛に命じて、この水を取り寄せ、病を治したという言い伝えもある。
 そのころより800年もの間、出水の法要の祭りが未だに続いて行われている。
 
 いま挙げたこれらは、ほんの一例に過ぎないかもしれない。白石町を中心としたこの地方には、もっと知られてもいい、歴史の足跡があちらこちらに散在しているように思えてきた。
 平凡な顔をしたこの町の奥には、密かな知られざる謎がひっそりと息づいているかもしれない。

 さて、10月19日、白石町の稲佐神社と妻山神社でくんちが行われるという。稲佐神社のくんちには、子どもの頃行ったことがあるが、妻山神社は行ったことはない。
 両神社とも、流鏑馬が行われるというではないか。両方のくんちに行ってみた。
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長崎くんち ④

2006-10-15 01:58:57 | * 九州の祭りを追って
 ****** 更けゆく思案橋

 長崎の新地中華街でチャンポンを食べて外へ出たら、すっかり日は暮れていた。既に夕刻7時だ。
 さあ、夜のネオンを探し求めようと歩き始めた。中華街から銅座町を抜け、思案橋の方に行こうと思ったら、通りの先にアーケードが見えた。明かりに照らされて道が輝いて見えたので、そちらの方に行ってみた。この辺りは、長崎で最も賑やかな一帯だ。
 浜町の浜市アーケードだった。華やかで綺麗な商店街だ。かつて佐賀市も、このようなアーケードが街の中心にあり輝いていたが、今はすっかり廃れてしまった。
 アーケードを思案橋の方向に並行して歩いていると、博多大丸長崎店の前辺りで、人の塊がある。十字路の中心を人垣が覆っている。通りを渡ることすら困難な、人の多さだ。中で、何かが行われているようだ。
 大道芸だろうかと、人込みの中から覗いてみた。誰かが挨拶をしているようだ。挨拶する人は、紋付に黒いハットを被っている。今までに出会った、出しもの(山車)の先頭を歩いている人には、このようないでたちの年配の男性が多かった。このような人たちがいるだけで、祭りの軽やかさに厳かな歴史の重みが加わるように感じられた。町の、あるいは商店街のお偉いさんであろうか。
 その後ろに、化粧をした揃いの和服姿の妙齢の女性が並んでいる。周囲にはやはり和服を着た若い男性が、人込みを整備するように座っていた。挨拶が終わり、後ろに整然と座っていたしとやかな年配の女性たちが三味線を弾きだすと、踊りが始まった。
 何と、「桶屋町の本踊り」だ。朝、諏訪神社を出発した一行は、あちこちの通りの庭先周りを経て、ここにたどり着いたのだ。そして、この日ここで、くんち最後の総決算ともいうべき本踊りをやるのだった。
 こうして偶然にも、僕は6町のすべての出し物(山車)を見ることになった。
踊りは華やかで、美しかった。人込みから、時折「みっちゃん、いいぞ!」といった掛け声がかかった。
 踊りはいくつか演目が変わり、踊り手も変わって、30分ぐらい続いた。

 踊りが終わったので、やっと思案橋に行くことにした。すぐ近くだ。
思案橋は、「どうすりゃいいのさ……」と「長崎ブルース」の歌にも歌われた盛り場だ。スナックや居酒屋が並んでいる。盛り場は、どこの街でも歩くだけでも楽しい。しかし、この日は休日ということもあって、休みの店が多いようだ。
 歩き回っているうちに、またまた人垣に出くわした。人垣の中心は空間で、そこにやってくるのを待っているようであった。店の集まる通りの方から、掛け声が聞こえてきた。近づいてみると、あの「本石灰町の御朱印船」だった。もう夜の8時過ぎというのに、通りの家々や店々を周っていたのだ。
 御朱印船の先導役は、店先で、「遅くなりました」と挨拶している。やがて、最後の家の庭先回りが終わったのだろう。御朱印船は、小さな広場の集まっている人込みの中にやってきて、港に船が停泊するように止まった。歓声の中、挨拶が行われた。くんちが終わったのだ。おそらく、この一行が最後だろう。

 時計を見ると、もうどこかの店に入って飲んでいく時間はなかった。僕は、残りの時間をこの界隈の散策に費やし、長崎駅に向かった。
 僕には列車の中で酒を飲む趣向はないのだが、夜だし、思案橋で飲めなかったのだからと自分に言い訳して、駅のキヨスクで缶ビールを買った。
 長崎発21時30分「かもめ20号」は、賑やかだった祭りのことなど忘れたかのように、静かに夜の中を走り出したのだった。僕にとっては、早すぎる最終列車だ。
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長崎くんち ③

2006-10-14 01:30:16 | * 九州の祭りを追って
 ***** 新地中華街のちゃんぽん

 夕食を食べようと、出島通りから新地中華街に向かった。夕刻5時である。
 築町に入ったすぐにあるワシントン・ホテル前で、昼頃伊勢町辺りで出合った「本石灰町の御朱印船」がとまっていた。諏訪神社から、いくつかの街の通りを、そして路地を過ぎ、ここまで南下してきたのだ。
 中華街の入り口には、中国式の門が建てられていた。ここは、200メートル以上の十文字の通りの両側に、中華料理店や雑貨屋が軒を連ねていた。料理店の店先には、料理の実物サンプル、あるいは写真つきのメニューが飾られている。もちろん、どれも値段が表示されている。ところどころ店の軒下で、中華マン(豚マン)の湯気が漂う。
 横浜の中華街に比べれば小ぶりだが、雰囲気はよく似ている。長崎の大きな特徴は、どの店にも、ほとんどちゃんぽんがあることだ。
 どこの店でも、大体ちゃんぽん、皿うどんの値段は735円である。その中で、特上ちゃんぽんと謳っている店があった。当店人気ナンバーワンとあり、料金も倍の1575円である。自慢げで少し鼻についたが、気になった。

 とりあえず、中華街の通りをすべて見回り、どこか店に入ろうと思った矢先に、大通りの向こうで、例の祭りの笛の音が聞こえてきた。その音のする方に行ってみた。大きな山車のようである。
 それは2層になった船であった。「舟大工町の川船」である。ここで出合うとは幸運であった。これで、6町の出しもののうちの5つ見たことになった。
 そこへ、また「本石灰町の御朱印船」がやって来た。一時とまっていたのが、また一息入れて動き出したのだ。街の一角に、2つの船が練り歩いている状態になり、通りは賑やかになった。
 
 再び中華街に戻ったときには、既に6時になっていた。先ほど気になっていた料理店、江山楼は満席で、入り口で数組が待っている。その店の道の向かい側に、同じ屋号の店があった。入り口の受付の人に聞いてみると、同じ店と言う。メニューも同じで、特上ちゃんぽんが目玉である。こちらの店もほぼいっぱいであるが、待つことはなさそうである。
 僕は、テレビや雑誌などで紹介される行列のできる店には行きたいと思わないが、このちゃんぽんはどんな味か食べてみたいと思った。
 ちゃんぽんは3種類あって、並と上、特上となっていた。特上ちゃんぽんと熱燗の紹興酒(老酒)を銚子1本頼んだ。特上ちゃんぽんは、謳い文句に20種類の具材と旨味とある。
 ちゃんぽんを運んできた仲居さんが、真ん中にあるのがフカフィレですと説明した。それは、喉仏のようにちゃんぽんの中央に、ふわりと乗っかっていた。フカフィレだけは特別なのだ。
 まず、スープを飲んだ。少し甘味のある潮の味がした。麺を食べた。柔らかく、具としなやかに絡んでいる。
 食べながら、具材を数えてみた。キャベツ、モヤシ、小ネギ(ワケギ)、チクワ、カマボコ、イカ、豚肉あたりは定番であろう。それに、ツミレや白玉団子のようなもの、ウズラ卵、シメジなどが目につく。しかし、何と言っても、フカフィレに象徴される、小さなアサリ、貝柱、エビなどの海鮮具材が、このちゃんぽんを特別のものに仕立て上げていた。
 キクラゲのようなものがあったので、係りの人にこれはクラゲかと訊いてみた。それは、ナマコだと言った。これら海鮮の具材が、味に潮の風味を生み出していた。
 具材は15種類は分かったが、あとは分からない。
 紹興酒を飲みながら、時間をかけて、具の多いちゃんぽんを食した。ちゃんぽんは、自慢するだけのことはあって、おそらく極上の味だった。
 おそらくとつけたのは、僕はちゃんぽんは大好きだが、それほど多くの店を回ったわけではないからである。東京で美味しいちゃんぽんに出合ったことがないし(だから、ほとんど食べないし)、佐賀に帰ったときに行く店は、大体決まっている。
 最後のスープの一滴まで啜った。

 中華街を出て、思案橋に行き、一杯飲んで帰ろうと思った。時計を見ると7時を回ったところである。佐賀の家には肥前山口から在来線に乗り換えなければならないので、長崎発の9時30分の特急が最終だ。1軒ぐらい行けるだろう。
 中華街を出て、銅座町に入ったところの路地の先に、「豚マン」という幟が目についた。行ってみると、窓口だけといった小さな店で、そう若くはない女性が立ったままニコニコと迎えてくれた。テーブルもないので、テイクアウトの店なのだ。
 貼り紙に、豚マン1個50円とある。「いくつでもいいよ」と、女性は言った。
 若い 男性がやって来て、「2つ」と言って、ほかほかの豚マンジュウを持って帰った。
 その女性は、「私、本場の中国人。これ、私が一人で作った。あなたも一人? 美味しいよ」と、僕に向かって笑顔で言った。しかし、僕が独り者とどうして見抜いたのだろう。それとも、僕の考え過ぎだろうか。
 僕が、「餃子もあるの?」と訊くと、「餃子は売り切れたの」と言う。「すぐ食べるのじゃなく、明日食べるのだから焼いてなくていいよ」と付け加えると、生餃子を箱から出してくれて、焼き方を細かく説明した。僕は、豚マン3個と餃子2皿分を買った。
 僕が、「焼いてないから、餃子は少しまけてくれる」と、ものは試しに言ってみると、彼女は、「ほかの人に言っちゃだめよ」と言って、割り引いてくれた。僕は笑って頷いた。
 帰り際に、「じゃんじゃん売って、もうけて中華街の料理店のように、大きな店を出したら」と僕が言うと、彼女は「ムリよ」と答えた。「いや、大丈夫だよ。じゃんじゃん売りなよ」と、さらに言うと、「うん」と言って、彼女は笑った。
 包み紙には、愛華園とちゃんと店の名が印刷されていた。そこに、彼女の心意気が感じられた。

 銅座町を過ぎると、アーケードが見えてきた。かなり華やかな通りだ。

 <この項続く>
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